いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

「つまらない」「他人を苛立たせる」でお金を稼げる時代を生きるということ

最近、自分にとっての「面白い」とか「好き」について、あらためて考えてしまうのです。
僕は基本的に意志が弱い人間なので、外食のとき、「今日は酢豚定食にするぞ!」と思いながら着席したにもかかわらず、メニューをパラパラとめくり、店員さんがオーダーを取りに来た瞬間に「うーん、餃子定食ダブルでお願いします」ということがよくあります。
今日は、いつもと違うものを食べようと思っていたのに……


書店で本を見かけたときも、最近話題の哲学書と芸能人が書いた告白本みたいなものを見比べて、そりゃやっぱり、勉強になるこっちだよなあ、と哲学書を買って帰るのですが、家に着いたとたんにページをめくるのがめんどくさくなり、「積み本」になってしまうこともよくあるのです。
本当は「こんな下世話な本」のほうが、僕にとっては読みやすいし、読みたいのだろうと思う。


自分のことは、自分では(自分でも?)よくわからない。
いや、わかっているんだけど、認めたくないだけなのかもしれない。
『愛の貧乏脱出作戦』は、達人の技よりも、冒頭の「どうしようもない店」の「どうしようもな経営者」を見てバカにするのが楽しかったのだよなあ、きっと。


最近のブログに関するさまざまな話題をみていて、思うところがあって。
「こんなつまらない内容がブックマークを集めて、ホットエントリとして大きく採りあげられるなんて!」とか、「この人、PV(ページビュー)稼ぎのために、わざと読む人を挑発してるんだろ、周期的にこういう炎上上等記事を書いているのは、狙っているんだろうな、なんでみんなそれに乗せられてるんだ?」と感じることがあります、よくあります。
でも、結局のところ、そういう「つまらない記事」「人を挑発して、不快にさせ、反論のためのブックマークをかき集める記事」を僕も見ているわけで。
「あっ、このブログ、また『つまらないこと』を書いているんじゃないかな」って、黒い期待をして、覗きに行くことも少なくありません。
世の中には、もっと有益なことを発信しているブログはたくさんあるはずなのに、僕はいつの間にか、そういう良心的なブログから、足が遠のいてしまう。


「つまらなさを確認するため」「また酷いこと書いてるな、と嘲笑するため」に頻繁に訪問するというのは、結果的には「大ファンがやっていることと同じ」なんですよね。自分の中での理由は真逆なはずなのに。


僕は子どもの頃、アンチ巨人だったので、テレビで野球中継を観ながらずっと、「巨人負けろ!」って呪っていました。
そして、野球中継のなかでときおり表示される、カープ戦の途中経過に、一喜一憂していたのです。
当時は、ネットでリアルタイムに試合経過を追う、なんてことはできなかったから。
でも、それって中継している日本テレビからすれば、「巨人戦中継を観て、視聴率を上げてくれるお客さん」のひとりでしかなかったのです。


「つまらないと思っている」「ムカつくと感じている」コンテンツの「つまらなさ」や「破綻した内容」が、僕をひきつけている。
その一方で、「素晴らしい」「役に立つ」というコンテンツは、認めているつもりで、なんとなく敷居が高くなっていく。
よく見に行くのは、「つまらない」「読んでバカにできる、優越感に浸れる」ものばかり。
それって、結果的に、僕にとって「本当に面白い」のは、「つまらない、とバカにできるもの」だということになってしまうのではなかろうか。
「つまらない」から、「面白い」んだ。
安心して、バカにできるんだ。


インターネットの世界では、いま、パラダイムシフトが起きているのです。
それは、「(本当に)つまらない」「他人を苛立たせてしまう」という、これまでの時代では、どう転んでもプラスにはならなかったキャラクターで、お金を稼げるようになったことです。


芸人さんにも、「スベリ芸」を売りにしている人って、いますよね。
でも、彼らはけっして、「本当につまらない」わけじゃない。


fujipon.hatenadiary.com


この本のなかで、「ロンドンハーツ」「アメトーーク! 」などの人気番組のプロデューサー・加地倫三さんは、こう仰っています。

 最近では「スベる」ことが特徴となっている芸人さんもいます。見ている側は、「あの人はスベってばかりで面白くない」と思っているかもしれません。

 でも、これは大間違いです。ただ単にスベる人は単なる面白くない人です。テレビには出られません。


 彼らは、スベっている様子や、その後のリアクションも含めて、やっぱり「面白い」人なのです。一見、空気を読んでいないように見える人もちゃんと読んでいます。出川さんや狩野も空気を読もうとしています。それがズレて面白くなるので、彼らはさらにスゴい人たちなのですが(笑)。


 そういう人たちが普通の飲み会にでも出てくれば、とてつもなく面白い。一般人のレベルとは全く異なります。ちょっと面白いというレベルの素人では、絶対に太刀打ちできません(もちろん飲み会で、あからさまにその力を出したりはしませんが)。


 たまに芸人さんに密着する企画で、僕と食事をしている場面をカメラに収めることがあります。そのVTRを編集のために見ていると、彼らと比べていかに自分のしゃべりがダメか、思い知らされて嫌になってしまいます(それを芸人さんに話すと、「素人なんだから嫌になるのはおかしい」と言われますが……)。


 構成力、間、トーン、言葉のチョイス……全てが違います。
 同じ話をするのでも、素人とプロの面白さのレベルはケタ違いなのです。
 それは当然と言えば当然で、芸人さんたちは、日々の修業、努力で話術を磨きぬいているのです。


考えてみれば当たり前のことなんですが、何か「特別に光るもの」がなければ、タレントとしてテレビに出演することはできません。
少なくとも、出演者を選考する側に、なんらかの期待を抱かせるくらいの能力が求められるのです。
もちろん、その中で面白い、つまらない、という序列はあるのでしょうけど、彼らはプロ野球選手みたいなもので、二軍選手でも、そこらにいる草野球のエースのおじさんとは、レベルが違う。


これまでの世の中では「つまらなさ」や「他人を苛立たせる言動」というのは、「マイナス因子」でしかありませんでした。
仕事はできないし、一緒に働いている人たちも不愉快になる。
いつのまにか重要な仕事からは外され、孤立してしまう。
本人も周囲も、損することばかりです。


ところが、いまのネット社会では、「比較的安全なところからツッコミを入れる」ことが可能になったこと(やや偏った双方向性)によって、「圧倒的につまらない」「ひたすら人を苛立たせる」というのが、コンテンツとして成立して、やりかたによっては、お金が稼げるようになったのです。
いわゆる「炎上芸」ってやつです。


職場や隣人だと、「困った人」に積極的に関わるのはリスクが高いので、「触らぬ神にたたりなし」と、「こいつ困ったヤツだな……」と思いつつも敬遠するのが「大人の対応」でしょう。
でも、ネットでは、そういう人に直接危害を加えられるリスクが低い場所から「観賞」できる。
ときには「イジる」こともできる。


ただ、それは、イジられる側にとっても、「ネットでお金を稼ぐ」ということができる環境ならば、「PVが増え、収入につながる」というメリットが生まれてくるのです。


たぶん、人類がはじまってからずっと、「他者から嫌われること」って、デメリットばかりだったと思うんですよ。
ところが、インターネットは「つまらないこと」「他人を苛立たせること」をコンテンツに昇華してしまった。
もちろん、これは「炎上することでメンタルがやられてしまうような、ナイーブな人(というか、それが普通ですよね)」には、あてはまらない話ではあるのだけれど。


あらためて考えてみると、これって、すごいことだなあ、と。
それはたぶん、悪いことではないのだと思う。
うまく生きられない人のためのセーフティネットになる可能性もある。


もちろん、こういう状態がこれからもずっと続くとは考えにくいし、個々のキャラクターに関していえば、賞味期限はそんなに長くはない場合がほとんどなのですが。


もしかしたら、今というのは「つまらない」こそ面白く、「不快」こそ「快」な時代のかもしれません。
あるいは、人間がずっと潜在的に持っていた性向が、ネットというツールのおかげで、ようやく顕在化してきたのだろうか。


たくらむ技術 (新潮新書)

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