いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

ブログって、「読まれること」や「稼ぐこと」、「続けること」の呪縛から逃れることができれば、本当に「自由」な場所だと思うんですよ。


withnews.jp


これは「現在の長篇を要求する商業版元(漫画雑誌)への警鐘」の記事なのですが、読んでいて、これはブログについてもあてはまるのかもしれないな、って思ったんですよね。
この『良い祖母と孫の話』の作者は、漫画家としてのプロデビューの話を蹴って、就職を選んだのです。
確かに、プロとして生きていくためには、コンスタントに売れる作品を描き続けなければならない、という「宿命」があるのです。
4話の短編に「2年」というのは、職業漫画家としては、あまりにもボリュームが少なすぎる。
でも、「仕事をしないで時間がたくさんあったら、高いクオリティの作品をその時間分描けるか?」と問われたら、そういうわけでもないと思うんですよ。
高橋留美子さんのような「マンガモンスター」でもないかぎり、アイディアは枯渇するし、モチベーションを維持していくのも難しくなってくる。


「ブログ論」みたいなもののなかで(とくにお金を稼ぎたい、という人たちのブログで)、「とにかく続けることだ。定期的に更新することだ」って主張しているものが少なからずあります。
「プロ」であると考えるのなら、それはそうなのだろうな、とは思う。
その一方で、「続けるために続けている」ようにしか見えなかったり、流行のコンテンツに乗っかって「早くネタバレする競争」みたいなのを繰り広げて、ピラニアのように喰い散らかし、すぐに「オワコン」にしてしまっているブログが幅を利かせているようにも感じるのです。
ポケモンGO』は、多くの「ブロガー」たちに金銭的な恩恵を与えたようですが、彼らのなかで、自分で真剣にプレイした人は、どのくらいいたのだろうか? 
先行するサイトの情報をちょっと加工したり、まとめたりしただけで、けっこうなお金が手に入るのであれば、それをやりたい人の気持ちはわかる。
でも、実際にそれをやっている人たちをみると、なんだか苛立ちを感じてしまう(もちろん、稼いでいる人への嫉妬もある)。
彼らは「雑記」だとか「自由に書きたいものを書いている」と主張しているけれど、そこには「わたしはお金が欲しいです!」としか書かれていないように、僕には感じられるのです。
そしてそこには「僕もお金が欲しいです!」という人たちが、集まってくる。


ただ、その「お金が欲しいという欲望」をあからさまにしている人の姿というのは、観ていて興味深いものではあるので、みんな恐いもの見たさみたいな感じで覗きにきて、「ああ、またこんなくだらない内容なのか」と苦笑し、「戻る」ボタンを押す。
ただし、これは観る側も「自分がバカにできる、くだらないものをみて、優越感に浸りたい」という欲求を満たしているだけではあるんですよね。
書いている側としては、「自分は評価されている」と認識しているのだけれど、読んでいる側は「バカにしているだけ」。
でも、それがPV(ページビュー:閲覧数)という形で「結果」につながって、書いている人はお金をもらえる。
もちろん、それは悪いことばかりじゃないのです。
そういうふうにお金を稼げることで、「ふつうの仕事に向かない人」へのセーフティネットにもなるのでしょうから。


fujipon.hatenablog.com


本当に「重い」話を読みたい人は、なかなかいない。
そもそも、そんな「重い」話をコンスタントに作品にできる人なんて、そうそういるものではありません。
加藤片さんがこの作品でみせた感性は凄いと思うけれど、こういう作風だと、そんなにたくさん描くのは難しいのではなかろうか。
仕事のストレスのなかで、時間が無いからこそ、濃密なコンテンツを生み出せる、というタイプの人もいる。
「仕事」って、ネタの宝庫ではありますし。


僕はずっと思っているんですよ。
ブログという媒体で、素人が書くことの最大のメリットって、「続けなくてもいい」し、「読まれなくてもいい」ことなんじゃないか、って。
「続けること」「稼ぐこと」を叫ぶ人の声が大きくなったり、それに同調する人が目立つのは仕方が無い。
それでも、「自分はこれだけは言っておきたい」という、たったひとつのエントリのためにだけ存在するブログがあってもいいし、『こち亀』の日暮巡査のように、4年に一度しか更新されないようなブログがあってもいい。
日暮巡査の場合は「長期連載のなかで、4年に一度」というのが、読者にとってはプレミア感が大きいのかもしれないけれど。


インターネットができる前は、素人が書いたものって、学級通信か雑誌の読者投稿欄か一部の同人誌くらいでしか読めなかったのです。
それが、ネットのおかげで、誰かが書いた「人生の蜂の一刺し」を読むことができるようになった。
ところが、「商業化」によって、ネットでは「ダラダラ続く連載作品」みたいなもの、あるいは、「PVさえ稼げればいいんだから、どんなに叩かれても、いや、むしろ炎上してくれたほうが嬉しい。どうせお金のために書いているだけの文章で、本心じゃないんだから」というものが、目立ちやすい場所に置かれるようになりました。
いや、お前はどうなんだ、と言われると、返す言葉はないんだけれど。
ここもまた「ダラダラと書き続けているだけの場所」であり、広告だって貼ってあるのだから。


ブログって、「読まれること」や「稼ぐこと」、「続けること」の呪縛から逃れることができれば、本当に「自由」な場所だと思うんですよ。
それがもっと、活かされてほしい。
でも、人はなかなか「自由」に耐えられないんだよね。
作文の時間に「なんでも好きなことを400字の原稿用紙1枚書け」って言われたら、けっこう困っていたのを思い出します。


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