僕の場合は、とにかく書くことが好きで、試行錯誤した結果、たくさんの人に読んでもらえたり、反応があったりすることが刺激的で、の繰り返しでずっとやってきたところがあって(それにプラスして、ほんの少しお金にもなる、というのもけっこう大きい)、偉そうに語る資格はないのですが、それでも、長年やっていると、「ブログについて」あれこれ書いてきたことが蓄積されているのです。
そこで、そういうエントリをいくつかここで御紹介しておきたいと思います。
fujipon.hatenablog.com
2014年1月。結局のところ、ブログというのは、ずっと「なぜ今?」と問われ続けているような気がします。
SNSもだいぶ歴史を重ねてきて、あらためて感じるのは、やっぱり、短い文章では伝わりにくいものがあるのではないか、と思います。
Twitterは、多くの炎上やトラブルを巻き起こしてきて、そういう意味では「歴史に残るつぶやき」も少なくはないのですが、誰かの(あるいは、自分自身の)心のなかにひっそりとしまわれているような「自分のための言葉」になるためは、ブログくらいの長さが必要なのではないか、と。
どちらが良いとか悪いとかではなくて、「SNSはフローで、ブログはストック」ということなんですよ。
fujipon.hatenablog.com
2016年12月。「日常」とか「普段」って、みんなが「こんなのたいしたことじゃない」と思い込んでしまっているために、結局、誰も後世に残さないのです。
「ありふれたこと」って、案外、失われてしまいがちなのです。
だから、「自分にとってあたりまえの日常」こそ、書き残す価値がある。
fujipon.hatenablog.com
2017年7月。あと、長い間続けることができた理由としては、途中から「同じことを繰り返し書いているのではないか、と思っても諦める」というのがあります。どうせ(?)読む側はどんどん入れ替わっているので、自分が言いたいことは、繰り返し言い続けても良いし、5割の人が「またか」でも、あと5割が「はじめて聞いた」のであれば、それなりの意義はある。
コラムニストの小田嶋隆さんは、書くためのアイディアについて、こんなことを仰っています。
fujipon.hatenadiary.com
アイディアの場合は、もっと極端だ。
ネタは、出し続けることで生まれる。
ウソだと思うかもしれないが、これは本当だ。
三ヵ月何も書かずにいると、さぞや書くことがたまっているはずだ、と、そう思う人もあるだろうが、そんなことはない。
三ヵ月間、何も書かずにいたら、おそらくアタマが空っぽになって、再起動が困難になる。
つまり、たくさんアイディアを出すと、アイディアの在庫が減ると思うのは素人で、実のところ、ひとつのアイディアを思いついてそれを原稿の形にする過程の中で、むしろ新しいアイディアの三つや四つは出てくるものなのだ。
ネタは、何もせずに寝転がっているときに、天啓のようにひらめくものではない。歩いているときに唐突に訪れるものでもない。多くの場合、書くためのアイディアは、書いている最中に生まれてくる。というよりも、実態としては、アイディアAを書き起こしているときに、派生的にアイディアA’が枝分かれしてくる。だから、原稿を書けば書くほど、持ちネタは増えるものなのである。
これは、ほとんど毎日ブログを更新している僕にも、わかるような気がします。
ネタって、「寝だめ、食いだめ」と同じように、「とっておく」ことが難しいんですよね。
時間がたくさんあれば、自然に「貯まるようなものでもありません。
今回のようなエントリは、まさに「過去の蓄積を、切り口を変えたり、まとめたりして再利用している」ものですし。
fujipon.hatenablog.com
2013年12月。僕が個人的に、ブログをやっていて一番良かったと感じているのは、「いつもと同じ日常」の解像度が、少し上がってきたことなのです。
ブログによってお金を稼いだり、人生を変えることは簡単ではないけれど、人生や日常を見る目は、けっこう変わるのではないかと思います。
『日記をのぞく』(日本経済新聞社・編)という本のなかに、こんな話が出てくるんですよ。
(「現代日記文学の傑作」として知られる『富士日記』の著者・武田百合子さんに、夫であり、有名な作家でもある武田泰淳さんが日記を書くことを勧めたときの話)
「まことに、すがすがしく、心あつく、簡にして深い、日々の記録である」。『富士日記』の解説で水上勉はこう評したものだ。日記には、地元の人たちとの日々の触れ合いや季節ごとの行事、買い物の値段、谷崎潤一郎や高見順ら著名人の訃報などが、簡潔明瞭に記されている。それはまた、一つの世相史でもある。
「朝、ごはん、うに、海苔、卵、鯖の味噌煮(略)酒屋で。ビール二打、卵十個、納豆一個、マッチ(大)三箱、コロッケ三個、計三千八十円」
昭和41年(1966年)三月二十七日。四十歳。
百合子の「絵葉書のように」(『私の文章修行』朝日新聞社)によると、日記を書くように勧めたとき、夫の泰淳はどんな風につけてもいいこと、何も書くことがなかったらその日に買ったものと天気だけでもいいこと、面白かったことやしたことがあったら書けばいい、と言ったという。また、百合子自身も、自分に似合わない言葉や、きらいな言葉は使うまい、と心に決めていた。
朝昼晩の食事メニューがいわば”定食”にもなっていた日記には、近くの店で買って来たまぐろを照り焼きにし、大根をおろすといった、ごく日常の光景が実にきめ細かく描写されている。五感で写しとったことをのびのびと直截的に表した文章に接すると、あたかも同じときに同じところに身を置いているかのように引き込まれていく。「帰り、スタンドで売っている山芋を買うと、おじさんは『タダでやる』といってきかない。わるいから、なめ茸の瓶詰二個、ごぼう味噌漬など、買ってしまう。すると今度は、おでんを二皿『タダでやる』と言う。タダで食べる。おじさんは、そばに椅子を持ってきて腰かけて話をする」
昭和40年(1965年)十月二十五日。四十歳。
こういう日記が書ければなあ、と僕はずっと思っています。
ついつい、構ってほしくて、余計なことや自己主張を入れてしまうのだけれども。
個人のブログでは、そう簡単にお金は儲からないし、有名にもなれない。そもそも、なかなか読んでもらえない。
でも、だからこそ、書きたくないことは、書かなくてもいいという自由があるし、うまく付き合えば、ほんの少し、人生を豊かにしてくれる。
ブログを書いている人たちは、たぶん、ふだんは見えないところで、ほんの少しだけ、つながっている。

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