「ネット慣れ」してしまった僕は、なんだか、こういうまとめにも、うんざりしてしまうのです。
この「善意がこもっているのだから、千羽鶴を要らないなんておかしい」という人たちは「ありがた迷惑」だなあ、と確かに思うんですよ。
でも、こんなふうにそういう人たちを集めて吊るし上げ、みんなで叩いているコンテンツがネットで人気になって拡散されているという現象って、誰が得するんだろう?って思うのです。
こうやって見せしめにすることによって、「そういう考えの不愉快な奴ら」は減るだろうと考えているかもしれないけど、こういうのは氷山の一角でしかないし、彼らがネットを見ているとは限らない。
そもそも、被災している人たちは、こんなふうに誰かがバッシングされたところで、うんざりさせられるだけではなかろうか。
叩いているほうだって、これでPV稼いでやる、とか、悪いやつらをやっつける俺カッコいい、とか、そんなものなんじゃないかね。
こういう叩き方をしても、彼らはかえって意固地になったり、アカウントを消して「あー、ネットってめんどくさい」って思うだけなのでは。
まあ、千羽鶴を送ろうかどうか迷っている人への抑止効果にはなるのかな。
こんなのいちいち採りあげてバッシングする時間があったら、それぞれの被災地が必要としているものを拡散しようとすればいいのに。
(とか考えていたら、今朝のワイドショーで、「被災地で欲しいもの」のなかに、テレビとかカメラとかが入っていて、「それ、本当にいま必要なの?」と問題になっている、というのをやっていました。明らかに不要そうなもので、理由も明確でなければ、送る側も考えたほうが良さそうではあります)
僕は子どもの頃、広島でけっこう長く生活しました。
平和公園の原爆の子の像のまわりに飾られているたくさんの千羽鶴のことは、よく覚えています。
Wikipediaによると、毎年10トンもの千羽鶴が世界各国から、広島に送られてくるそうです。
紙製で10トンって、すごい量ですよね。
あの折り鶴が「邪魔だし、役に立たないから」ということで、その分のお金として送られてきたのだとしたら、どうだろうか。
それを何に使ったとしても、平和公園を訪れた人に、あの像のまわりの折り鶴ほどのインパクトを与えることは難しいと思うのです。
あれをみると、世界の子ども(おとな)たちの原爆で亡くなった人への悼みと平和への祈りを感じずにはいられません。
一羽一羽、誰がが自分の手で、時間をかけて折った、という背景こそが、折り鶴の存在価値なのです。
まあでも、1945年8月7日の広島に、千羽鶴を持ってお見舞いに来る人はいませんよね。
もともと千羽鶴というのは、病気快癒を願う習俗だったそうなのですが、原爆症で亡くなった女の子が、長く生きられることを願って自分で折っていたのが広まったのだそうです(Wikipediaによる)。
考えてみてください。
もしここに、「あなたの病気が確実に治る薬」と「千羽鶴」があったとしたら、どちらが欲しいですか?
……そりゃ、薬だよね、普通は。
でも、僕たちは、入院している人、病気と闘っている人に、千羽鶴を折って贈ることがある。
それは、病気を治すことができない人間の「祈り」なのだと思う。
生きていると、自分自身や周囲の状況に対して、「祈るしかない」状況に置かれることがある。
何もできないけれど、何かせずにはいられない。
そんなときの「最後の手段」なんですよね、千羽鶴って。
昨年夏、この『大英博物館展』に行きました。
大英博物館から、人類の文化を辿る「100の作品」が選ばれ、展示されていたのですが、各会場では、それぞれ「101個目の作品」が独自に選ばれ、最後の部屋に置かれていたのです。
九州国立博物館の展示の「101個目」は、「折り鶴」でした(ネタバレだけど、もう終わったからいいよね)。
なんか俗っぽいな、もっとマシなアイデア、なかったのかな、とボヤきつつも、僕は長男と一緒に鶴を折ったのですが、人が「現代の医学では治すのが難しいような病」とか「歴史上、人間がおかしてしまった、もう、とりかえしがつかない罪」みたいなものと向き合ったときの方便として、この「千羽鶴」っていうのは、存在しているのかもしれません。
実際の効果はないのだろうけど、何かやらないと落ち着かない、そのくらいのことしかできない。
そんなやるせない祈りが、そこにはあるのではないかなあ。
いまの熊本の震災での被害は、まだ「振り返って、祈るしかない」ものではありませんし、少しでも状況を良くすることが、非被災者の協力で、可能なはずです。
僕は、千羽鶴が絶対的に迷惑だとか悪いとかは思いません。
いま、この急性期には、千羽鶴の優先順位は限りなく低い(あるいは有害)という、ただ、それだけのことです。
だから、僕の子どもの分も一緒に、義援金を送りました。
とりあえず、いま(に限らず将来的にも)被災地にいちばん必要なもので、相手を困らせる可能性が低いものって、「お金」だと思うんですよ。かさばらないし。
お金があれば、なんらかの形で、必要な物品は現地に届けられていくはずです。
素人が工夫して送るよりも、効率的なやりかたで。
だから、「何かしたいのだけれど、どうすればいいのかわからない」という人は、義援金を送りましょう。
子どもだって、募金箱にお小遣いを入れればいい。1円でもいいから。
あるいは、「助けてあげようよ」って、身近な大人の背中を押してあげればいい。
なんとなく「子どもが使う文房具」みたいなものを送ったほうが、使っている姿をイメージしやすくて、「役に立った感」があるのですが、それは、あくまでもこちらの都合、なんですよね。
地震発生後しばらくして、避難所にいた人が「子ども用の紙オムツは全サイズ潤沢に揃っているのですが、大人用の紙オムツが全然足りません」と言っていたのが印象的でした。
その偏りに支援者の意図が反映されていたのかどうかはわからないのですが、僕も「オムツ」といえば、赤ちゃんが泣いている姿しか思い浮かばなかったのです。
身近なところに、オムツを欠かせない大人が、たくさんいるにもかかわらず。
自分の「善意」の成果を、わかりやすい形で、心地良く受け取りたいのは、みんな同じなのでしょう。
千羽鶴を送りたい人と、紙オムツといえば赤ちゃん用、としか想像できなかった僕は、たぶん、似たようなものなのだと思います。
身も蓋もない話ではありますが、今はまだ、千羽鶴の出番じゃない。