いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

2025年に、再び「大阪万博」を開催するということ


www.nikkei.com


 2025年に大阪万博の開催が決まったみたいです。
 一昨日くらいに2025年に大阪に万博を誘致しているという話をはじめて知ったので、そうなのか……誘致のために頑張ってきた人たちは、よかったですね、とは思うものの、いまの時代、というか、さらに7年も先の「万博」というイベントがどんなものになるのか想像もつかないのです。

 戦後の日本の高度成長の象徴として語られるのが、1964年の東京オリンピックと1970年の大阪万博なのですが、僕はその時代にはまだ生まれてもいなかったので、「すごかった」という伝説だけをきいて、想像を膨らませるしかありませんでした。


fujipon.hatenadiary.com


 この本のなかで、いちばん印象的だったのは、「大阪万博の記念館」でした。
 僕も太陽の塔は一度観に行ったことがあるのですが、万博記念館って、そういえばそんなのあったかな……というくらいの印象しかありません。
 過去の栄光に浸るための、写真とか新聞記事とかが展示されている、こじんまりとした記念館なんだろうな、と思ったのか、観に行こうかと迷った記憶すらないのです。
 ところが、この本を読んでいると、大阪万博の頃の日本人の熱気って、こんなにすごかったのか……と驚かされてしまうのです。

 なんか今の技術って、この頃の発想の延長にあるものばっかりなのだな。う〜ん、大阪万博はスゴかったっていう話は聞いてたけど当時の人が過去を美化して昔を懐かしんでいるだけでしょくらいに思ってたけど、本当にスゴかったんだなって今日実感したよ。


 『大阪万博記念館』を見た作者の話を読むと、大阪万博というのは、現代にもつながるテクノロジーが世に出るきっかけにもなっており、やはりすごいイベントだったのだな、と思うのですが。
 ただ、当時の日本人はすごかった、というよりは、人口がどんどん増えて、経済が成長していきやすい時代だと、何をやってもうまくいっているようにみえた、というのも事実ではありそうです。


 僕にとっての最初の「ナマの万博体験」は、1985年のつくば科学万博のときでした。
 母親の実家から近かったので、連れていってもらったんですよね。
 最新の3D映像を観るために、3時間も並んで、おまけに買ってもらったばかいのカメラを失くすというアクシデントにも見舞われて、「たしかにすごい映像ではあったけれど、それを観るためにこんなに並ばなければならないことそのものが、「非テクノロジー的」ではないか、という気がしたものです。
 並ぶのが大嫌いな父親を、母親がなんとかなだめていたことばかり思い出します。
 ちなみに、失くしたカメラは翌日に届けられていて、パビリオンの内容よりも、あれだけの人混みのなかで、一台のカメラが見つかったことのほうに「日本すごい!」と感じました。


 その後の万博は1990年の『花博』、2005年の『愛・地球博』と僕は欠席続きなのですが、2018年に、あるいは、2025年に「万博」というコンテンツが、これまで通りの形で成り立つのか、というのはものすごく疑問なんですよ。
 たしかに、人は自分が好きなもののためなら、長時間の行列にも大混雑にも耐えられる、というのはコミケで証明されていますし、こんな時代だからこそ、あえて「体験型アミューズメントとしての万博」というのが面白がられる可能性はありますが、もう「ニコニコ超会議」で良いんじゃないか、とも思うのです。


国際博覧会 - Wikipedia


 そんなことを考えつつ、Wikipediaをみていたら、近年の主な「国際博覧会」は、「園芸博」がけっこう多いんですね。
 僕の子どもの頃の記憶で、どうしても「国際博覧会」=「最新のテクノロジー発表の場」「他の国の紹介」と思い込んでしまうのですが、もう、万博はそういう場ではなくなってきているのです。
 Apple任天堂の新製品発表がリアルタイムで全世界で視聴できる世の中で、半年もかけて開催される博覧会のスピードでは、テクノロジーを扱うのは難しい、ということもあるのでしょう。
 そもそも、いま、最新のAIやロボット技術をみせられても、多くの人は「ああ、これでまた人間の仕事がひとつ減るのだな」という、ダークな未来予想をしてしまうのではなかろうか。
 健康とかがテーマになるらしい、とのことですが、そんなのわざわざ出かけていって、大混雑のなか観たいかなあ。
 もっと楽しいことであれば、行列に並んででも観たいだろうけど……
 それとも、長時間並ばなくてもいいような技術が運用される万博になるのかな。


 それでもやるのか、大阪万博
 そう思っていたら、ネットでこんな記事を見かけました。


www.asahi.com


 そもそも、いまの時代に万博が金になるのか?という疑問はありますよね。
 この記事をみていると、内田樹さんや小田嶋隆さんが「安倍政権で何かが決まるたびに苦言を呈する要員」として重宝されていることに、けっこう悲しくなります。二人とも、面白いエッセイやコラムを書き続けてきた人なのに。
 
 そして、「こんなイベントは金の無駄遣いだ」という人たちに対しても、僕は最近、ひとまわりしてきて、「とはいえ、そういう、日常のアクセントになるようなイベント」って、この世の中で普通に生きている人たちにとっては、けっこう大事なんじゃないか、という気もしているのです。


 先日、幕張メッセで行われた『ゲームセンターCX』の15周年イベントに行って(こういうイベントに行ったのは、本当に久しぶりだったのですが)、その「祭り」の場の力、みたいなものをあらためて感じたんですよ。


fujipon.hatenablog.com

 最初は、「米津玄師さんと同日、同時間帯だなんて、向こうのファンはきっとこっちに対して、『オタクが集まって何やってるんだか!』と白眼視しているのではないか」と、ややコンプレックスを抱いていたんですよ。
 「米津玄師、何するものぞ!」みたいな気持ちも少しありました。

 でもね、高揚した気分で会場を出て、海浜幕張駅に向かっていく人の流れに身を任せつつ、周りの人たちが笑顔で今日の感想を言い合っているのを眺めていたら、なんだかけっこう感動してしまって。
 そこには、米津さんのファンも、『ゲームセンターCX』のファンもいて、さまざまなコスプレをしている人もいたのだけれど、みんな同じ、満たされた顔をしていて。
 ああ、好きなものに包まれて幸せなときを過ごしたっていうのは、米津さんのファンも『GCCX』のファンも同じで、そういうふうに、コンテンツに支えられて生きているという点では、僕たちはみんな同じなんだ。
 いろんなことがあるし、人生良いことばかりじゃないし、人っていつかこの世界からいなくなってしまうものだけれど、それでもこうして、人生のなかの何時間かでも「楽しいひとときだった!」と言えるのは、けっこう幸せなんじゃないかな、と思ったのです。


 ローマ帝国の時代から、民衆は「パンとサーカス」を求めていました。
 いまの日本では、とりあえず最低限の「パン」はなんとかなる、という人が多い。
 では、その次の段階として、お金を「みんなの日常生活を、ほんの少しだけ底上げする」ためにつかうべきか、それとも、イベントでパーッと使ってしまうべきか。


fujipon.hatenadiary.com


 ちなみにこの「パンとサーカス」の「サーカス」は、空中ブランコとか象の玉乗りみたいなショーではないそうです。

ここで言うサーカスは、曲芸を指すのではない。戦車競争の楕円形コースを意味する「キルクス(circus)」を英語読みしたにすぎない。


 2020年の東京オリンピックにしても、2025年の大阪万博にしても、「もっと他にお金の使い道があるんじゃないか」と言いたくなるのだけれど、こういう「あまりにも平凡な人生に、ちょっとしたアクセントをつけてくれるイベント」って、わりと意味がある出費なのかもしれないな、と、最近は感じています。
 毎日の夕食のおかずが一品増えるのと、年に1回、米津玄師さんのコンサートに行けるのとどちらが良いか、と問われたら、後者を選ぶ人って、けっこう多いのではなかろうか。
 酷暑が予想されるなかで、「誰が無償でボランティアなんてやるんだよ……」と僕も思っていた2020年の東京オリンピックのボランティア募集も、あっという間に目標人数をこえてしまいました。
 

 踊る阿呆(あほう)に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らな損々


 そういう、人間の本質みたいなものを見透かされているような薄気味悪さはあるのですけど、「有識者」たちがどんなに警鐘を鳴らしても、みんな、サーカスが大好きなんだ。


地上最大の行事 万国博覧会 (光文社新書)

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