いつか電池がきれるまで

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「『劇場版ドラえもん』マンネリ化問題」について


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 僕がはじめて映画館で映画を観たのは『のび太の恐竜』(最初のドラえもん映画)で、『ゴジラ』の映画が同時上映だったのを覚えています。
 昔は、映画って2本立てが当たり前だったんだよなあ。今から考えると、お得だったような気もするし、観たい映画だけ観られる現在の状況のほうが効率的なのかもしれないし。当時は家庭用ビデオデッキも普及しておらず、「映画を観るには、映画館(あるいはその他の会場)で上映されているものか、テレビ放映されているものを観るしかない」時代であったことも付記しておくべきでしょう。夏休みの夜とかに、高架下で「子ども会の映画上映」とかあったなあ。

 というように、とかく年寄りの話は長くなりがちなので本題に戻ると、「ドラえもん映画のマンネリ化」あるいは「パターン化」は、僕もずっと感じているのです。
 大人的、あるいは親的な立場からすれば「まあ、1年に1回のお祭りだから、子どもたちが楽しんでいてくれればいいや」あるいは「こうしてお金を落とすことによって、僕たちの『ドラえもん』が続いてくれるのなら、個々の作品の面白い、つまらないには目をつぶろう」とも思っています。
 
 藤子・F・不二雄先生が亡くなられたのは1996年ですから、もう26年も経ってしまいました。
 26年前のコンテンツが、いまだに生き残っていることそのものがすごいのですが、久しぶりに最近のテレビ版の『ドラえもん』を観てみると、昔よりもテンポが速くなり、次々にいろんなことが起こるようになっていると感じます。昔より明らかに「密度」が高い。
 『ドラえもん』のキャラクターや物語の基本は活かされているけれど、演出はかなりアップデートされてきているのです。
 『チェーンソーマン』と『ドラえもん』を子どもたちは並行して観ているし(子供向けじゃないんだけどなあ、って言うんですけどね)、『ドラえもん』は、むしろ、僕のような親世代にとっての、「子どもに安心して見せることができるコンテンツ」として生き残っているようにも思われるのです。

 『ドラえもん』は、藤子・F・不二雄先生の代表作であり、先生の好奇心と優しさから生まれた漫画なのですが、F先生がすでに故人であるがゆえに、「F先生らしくない作品」は作りにくくなり、没後四半世紀も経ってしまうと、「『ドラえもん映画のフォーマット』から外れてしまうこと」がさらに難しくなってきていることは間違いありません。

 逆説的にいえば、高橋留美子先生が生きていて、「あれは私の作品じゃない」と言えたからこそ、押井守監督は『ビューティフル・ドリーマー』を作れた、とも思えるのです。
 あるいは、作者が無くなって何百年、とかいうレベルになれば、二次創作として「新解釈○○」も「あり」になっていくのでしょう。
 羅貫中が転生してきて、あるいは彼の子孫が『新解釈・三国志』にクレームをつける、なんてことはありえないし(というか、『三国志演義』も、かなり史実を脚色しています)。

 当代きっての作家・脚本家たちを擁していても、ほとんどの作品が「過去の焼き直し」「マンネリ」になってしまっているというのは、近作はリメイクが多い、というのもあるでしょうし、「らしくない」という批判を恐れざるをえない、という面もありそうです。

 近年の『ドラえもん』は、映画・テレビ番組が軸であることは変わりないとしても、『ドラえもん』という誰もが知っているアイコンを利用したキャラクタービジネス、という側面を持っており、ドラえもんがチェーンソーを持って殺戮しまくるような映画をつくるわけにもいかない。
 1年に1作の新作なら、みんな「お祭り」として喜んでみてくれるけれど、最近はネット配信で、旧作を観るのも簡単になったので、観る側のハードルも上がっているのです。

 ここまで書いて、以前、まさにこの「ドラえもん映画マンネリ化問題」について書いたことがあるのをおもいだしました。


fujipon.hatenablog.com

 2015年に書いたものなのですが、ここからさらに現在、2023年まで『ドラえもん』も『ONE PIECE』も続いているのです。


『マンガ脳の鍛えかた』(取材・文:門倉紫麻/集英社)に収録されていた『ONE PIECE』の尾田栄一郎さんへのインタビューの一部です。「」内は尾田さんの発言)

ONE PIECE」は、自身が言うように”王道”の少年マンガだ。
 主人公・ルフィは、子供ならではの快活さにあふれ、脇を固める大人たちは、しっかりと大人の領分を守る。ありそうで中々見られない、そんな美しい関係性も魅力のひとつだ。

 「それが僕の理想なんだと思う。『子どもはもっと子どもらしくしなさい、大人はもっとしっかりしなさい』と思っているのかもしれない。僕はすごく普通のことを描いていると思いますけどね。昔ながらの”少年マンガ”ってそういうものでしょう。今の社会では、大人が子どもっぽくなってきているから、僕のマンガが珍しく感じられるだけなんじゃないですかね」
 尾田は一貫して「少年たちに向けて”少年マンガ”を描き続ける」と言い続けてきた。

 「今もそう思っています。長くやっていて一番思うのが、読者はどんどん成長していくものだ、ということ。でもそれに作者が流されないことが大切なんです。読者に合わせていくと、マンガもどんどん大人っぽいものになっていくでしょう。そうしたら、次の少年たち――”新入生”が入れなくなっちゃうじゃないですか。固定ファンだけが喜ぶようなマンガになってしまう。読者は、循環していいんです。僕は、”少年マンガ”の読者は大人になって出ていくものだと思っているから、常に今入ってきた少年たちが喜べるかどうかを考えている。その照準がブレなければ、”少年マンガ”は大丈夫だと思いますけどね。これは、長くやってきて、いろんな時期を経験し壁にもぶつかって、反省も踏まえて出てきた答えなんですよ」

 尾田自身も、描いていて「新入生が入って来なくなった」と思った時期があったのだという。

 「これはいかん、と思って『とにかく少年たちに向けて描くんだ』という意識に立ち返ったんです。大体5年周期くらいで読者は入れ替わる気がしますね。だから『ONE PIECE』はこれから第3期生ぐらいをお迎えする頃じゃないかな(笑)」

 これから先、マンガはどうなっていくと思うか、という問いに、「”少年マンガ”と区切っていいのなら」と前置きして、こう答えた。

 「何も変わらないと思います。少年がゾクゾクするものって、昔からまったく変わっていない。子どもの頃の僕がこれを読んでも喜ぶはずだ、と思えるものを提出すれば、間違いなく今の子どもたちもおもしろいと思ってくれる。たしかに、マンガ界の傾向が変わってきていることは感じたりはしますけど……うん、でもやっぱり変わっちゃだめなんですよ。変わらないというと、古いものを描き続けるイメージかもしれないですが、僕が言っているのは、そういうことではない。むしろ”斬新な”ものは、必要なんです」

 変わらない、けれど、斬新であり続ける。一見相反するもののようだが……。

 「うーん、具体的に言うと、僕が”海賊マンガ”という今までにない斬新なものを世に送り出して読者が食いついてくれたあの瞬間――『ONE PIECE』を送り出そうと思ってがむしゃらに新しいことをやっていたあの瞬間の必死な状態を、ずっと変わらずに続けていかなければいけない、ということです。時代が変わっても、少年たちが”少年マンガ”に斬新なものを求める状態は変わらない。だから作家も、常に斬新でおもしろいものを作り続ける状態を保っていなければならない――いわば”保持”していなければならないんです」

 つまり、保持していくためには「常に”前進”し続けていなければいけない」ということ。

 「それなのに、一度人気が出たら惰性でそのままの状態を続けていけばいい、と錯覚してしまう人もいるかもしれない。でもそうなった時点で、それはもう保持ではなくて”後退”なんです。同じものを出すということは、古いものを出すのと、同じことです」


 ドラえもん映画にしても、長年観てきた僕にとっては「また同じような展開か……」であっても、子どもたちが喜んで観ていれば、たぶんそれが「正解」なのです。制作側は、「観客は、循環していい」もしくは「循環してもらわなくては」と思っているのでしょう。ただ、冒頭のエントリで評価されている『ひみつ道具博物館』は、子どもたちはすごく楽しんでいたし、僕も面白かった(Perfumeの主題歌もよかった)。『ドラえもん』として許される枠内で可能なことは、まだまだたくさんあるような気もします。

 ちなみに、僕がいちばん好きなドラえもん映画は、ずっと『のび太の宇宙開拓史』です。のび太ギラーミンの対決には、子供心にすごくドキドキしてしまいました(個人的には、漫画版の対決の描写のほうが好き)。畳の下の異世界、って、なんかいいですよね。

 結局、観客側も子供の頃とか最初のほうに観た作品のインパクトを「評価基準」にしてしまうのだよなあ。
 僕の子どもがいま、昔の『宇宙開拓史』を観ても、あんなに響かないだろうし。


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