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新井さん、やっぱり「持っている」人だなあ、と思いながらこのシーンを観ていました。
あの2017年7月7日の「七夕の奇跡」、新井さんの逆転ホームランは、カープファンにとっては忘れられない名場面です。
こういうオチがついて、「トラウマになった」という子どもに「ごめん」って謝っちゃうのが新井さんなんだよなあ。
僕は、このシーンをみて、「ヤクルトファンからみた、あの試合」のことをあらためて考えさせられたんですよね。
あの試合、カープファンからみれば「七夕の奇跡」なのですが、ヤクルトファンからは「七夕の悲劇」と呼ばれているそうです(今回、ネットで調べていてはじめて知りました)。
9回まで5点リードしていて、ホームの神宮で、クローザーがマウンドに上がったにもかかわらず、逆転負け、しかも新井さんの劇的な逆転ホームランとか食らったら、そりゃヤクルトファンにとっては「思い出したくもない試合」になるよなあ。
贔屓のチームの「劇的な勝利」は、相手チームにとっては「悲劇的な敗北」なのです。
当たり前のことなのだけれど、こちら側と同じように、あちら側にも、応援しているファンがいる。
勝負事であるかぎり、どちらかが勝ては、もう一方は負けることになっています。
そんなことはわかっているはずなのに、僕はこれまでしばしば、大事な試合(例えば日本シリーズとか)で贔屓のチームが負けると、怒りとかやるせなさに支配され、「キレて」いたんですよね。
Twitterで相手チームの勝利を喜ぶツイートを見かけては、その発言者をブロック(あるいはミュート)し、心の中で罵声を浴びせていました。
客観的にみることができれば、お互いに力を尽くしての結果なのだし、相手だって勝つためにがんばっている。ファンも熱心に応援している。結果がどちらに転んでも、それはもう、勝ったほうを称賛するしかない、のだけれども……
いやほんと、ちゃんとしたファンって、贔屓チームが勝ったときは、贔屓チームの選手とともに喜び、相手チームのことは健闘を称える(あるいは、あえて触れない)というスタンスをとるはずなんですよ。
野球と宗教の話は飲み会の席では危険、と言われるのは、「贔屓が違うときのリスクが高い」ということを示してもいます。
その一方で、相手チームをバカにして快哉を叫ぶ人、というのも、いるんですよねやっぱり。
そういうのは論外なんだけどさ。
インターネットというものがもたらした変化のひとつに、「向こう側から、こちら側はどう見えているのか」を知ることが、かなり簡単にできるようになった、というのがあるのです。
あの「七夕の奇跡」がネット以前の出来事であれば、カープファンは、カープファンのコミュニティの中で、「記憶に残る名試合」として語り継いでいったはず。
もちろん、「負けたヤクルトは悔しかっただろうな」と、心の隅をよぎることはあるとしても。
ところが、ネットでは、ヤクルトファンのコミュニティを覗くこともできるのです。
そこで、「ROM専(見るだけ)」なら、お互いに実害は少ないはずなのだけれど、バカにする書き込みをするヤツが出てくる。
負けた側も、見なきゃいいいのに、つい、「勝った側」の掲示板をみて「調子に乗りやがって」とヒートアップする。
そういうのって、「見ても誰も救われないし、試合の結果が変わるわけでもない」のに、つい、見てしまうのです。
なるべく野球の話題は避けようとしていても、Twitterで、「相手チームのファンが大喜びしている」のを目にしてしまっただけで、イライラしてしまうこともある。
相手は「自分が好きなチームを応援している」だけなのに。
同じように、僕も誰かをイラつかせているのだろう、とも思う。
勝ち負けがあることには触れないほうが安全なことはわかっているのだけれども、ネットに「共感」を求めてしまう。
安全なルートを求めて、地雷原に突っ込むようなことをしてしまうのです。
僕はインターネット黎明期には、ネットで「相手側の立場から、どう見えているのか」を知ることができれば、人と人、あるいは国民と国民との相互理解が進み、以前より「わかりあえる」のではないか、と信じていました。
ところが、こうしてネットが普及して、「相手側からみた、こちら側」を知ることができるようになってみると、そこに生まれてきたのは、「相互理解」どころか、「あいつら、あんなバカなことばっかり言ってるぞ。救いようがねえな」という「よりいっそうの断絶」だったのです。
可視化されたからといって、人と人が理解しあうのは、思った以上に難しい。
というか、可視化されたおかげで、より難しくなったような気がする。
僕は、カープが負けたのに、相手チームに「あなたたちは強かった。おめでとう」なんて言う気分にはなれない。
せめて、荒ぶる心でネットに書き込みするのをなんとか理性で押しとどめるくらいが限界なのです。
インターネットは、「知ること」は、「物事をあちら側から見ること」は、僕が思っていたようには、この世界を変えなかった。
どんなに「勉強」しても、人は、なかなか「自分と違う属性を持つ人」とはわかりあえない。
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これらの本に書かれているような事例をみると、理解しあおうとして幻滅するよりも、うまく棲み分けるほうがマシではないか、と考えてしまうのです。
あの番組をみたあとでも、僕にとっては、新井さんのホームランは「七夕の奇跡」であり続けるに決まっているのだから。
まだブログが目新しかった時代に「(ネット掲示板での自分への言及などを)見たら負け」と看破した眞鍋かをりさんは、本当にすごかったな。
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