いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

『山月記』問題と、現在の「国語教育」について


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 『山月記』って、いまでも教科書に載っているんですね。
 ネットでも「意識高い系」とか「承認欲求」を語るときによくネタにされています。
 「なぜ『山月記』なのか?」というのは、今まであまり疑問に感じたことはありませんでしたが、3年くらい前に、このブログでも『山月記』について書いたのです。


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斎藤美奈子さんの『名作うしろ読み』の文庫版に、『山月記』も採りあげられていたのです。


斎藤さんは、『山月記』について、こう仰っています。

 詩人になりたいという夢を果たせず、トラにされた李徴。小説としては鮮やかな幕切れである。が、教育的にはどうなのか。「臆病な自尊心と、尊大な羞恥心」をキーワードに、学校では「才能があっても努力しなければダメである」みたいな教訓をむりやり引き出す。でもこれ、「才能もないのに夢をみても人生を棒にふるだけである」とはいえない?
 これが太平洋戦争中に発表され、かつ同じ年に作者が死去したことを思うと、トラの咆哮は夢に邁進できなかった若者の「ちくしょう!」という叫びにも思えるが、戦後、この小説が教科書に採用された理由は謎である。芸術家を夢みる青年に釘を刺し、マジメに労働に励めといいたかったのか。それもまた、教育的ではないとはいえませんけど。


「臆病な自尊心と、尊大な羞恥心」か……
「教科書的な」という言葉は、「典型的な」「一般的な」という意味で使われることが多いのだけれど、実際に教科書に載っている作品には、一筋縄ではいかないものも多いのです。
夏目漱石の『こころ』とかも、そうだよなあ。

 この『山月記』格調高い文章で僕も大好きなのですが、その一方で、「才能があっても、努力しないとダメだ」というような「読み」が正しいのかどうか、僕はずっと疑問だったのです。
 いやむしろ、努力することは当たり前として、それだけではたどり着けない場所みたいなものがあるのではないか、とか、人生というのは、結局、なるようにしかならないのだ、とか感じていたんですよね。
 だって、この李徴という人のキャリアの途中で、誰かが「お前才能ないから、詩人になんかならないほうがいいよ」「家族のために、平凡な官僚として一生を終えろよ」とアドバイスしたところで、聞き入れてもらえるとは思えない。
 もし、彼に対してなんらかの影響力を行使できる人物がムリに李徴を「安定した生活」に押し込もうとしたら、李徴はずっとその人を恨み、「自分は詩人として世に出るはずだったのに」と後悔し続けたはずです。
 外部からの「客観的な意見や評価」は、李徴を諦めさせることはできなかったと思う。
 そもそも、李徴という人物が抱えていた「臆病な自尊心と、尊大な羞恥心」みたいなものって、詩人としての才能にもつながるのだろうし。


 僕にとっての『山月記』の解釈は、年齢を重ねるにつれて変わってきているところがあって、学校で習ったときには、たしかに「人間性とか協調性がないと、多少才能があってもそれを活かせない」というような「教訓」を得て満足していたのですが、今は「まあ、こういうふうにしか生きられない人っているよな。李徴もこうして教科書に載りまくっているような『山月記』に名を残せたんだから、これはこれで本望だと言えなくもないか」という感じなんですよ。


 そして、『山月記』の魅力って、漢文調の格調高い(と思われる)文章ではないか、とも思っています。


 『平家物語』の冒頭の「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり」とか、ああいう、名調子って、ずっと耳に残りますよね。
 最近では、米津玄師さんの『Flamingo』を聴いたときに、『山月記』を思い出しました。もちろん、直接の影響というよりは、ラップとかヒップホップの文脈に沿って生まれてきたものなのでしょうけど、「古典的で格調高い言い回しが韻を踏み、リズムにのって畳みかけられてくる」というのは、格好良いし、心地よいものです。
 『山月記』の魅力は、内容よりも、文体とか文章のリズム感なのかもしれないな、と新井先生の話を読んでいて感じました。



 まあ、あれこれ書いてきたのですが、とにかく「僕は『山月記』が好きだ!」というだけのことなんです。
 個人的に「人間が人間以外のものに変化してしまう話」というのが、昔からなぜかとても気になる、というのもあります。
 『ブラック・ジャック』の最初のほうの話に、歩けなくなった人間を手術で鳥にしてしまう話とか、なんだかすごくソワゾワしました。
 鳥って、けっこう大変じゃない?とか思いつつ。


fujipon.hatenadiary.com


 あらためて考えてみると、僕は国語マニアみたいなもので、国語と歴史だけは学生時代に困ったことがなかったのです。
 だから、新井先生の『教科書が読めない子どもたち』の話には衝撃を受けました。
 もっとも、数学や物理に関しては「書いてある文字が読めないわけではないのだが、どう考えても、そこから解答に向かって頭が働いてくれない」ことばかりだったので、「教科書が読めない子ども」というのも、そういう感じだったのではないかと。


 最近読んだ、『もっと言ってはいけない』という新書では、「日本の成人でも3人にひとりは、ごく単純な日本語の問題文を読解できない」(つまり、昔から「教科書を読めない子どもたち」は同じくらい存在していた)、そして、そんな日本でも、「教科書レベルの読解力」を持つ人の割合は、先進国のなかで上位にランクされている、ということが紹介されていました。
 

 21世紀のアメリカでは、成人人口約2億1600万人のうち、難しい文章を読めないひとが約9200万人、地図や図表を理解できないひとが約7300万人、コンピュータを使った作業ができないひとが約1億2000万人もいて、すべての分野にわたって、「優秀」と評価されたひとは成人人口の約13%(約2800万人)程度だ。彼らが知識社会に適応したひとたちだとすれば、残りの87%(約1億9000万人)は、程度の差はあれ、適応になんらかの困難が生じていることになる。
 先進国ですら、大半の労働者は知的作業が要求するスキルを満たしていない。――これが、私たちが生きている世界の「ファクト(事実)」だ。


 『もっと言ってはいけない』という新書も、けっしてフラットな分析がされている感じではないのですけど。
(何が「フラット」なのか、というのも難しい問題ですよね)


 「国語教育」について、新井先生が仰っていることを読んで、この話を思い出しました。

「はじめてわかる国語」(清水義範著・西原理恵子・絵:講談社文庫)より。


(清水さんと、古今の「文章読本」について分析した『文章読本さん江』という著書のある斎藤美奈子さんとの対談の一部です)


清水:もうひとつ面白いのはね、文学的指導ね。つまり、「そのときどう思ったの?」というやつです。


斎藤:子どもの作文指導には、必ずそれがありますね。


清水:「目の前で友だちがペタンところんだ。先生が来て助けた」という作文があるでしょ。そのときあなたはどう思ったの? 心の動きを書きなさい、というね。


斎藤:そうそう、それがウザいんだ。


清水:私も最初はやっていたんです。そういうふうに書いたほうが、作文は豊かでいいものになるのかな、と。「みじめだなと思いました」とか「かわいそうだなと思いました」とか書いてあるほうが、「ころんだ」というよりもいいだろうと思っていた。でもどうしてもそれが書けない子がいました。
 ところが、その子はそういうことが全く書けないのに、報告文なんかを書かせるとメチャメチャうまかったりすることがわかったの。


斎藤:わかります、わかります。


清水:だから、「心が書けるようになろうね」という側へ引っ張っていってもいい子もいるよ。でも、全員そっちへ持っていこうと思ったら大間違いだということに気づいたんですよ。


斎藤:いい話だなあ。


清水:ある男の子が、学校でやったことを書く作文が、5年生なのに2年生ぐらいのレベルなんですよ。「体育の時間に体操をやった。ころんだ。うまくできた。わりと楽しかった」というやつですよ。何書いてもそうで、これは国語レベルが低い子だなと思っていたんですよ。
 そしたらその子が、映画の「タイタニック」が気に入って、調べたことを書いたんです。タイタニックというのは1900何年に何々港を出て、3日間航海して、どこそこ沖で……というのを。自分で調べて書いたんです。そしたら、ちゃんと記事になっている。
 だから全然違う才能の持ち主がいるんで、型にはめてはいけないということがわかった。


斎藤:私が知っている子どもは伝記が好きで、シュヴァイツアーはこうでしたとか綿密に書くんだけれども、先生のメモは必ず「それであなたは何と思ったのかな?」とついてくるんですね。
 彼としては、そういうことを書くのは美学に反すると思っている。自分が思ったことよりも、ここに出てくるこの人のほうが素晴らしくて、それを先生に教えてやりたいと思っている。ただ、あまりにも「○○君はどう思いますか」というのばっかりくるから、彼は「感動した」と一言つけるというパターンを学んだんです。前と同じように書いて、最後に「感動した」の一言で逃げる。小泉方式です(笑)。
 学校は、それでどう思ったかということを書かせるのがいい作文教室だと思っている。


清水:だから子どもは卑怯なことを覚えてしまうわけです。こう書くと先生が喜ぶという技ばっかり身につけているわけです。だから「僕もそういう人になろうと思いました」なんて大嘘をね。


斎藤:それが大人になっても続くんだ。


 このあと、斎藤さんは、「国語教育といっても、なかば道徳教育ですから、それがもう1つの問題ですよね」と仰っておられます。言われてみれば確かにその通りで、現在の「国語」、とくに「作文」というのは、「わかりやすくて簡潔な文章を書く技術」というよりも、「どんなことを考えたか?」で評価されることが多いのです。
 どんな名文であっても、そこに書かれている「感想」の内容が「やっぱり戦争は素晴らしいと思いました」とかであれば、絶対に「読書感想文コンクール」で賞状を貰うことはできないでしょう。
 「本」にもさまざまなジャンルのものがあって、推理小説は好きでも純文学はダメとか、ノンフィクションはよく読むけれどファンタジー小説は理解しがたい、という人がけっこういるように(というか、「本好き」の大部分は、多かれ少なかれ、自分の「守備範囲」みたいなものを持っているはずです)、「国語」という教科には、さまざまなジャンルの文章が含まれています。
 ここで例に挙げられているような、「感想を書くのは苦手だけれど、主観を極力排して事実を的確にまとめる才能を持っている人」というのは確実に存在しているのですが、残念ながら彼らの多くは「国語嫌い」になってしまうのです。



 新井先生はこんなツイートもされています。
 正直なところ、ネットで議論をしたり、ブログを書いたりする人の多くは、もちろん僕も含めて、(自称)「国語強者」「日本語強者」なわけです。
 でも、世の中には、もっと基本的なところで、立ち止まってしまう人が少なくない。



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 鈴木大介さんの『最貧困女子』という新書に、売春をして、なんとか生活費を稼いでいるというシングルマザーの話が出てきます。

 ショックだった。よくよく考えれば当たり前のことなのだが、シングルマザーで子供を抱え、誰からも経済的な援助の手を差し伸べられず、自らも稼ぐことができなければ、誰しもが加奈さんのような状況に陥りかねない。シングルマザーというものが、これほど社会的、経済的に崖っぷちの不安定な中にあることを、それまで僕は真剣に考えてこなかったのだと知った。
 いや、ここまで追い込まれる前に、なんとか仕事は探せなかったのか。これほどの困窮に陥れば、さすがに公的な支援を受けることだってできるはずだ。この時点ではまだ僕もそんな甘い考えをもっていたが、加奈さんを前に話を聞いていると、そんな正論が何の意味ももたないことを痛感する。


 このシングルマザー「加奈さん」の話を読んでいて、著者が書いている「甘い考え」って、日本の福祉行政は、ここまで困窮している人にも、援助してくれないのか……?と疑問になりました。
 そして、その「理由」を読んで、僕は絶句してしまったのです。

 まず彼女はメンタルの問題以前に、いわゆる手続き事の一切を極端に苦手としていた。文字の読み書きができないわけではないが、行政の手続き上で出てくる言葉の意味がそもそも分からないし、説明しても理解ができない。劣悪な環境に育って教育を受けられなかったことに加え、彼女自身が「硬い文章」を数行読むだけで一杯一杯になってしまうようなのだ。
 そんなだから、離婚して籍を抜くにしても、健康保険やその他税金などの請求について市役所で事情を話して減免してもらうにしても、なんと「銀行で振込手続きをすること」すら、加奈さんにとっては大きなハードルだった。18歳で取得した自動車免許も、更新手続きを怠って失効している。子供の小学校入学の手続きにしても、実質的に地域の民生委員が代行してくれたようだった。
 通常こんな状況なら、消費者金融などでさぞや大借金しているのだろうと思ったら、なんと彼女は借金の手続きすら苦手の範疇。唯一の借金は、サイトで知り合った闇金業者を自称する男から借りた2万円だという。
闇金さんね。貸してほしいって泣きながら頼んだけど、2万が限度だって。でもそれも、そのあとに3回ぐらいタダマンされたから、チャラかな」
 滔々とその生い立ちと現在の苦境を語る彼女を前にして、僕自身が思考停止になってしまった。


 「手続き類」って、たしかにめんどくさいですよね。
 僕も嫌いだし、苦手です。そもそも、好きな人は、あんまりいないと思う。
 でも、これだけ生活に行き詰まっていても、「手続きというハードル」を越えることができない人がいるなんて……


 学校の国語教育では、「道徳」を教えるよりも、セーフティネットに自力で頼れるくらいの文章を読めるトレーニングを、まずやるべきではないのだろうか。もちろん、全ての時間をそれに使え、というわけじゃないし、読解力だけの問題ではないかもしれないけれど。
 「読めない、手続きができない人」の存在を、行政も認めて、歩み寄る姿勢が必要でしょう。

 もしかしたら、いまの日本の社会って、こういう人たちへのサポートを切り捨てることを「暗黙の諒解」にしているのではないか、とも感じているのです。 
 基本的に、「助けてもらうためには、自分から声をあげなければならない」システムだから。
 現場の人たちは、「手続きができない人たち」の存在を認識しているはずだけれど、そこに手を差し伸べるかどうかは、担当者の善意にかかっているのです。
 

 話がやたらと広がってしまったのですが、『山月記』の李徴の煩悶というのは、ものすごく「贅沢なもの」なのかもしれません。
 それを「理解できる(つもり)」ということも。


 ただ、僕は疑問に感じてもいるのです。
 
 じゃあ、この「教科書が読めない」「手続きができない」人たちは、教えられることによって、「できる」ようになるのだろうか。
 こればっかりは、やってみないとわからない、としか言いようがないのでしょうけど。


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もっと言ってはいけない(新潮新書)

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最貧困女子

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