いま、ネットで「脱社畜サロン」のことが話題になっています。
tyoshiki.hatenadiary.com
ちなみに、「脱社畜」という言葉を世に広めたと思われる、『脱社畜ブログ』の方からは、「風評被害に辟易している」という嘆きも聞こえてきています。
dennou-kurage.hatenablog.com
僕も、ずっとネットを眺めていて、いつのまにか「会社をやめて起業すること」が「脱社畜」になっていることに違和感があったんですよね。
僕はネットサロン=悪、と言い切る自信はありませんが(僕自身はそういうものに所属するつもりはないけど)、この「脱社畜サロン」で現在起こっていることは「カルト化」「信者ビジネス化」だと感じています。
今回は、いままで読んできた本のなかで、「カルト」について書かれたものを何冊が紹介してみます。
「カルト」というのは、けっこういろんな定義のされかたがあるのですが、辞書的には「特定の対象を熱狂的に崇拝したり礼賛したりすること。また、その集団。異端的宗教」というような感じになっています。
でも、これだと、いまひとつピンとこないというか、じゃあ、アイドルやアニメの熱狂的なファンは「カルト」なのか?とか考えてしまいますよね。
「カルト」とは何か?という問いに対する誠実な回答として、『やや日刊カルト新聞』の藤倉善郎さんが、noteにこんな記事を書いておられます。この僕のエントリに興味がない、という人でも、この藤倉さんの記事だけは読んでおいて損はしないはず。
それでは、本を紹介していきますね。
(1)「カルト宗教」取材したらこうだった
fujipon.hatenadiary.com
前出の藤倉さんが上梓された本。
『やや日刊カルト新聞』の面白さは、あくまでも相手を「人間」として取材していることなのではないかと思います。
この新書に紹介されていたエピソードのなかで、『やや日刊カルト新聞』の記事になったときに読んで吹き出したのがこれ。
(『週刊文春』の記事に対して、リレー断食デモを行っていた統一教会の信者たちへの、藤倉さんたちのカウンターアタック!)
「週刊文春は謝罪しろ!」
「捏造記事書くな!」
「週刊文春つぶすぞ!」
こんな信者たちのデモを見ながら思いついたのが、彼らの目の前で暴飲暴食してみよう、という企画。
この頃、統一教会批判者を尾行してプライベートを盗撮しブログで晒す、「白い旅団」なる集団(個人?)が活発に活動していた。統一教会問題に取り組む人々の間で問題視されていたこの「白い旅団」をもじって、私たちは「面白い旅団」というパロディ団体を結成。文春前で断食デモを行っている統一教会信者たちの前に立った。私たちは、断食という行為に対して強く抗議します。みなさんが断食をやめるまで、私たちは命をかけて暴飲暴食を繰り返す決意です。止めても無駄です。私たちに暴飲暴食をやめて欲しければ、しっかりご飯を食べてください。
こんな抗議文を、デモのリーダーである統一教会の古参信者・井口康雄氏に手渡し、私たちは彼らの目の前でメッコール(統一教会系企業が販売している韓国のドリンク)と一気飲みしまくり、松屋の牛丼やキムチを頬張り、デザートにプリンを食べた。
もちろん、デモだからシュプレヒコールも忘れない。
「断食やめろ〜!」
「おかわり〜!」
リーダーの井口氏は、これを見て
「吉本並みに面白い」
「久しぶりに笑った」
と笑顔で応じた。
デモを終えると、統一教会信者たちは私たちに向かって、
「お付き合いいただきありがとうございました!」
と言って拍手を送ってくれた。私たちは「健康にだけは気をつけて」と声をかけ、断食中の信者でも口にできるミネラルウォーターのボトルを配った。
食べ過ぎて苦しそうにしている私に、井口氏が優しく声をかけてくれた。
「断食より暴飲暴食のほうが身体に悪いんじゃない?」(井口氏)
「そんな気がします」(私)
立場の違う者同士に友情が芽生えたのか、それともただの馴れ合いか。
「おお、統一教会っていっても、けっこうジョークがわかるんだな」と思いながら読んでいたのですが、のちにこの件は「文春の差し金」として、週刊文春が抗議を受けることになったそうです(実際は『週刊文春』とは無関係)。
まあ、断食中にそんなことされたら、ムカつくのが当たり前か……
(2)ドアの向こうのカルト
fujipon.hatenadiary.com
この本、『エホバの証人』の元信者が、9歳のときから25年間にわたる「信仰生活」そして、信仰を捨て、周囲の人たちを説得し、「日常」を取り戻していくまでのことが、かなり克明に書かれています。
こういう本は、「洗脳から抜け出した人」が、教団への怒りをこめて書いているものが多いのですが、著者は、かなりフラットに、そして、信仰していた当時の気持ちに正直に向き合っています。
この本を読んでいると、『エホバの証人の信者』のあいだにも、さまざまな「温度差」があるのだということがよくわかります。
そして、信者たちは、自分たちが信じているのが「カルト宗教」だとは、微塵も疑っていないのです。
この頃から母親は映画でもテレビでもいちゃもんをつけるようになった。何を見ていても横で捨て台詞を吐いていく。例えば戦争映画を見ればこう言う。
「この人たちは、聖書を知らないからこうなるのよ」
「暴力はクリスチャンらしくないわ」
「どうせ楽園がこないと、解決されないのよ」
私が「だって映画じゃん」というと、「やっぱり世の娯楽はね……」で終わる。
実際問題、証人である母親たちの会話は投げやりだ。どんな問題も全て楽園か、サタンか、ハルマゲドンの三つの言葉で片付けてしまう。
政治問題であれば、「結局サタンの支配だからね」。
戦争報道を聞けば、「楽園がこないと解決しないのよ」。
環境問題であれば、「どうせハルマゲドンが来るからね」。
経済格差であれば、「楽園じゃないと無理よ」。
こんな調子で全ての諸問題を安易に片付ける。そして最後に、同じ調子でこう言う。
「どうせ全ての娯楽は、サタンの産業が作り出すのだから、何も見ない方がいいわ」
これは、著者が中学生くらいの話だそうです。
「ごく普通、あるいは、ちょっと高学歴で潔癖性ぎみの若いお母さん」が、5年くらい信仰を続けていると、こういうふうになってしまうのです。
(3)危険な宗教の見分け方
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上祐史浩さんと田原総一朗さんの対談本。
僕のなかでの上祐さんというのは、「とにかく口ばっかりが達者な人」そして、「自分の罪を認めない人」というイメージがずっとあったのです。
そんな上祐さんは、早稲田大学の理工学部を卒業して、宇宙開発事業団に勤めていた人でした。
いちばん考えさせられたのが、科学的な立場の代表者のような宇宙開発事業団を支えていた理念が「ある意味、救済思想だった」ということでした。
宇宙開発というのは夢があるけれど、そう簡単に結果が出るものではなく、厳しい試行錯誤の連続でもあります。
そんななかで、スタッフのモチベーションを維持するためには「救済思想」が有効だったのですね。
宇宙開発も、オウム真理教も、有能な、善意の人たちが、『人類を救うため』に頑張っていた。
結果的に、一方は「はやぶさ」になり、もう片方は「地下鉄サリン事件」になったのだけれども。
承認欲求が強い人にとっては、自分の好みとか、最初に足を踏み出す方向の違い、ただ、それだけが、運命を分けてしまうのかもしれません。
僕だって、いろんなタイミングが合ってしまっていたら、オウム真理教に入っていた可能性はあります。
そしてそこで、修行や薬物によって「神秘体験」をして、教祖に「お前は特別だ」と囁かれれば、あの事件の実行犯になっていたかもしれないのです。
(4)江戸しぐさの正体
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歴史的根拠に乏しいというか、歴史の捏造ですらある「江戸しぐさ」。
しかしながら、こういう「いい話」の矛盾というのは、なかなか指摘されにくいというのも事実です。
「じゃあ、その嘘で、誰が傷つくんだ?」
「そういうエピソードで、現代人のモラルが向上するのであれば、フィクションでも良いじゃないか」
実は、僕自身にも、そんなふうに思ってしまうところがあって。
少なくとも、これは「悪い嘘」じゃないのでは……とか、つい考えてしまうのです。
著者は、こう書いています。
また、「江戸しぐさ」についても、私がツイッター上で「江戸しぐさ」批判を始めた時には、おかしな話がまぎれこんでいるからといって「江戸しぐさ」の存在まで否定するのは早計という意見がみられた。
そういった信奉者に共通しているのは「(嘘を交えているとしても)すべてが嘘とはいいきれない」という論法である。
それらの例で否定されているのは、伝来されていた内容以上に、伝来の経緯に関する証言や証拠なのである。その伝来の経緯が嘘だった以上、その内容だけは本当ということはまずありえない。それはさしずめ、土台が崩れているのに、その上にある建物は無事だと言っているようなものである。真実を知りたいのなら、伝来の経緯がまっとうな他の情報源を探すべきだろう。
それではなぜ、そのような無理を押してまで信じるべき根拠が失われている話に固執する人がいるのか。それは、その人が内容に共感し、いったんは信じ込んでしまったからである。
つまり彼らは、真実を求めるより、自分の思い込みを守ることの方を選んでしまったわけである。
この文章の最後「真実より、自分の思い込みを守るほうを選んでしまった人」という言葉は、僕にとっては本当に「刺さる」ものでした。
そうなんですよね、僕がこういうのを「別に悪いことを言っているのではないんだから……」と許容してしまうのは「それをいったんは信じ込んでしまった自分を守りたいから」なのです。
そして、「いい話だから、僕は許す」という思考回路が出来上がってしまったら、おそらく、その「許容範囲」はどんどん広がっていって、「自分にとって都合の良いことは、どんな嘘でも信じる人間」になってしまいかねません。
結局のところ、そういう「自己正当化の暴走」を食い止めるためには、「それが事実かどうか」を、ひとつの境界にするしか無いのだと思うのです。
(5)カルト村で生まれました。
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こういう「過剰に節度や礼儀を埋め込まれた人々」というのは、外部からみたら、「つつましい、しっかりした人」のようにも見えるのです。
『エホバの証人』の子供たちの礼儀正しい様子をみて、自分の子供たちも、あんなふうにしたい、と入信する親たちもいます。
「カルト」を恐れながら、「あまりにもカネと物の世の中は、子供たちにとって良くない!子供は子供らしく!」と声高に叫ぶ人たちもいる。
ある種の大人が考えている「子供らしさ」をとことんまで突き詰めると、「カルト」に近づいていく。普通は、そこまで徹底できる環境がないだけです。
結局は、バランス感覚、ということなのでしょうけど、この本を読んでいると、「カルト村を出ていても、著者のような『まともな人』が育つのだな」とか、考えてしまうところもあるのです。
基本的には、現在の感覚で「カルト村」のことを責めるような内容ではなくて、当時の高田さんに見えていたものを、なるべくそのまま封じ込めてマンガにした、そんな内容です。
だからこそ、貴重な記録なのだと思います。
(6)なぜ疑似科学が社会を動かすのか
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この本では、広告などでの「売るためのテクニック」についての解説もされています。
ものは言いよう、というか、ちょっと考えてみればわかりそうなことでも、人は案外、信じてしまうもののようです。
総じて、消費者は量に無頓着である。商品によって配合量が違うのだが、量に応じた価格比較もせずに購入している。「倍に濃縮」という新製品が3倍の値段で売られても、性能が良くなったと錯覚して購入する。旧製品を2倍飲めば、そのほうが安かったりもするのだが……。
先日、「一錠にプラセンタ(胎盤)エキス9000ミリグラム配合」という広告を見て笑ってしまった。9000ミリグラムは9グラムであるが、一錠は明らかに1グラム未満である。重量の計算が合わない。胎盤9グラムを乾燥させたというのかもしれないが、それなら大部分はそもそも水であったのだから、エキスが9グラムというのはおかしいはずだ。
似たような事例は枚挙にいとまがない。乾燥した熟成ニンニクが、「赤ワインの10倍のポリフェノール(100グラム当たり)」と宣伝されていた。しかし実際に調べてみると、10倍量の赤ワインのほうが明らかに安く買えるうえ、飲みやすかったりもするのだ(お酒に弱い人は、ブドウジュースでもOKだ)。
ああ、こういうものって、いっぱいあるなあ!と頷きながら読んでしまいました。
わざわざ高いお金を出してそれを買うなら、ワインを飲めばいいのに!
でも、こういうのが「効きそうな感じがする」という気持ちも、わからなくはないんですよね。
「気休めですから」なんて言われてしまうと、それはもう、そうですかとしか答えようがないし。
実際のところは、みんなそんなに盲信しているわけではないけれど、信じたい、という思いが強い、というところなのかもしれません。
(7)麻原彰晃の誕生
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この本を読んでいると、松本智津夫という人の「成り上がるためには手段を選ばない姿勢」や「罪悪感の乏しさ」とともに、そういう「地に足がついていない人をひきつける能力」や「何度も失敗しても諦めないしぶとさ」や「マーケティングの才能」も感じるのです。
そして、さまざまなエピソードのなかには、「金や自分の欲望を満たすことだけが目的ではなかったのかもしれない」と感じるものもあるのです。
智津夫が求心力を得たのは、シャクティーパットの影響ばかりとは言いきれない。智津夫は護摩を焚くための薪集めにも、自分から率先して山に踏みこんでいった。
「私には霊障があるんです」と言う受講生がいて、まわりの者たちが気味わるがって遠巻きにしていると、
「君たちは、いったいなにをしに来てるんだ。人のためになってこそのヨーガだろう。邪気を吸収するくらいの気持ちでやらなくてどうする」
と、叱りつけた。
夜中を過ぎても、智津夫は床に就くことはなかった。ほかの会員たちは疲れ果てて8時か9時には眠りについているのに、智津夫はセミナーに来た人びとから悩みごとの相談を受けていた。癌に苦しんでいる人、会社の経営がうまくいっていない人、不良息子のことで悩みつづけている親などの話を親身に聞いてやり、そのために智津夫の睡眠時間は、集中セミナーを開催した1週間のうち、平均してわずか2時間ほどしかなかった。
それでも明くる日になれば、会員たちとはげしい修行をする。シャクティーパットをほどこしているとき、取り巻いている会員たちの目にも、智津夫の顔から血の気がさあっと引き、消耗が激しいことが見てとれた。
「ときおり休憩をとるんですが、麻原さんはぐったりしているんです。熱を出すこともありました。足の甲がざくろみたいに割れ、血が流れていたこともあります。それでも会員たちのクンダリーニが覚醒するまで、ひとりひとりにシャクティーパットをほどこしていくわけです。だめな人間には、40分でも1時間でもやりつづける。夜は夜で、会員の相談を受けつづける。そんな姿を見て僕たちは、みずからの苦をいとわず、弟子たちを解脱に導くためにひたすらおのれのエネルギーを捧げているのだ、と感動しました。麻原さんの姿に、菩薩行を思わないわけにはいきませんでした」
と設立当初からの元信者のひとりは語るのだ。
これも、麻原彰晃の「自己演出」だったのか、それとも、この時期はまだ、純粋な修行者だったのか。
信者によって美化された像であるのだとしても、最初から坂本弁護士一家の殺害や地下鉄サリン事件を目指していたわけではないと僕には思われます。
麻原彰晃という人にも、真剣に「解脱」したいとか、信者を苦しみや悩みから救いたい、という「善なるもの」があったのではなかろうか。
でも、周りから教祖として持ち上げられていくにつれ、そういう自分の立場を失ってしまうのが怖くなり、また、欲望にも流されてしまったのです。
やったことは「悪の極み」ではあるけれど、もし僕がそういう「流れ」に乗ってしまったら、同じことをやるのではないか、とも感じるんですよ。
麻原彰晃は「とんでもない悪党」であるのと同時に、どうしようもなく「人間」だった、とも言えるのかもしれません。
とりあえず7冊、紹介してみました。
これらの本を読んでいて痛感するのは、信者になる人は、正義感や世の中を良くしたい、という意識が強かったり、日常に困難を感じていて、何かにすがりたい気持ちになっていたり、という「普通の人」だということなんですよ。
そして、一度、その「カルトの内部」に入ってしまうと、世間からは「おかしな人」として疎外されてしまうようになり、カルト内部の人間関係だけが頼りになってしまう。
そうなると、もう、そこから抜けてしまえば行き場がなくなるので、さらに「信じる(あるいは、信じようとする)」しかなくなっていく。
「このくらいなら大丈夫」「別に悪気でやっているのではないだろうし」「たいした金額じゃないから」
その段階で、「われに返る」ことができるかどうかが「分かれ目」なのです。
一度ハマってしまったら、どんなに立派な人でも、そう簡単に抜け出せるものではないから。
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