いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

「いつから僕たちは手を叩きながら笑うようになったのか」

映画監督、ノンフィクション作家の森達也さんと、さまざまな世代、立場の人たちとの対話をまとめた『アは「愛国」のア』(森達也著・潮出版社)という本を読んでいたら、こんな話がでてきたんですよ。

森達也数年前に、ゼミの学生たちと飲みに行ったとき、誰かのギャグに対して他の学生たちが、手を叩きながら笑うことに気づきました。拍手ではなくて、柏手のようにして、笑う時に顔の前で手を叩く。僕たちが若い頃にはなかった習慣です。いつこんな作法が始まったのだろうと不思議だったけれど。


D:言われたらそうですね。でも当たり前のように手を叩いていました。


森:もしかしたら世界的な傾向なのだろうかと思ったこともあった。でも去年。ヨーロッパで学生たちを観察する機会があったけれど、笑うときに手を叩くことはなかった。日本だけかもしれない。そこから推察すると、テレビのお笑い番組の影響なんだと思う。関根勤さんなんかが典型だけど、お笑い芸人のほとんどは、顔の前で手を叩きながら笑います。あれは目立つためですよね。それがいつからなのかわからないけど、テレビ画面を通して若い世代に感染した。
 別にいいんです。笑いながら手を叩く習慣が定着したからといって、人に害を与えるわけじゃない。でも僕たちはいつのまにか、このようにメディアから影響を与えられているということについては、もっと気づいたほうがいい。


E:面白さ至上主義みたいなものも、その柏手と同じで、どんどん感染していくのかもしれません。笑えなければダメ、面白くなければダメ、と。


D:面白い話、笑いの取れる話の一つもできないヤツは、コミュニケーション力がないと判断されてしまう。


僕もこれ、ずっと気になっていたんです。
僕自身も、「手を叩きながら笑う」のですよね、飲み会の席などで。
ふと、「あれ、なんで僕は笑うときに手を叩いているのだろう」と気づいたとき、なんだかとても気味が悪かった。


この森さんたちの対話のなかでは「テレビや芸能人の影響」が語られているのですが、僕自身には「真似をしている」というような意識はみじんもなかったのです。「目立とう」という自覚もまったくないし。
そもそも、そこで話の主役でもない僕が「目立つ」必然性なんてない。
基本的に、できれば目立ちたくない人間ですし。


じゃあ、ひとりでテレビを観ているときに「面白くて笑う」というシチュエーションで、手を叩いているかと言われると、僕はたぶん「叩いていない」はずです。
このへんすごく曖昧なんですが、自分のそういうふだんの行動のパターンって、自分自身では案外はっきりとは記憶していないものなんですよね。


ということは、やはり、誰かに見せるため、なのだろうか。
あれこれ考えてみたのですが、あまりはっきりとした結論は出ません。
ただ、僕の場合は、どうも自分の感情表現というものに、あまり自信がないのかもしれないな、とは思うのです。


「手を叩きながら笑っている」っていうときは「本当に面白いから笑っている」というよりは、「この話を自分が面白がっているほうが何かと都合が良さそうだ」というときのような気がします。
「面白いから笑う」のではなく、「面白がっているほうがみんなに好感を持たれる状況だから、笑っていることにしておこう」という。
でも、自分がうまく笑えている自信がないから、手を叩くことによって「補強」している。
「僕は、これを面白いと思っているのですよ、ほんとうですよ」って。
もちろん、その場でそういう意識のフローチャートが自分に見えているわけではないですけど。


「笑うときに手を叩く必要性」なんて、全くないのに、いつのまにか、それが「あたりまえ」になってしまっているというのは、あらためて考えてみると、けっこう不思議ではありますね。
こういうのって、「関根勤さんが手を叩いているから、自分もそうしよう」なんて意識的にはじめた人って、ほとんどいないはず。
でも、いつのまにか、そういう人が増えている。


いつから?と思い返すと、大学時代くらい、いまから20年くらい前から、のような気がするなあ。
大学生になって、「飲み会」とかが多くなってから。
少なくとも、僕の観測範囲では、生まれたての赤ん坊は、手を叩きながら笑うことはない。


「目立ちたいから」なのか「不安だから」なのか、それとも、その両者が入り混じったものなのか。
そして、この「無意識の習慣」は、僕自身が年をとっても、あるいは、次の世代の人たちにもずっと続いていくのだろうか。



アは「愛国」のア

アは「愛国」のア

アクセスカウンター