寄稿している『BLOGOS』というニュースサイトの『BLOGOS AWARD』という企画で、「入選」に選んでいただきました。
「賞罰なし、著書なし」で長年続けてきたこの猿めにこんな賞をいただき、恐縮です。
あらためてみてみると、他の人はみんな有名人ばっかりじゃないですか!
大賞は、よしりん(小林よしのりさん)だし!
若かりし頃、『ゴーマニズム宣言』を熱心に読んでいた僕としては、なんだかとても感慨深いというか申し訳ないというか。
場違いも甚だしいのですが、まあ、そういう人もひとりくらい入れておこう、ということなんだろうな、と勝手に解釈しておきます。
正直、こうしてブログを書いていると、叩かれることは頻繁にあっても褒められることはほとんどなく、Google Adsenseの数字が地道に上がっていくのを見ることだけが楽しみ、という、やさぐれた気分になってしまいがちなので、こんなふうに評価していただけたのは嬉しいことでした。
宣伝と自慢かよ、ケッ!と思われた皆様、本題はここからです。
このAWARDのお話をいただいた際、「受賞者コメントを」ということで、いままでそういうコメントの機会がなかった僕は、あの夜のひらまささんのように、Googleで過去の受賞者コメントを調べてみたのです。
みんな、どんなコメントをしていたのだろう?って。
そのなかで、5年前、2011年のAWARDで「大賞」を受賞された、ちきりんさんのこんなエントリを見つけて、読みふけってしまいました。
『「誰が言ったか」ではなく、「何を言ったか」が問われる時代へ』というタイトルがすごく印象的だったんですよね。
ちょうど昨日『琥珀色の戯言』で、ヒットの崩壊』という新書を紹介したのですが、この新書のなかに、こんな文章が出てきます。
2010年代、グローバルなポップ・ミュージックのシーンには『ロングテール』で描かれた予測とはまったく異なる状況が訪れている。一部のトップスターのメガヒットが利益の多くを占める「ヒット主導型」の世界が広がっている。
アデルだけではない。ビヨンセ、リアーナ、カニエ・ウェスト、ジャスティン・ビーバー、テイラー・スウィフトなど、スーパースターたちの存在感はさらに増している。
ハーバード・ビジネススクールの教授であるアニータ・エルバースは、著書『ブロックバスター戦略——ハーバードで教えているメガヒットの法則』(東洋経済新報社)の中でその背景を分析している。
近年のエンタテインメント業界には、ヒットが確実な作品に対して集中的にマーケティング費用を投下するようになった。この「ブロックバスター戦略」により一部の売れ筋に人気が集中するようになったという。
音楽だけではない。ハリウッドでは大作映画に巨額の制作費と宣伝費が投下される。出版業界においても一流のベストセラー作品が利益のほとんどを叩き出す。スポーツ界においても高額な年俸でスーパースターを集めるサッカークラブが高収入を上げている。
こうした「ブロックバスター戦略」は以前からあったのだが、インターネットが普及した結果、さらにその有効性が高まったというのがアニータ・エルバースの論だ。
『ブロックバスター戦略』の中では、デジタル音楽市場の分析によって、「ロングテール」の実態が解き明かされている。
事実、かつてに比べリリースされる作品の量は格段に増えた。制作費が安くなったこと、誰もがネットを通して作品を発表できるようになったことで、とても広大なニッチ市場が成立するようになった。ロングテールは確かに長くなった。しかし、その先端は極端に細くなり、ロングテールの先っぽは、儲けを出すにはほど遠い小規模の売り上げのものが占めるようになった。
その一方で、SNSが普及したことで「みんなが話題にしている」という状況がもたらす波及力がさらに増した。人々は、周りの人と同じ音楽を聴きたがり、同じ映画を観たがるようになった。エンタテインメント産業における勝者の絵依拠力がより強くなった。結果、圧倒的なスケールで成功をおさめるトップスター、いわば「ロングテール」と対極の「モンスターヘッド」の存在感が増した。
インターネットの普及によって、音楽の趣味が多様化し「ロングテール化」(さまさまな種類のニッチな商品が少しずつ、たくさんの人に売れることによって「少数のヒット主導型」ではない市場ができること)していくと予想されていたのが、必ずしもそうではないようです。
音楽産業だけの話ではなくて、「インターネットが、黎明期に識者が予想したようには、世の中を変えなかった」あるいは「予想外の方向に変えてしまった」ということは、少なからずあるように思われます。
ネットで音楽産業はロングテール化するかと思いきや、世界レベルでは「ブロックバスター」が、より一層、幅を利かせるようになったのです。
むしろ、「世界レベルでの『みんなおんなじ』を選ぶ」傾向が強くなってしまったのです。
インターネットが普及しはじめた20世紀の終わり、僕は、まさにここで、ちきりんさんが仰っているような「発言者の属性ではなく、発言の内容だけで評価される時代がくるのではないか」と期待していたのです。
ひらたく言えば「無名の人でも、正しいことを言えば、みんなが認めてくれる時代」が来る、そして、国境や人種の垣根をこえて、人と人とが直接「わかりあえる」ようになるのではないか?
さて、現状はどうなのか?
正直なところ、2011年の時点でも、ネットは「何を言ったかよりも、誰が言ったか」という世界になっていたのではないか、とも思うのです。
そして、SNS(ソーシャルネットワークサービス、TwitterやFacebookなど)が一般化してきたことによって(個人ブログの時代は、まだ「目立ちたがりの趣味」的なイメージもありました)、ネットは、さらに「属人的」な世界になってきていると僕は感じています。
インターネットは、ちきりんさんの予想や期待に反して、『「何を言ったか」よりも、「誰が言ったか」』の世界に「逆行」しているのではないか。
ネットには、人も言葉も多すぎるから、「属人的」にしないと整理できない、というのも、やっぱりあるとは思うんですよ。
でも、ネットで書く側にいると、「書いている内容」よりも「書き手の人格」を批判されることが多いと感じますし、「この人は炎上芸人」などと「叩いていい人」と認知されると、おかしくないことを言っていても「こいつは○○だから」と問答無用で罵詈雑言を投げつけられているように見える人もいます。
最近話題になったこの記事。
bylines.news.yahoo.co.jp
ブックマークコメントをみると、この記事の著者のやまもといちろうさんを批判している人も多いみたいです。
はてなブックマーク - ほぼ全部ステルスマーケティングの糸井重里『ほぼ日刊イトイ新聞』の憂鬱(山本一郎) - 個人 - Yahoo!ニュースb.hatena.ne.jp
この『ほぼ日』の事例って、けっこう「グレーゾーン」だと僕は思っています。
「コピーライターの糸井さんがやっているのだから、通販サイトみたいなものじゃないか」って、僕もそう思うよ。
ただ、それは僕が年齢的に「おいしい生活」とか「不思議、大好き」の頃から糸井さんを知っているから、であって、今の若い世代は、そういう糸井さんの来歴を知らない人も多いはず。
『ほぼ日刊イトイ新聞』が上場をめざし、収益化に取り組んでいることは事実だし、黎明期に比べると「商品PR色」は確実に強くなってきています。
これって、「PR表記」は本当に要らないのだろうか?
本当に必要かどうかは微妙なところなのかもしれませんが、少なくとも、やまもといちろうさんがこういう問題提起をしたことそのものは、別におかしくないと思うんですよ。
「糸井さんだから信頼できる」みたいなのは、ある意味「信者の言い分」なわけですし。
糸井さんじゃない人が同じことをしていたら問題になる、というのなら「法」ではない。
こういう事例では、「PR表記が必要なのかどうか?」を議論すればいいだけのはずなのですが、「やまもといちろう」=叩いてもいい人、「糸井重里」=叩くべきではない人、みたいな前提条件に立ってしまっている人が多いように感じます。
これが、他の事例では「やまもといちろうさんが叩いている人」=「叩いていい人」という力関係になることもある。
いずれにしても、ネットで誰かを叩きたい人は、叩けるほうを叩くだけの簡単なお仕事です。
書いていて最近とくに感じるのが、「どんな記事に対しても、書いている側を攻撃する人」が目立つ、ということなんですよね。
それも、内容ではなくて、人格を。
夫婦の間の問題が「はてな匿名ダイアリー」に書かれると、夫側が書けば夫を批判、攻撃するコメントが多くなり、妻側が書けば、妻側が標的にされる。
「痛がっているのが見えやすいほうを攻撃したがる人」が存在しているのではないか、という気がしてならないのです。
もちろん、ネットに文章を書くと、あれこれ言われることはある程度覚悟しておかなければなりません。
批判をするな、悪口も言うな、という訳じゃありません。
でも、「叩けるものを叩くだけ」って、単なるストレス解消、あるいは嫌がらせでしかない。
「とりあえず姿が見えるものを叩きたい人」が、ネットの「無難なことしか言えない場所化」をさらに押し進めているのではないか、と感じるのです。
西暦2000年前後のごく短い期間(ちょうど「テキストサイト」の全盛期くらいですね)には、「どこの誰かは知らないけれど、面白いことを書いている人がいる」ということでブレイクした人がいたのだけれど、その後は、「ネット渡りが上手なもともと有名だった人」の時代が続いています。
結局のところ、『「誰が言ったか」ではなく、「何を言ったか」が問われる時代』は、まだ来ていない。
そして、これまでの流れをみていると、少なくとも今のインターネットという形では、たぶん、そういう時代が来ることはない。
ちきりんさんは「ツールの変革期に、うまくそれを利用することによって世に出た」だけで、世の中の仕組みそのものは、変わらなかった。
ただ、それが絶望なのかどうか、というのは難しいところがあって、「ネットの反応が怖い」というのは、人々を萎縮させることがある一方で、それまで「誰にも知られることがなかった善行」が広い範囲に拡散されたり、「旅の恥はかき捨て」みたいな行動を抑制したりする「たぶん社会にとってプラスの変化」も、もたらしているのです。
SNSは「ネットの中によそ者を排除したコミュニティ」をつくりあげています。
今は、「リアルで会った人を、ネットで検索してどんな人か確かめる時代」になりました。
インターネットは、僕の生活を劇的に変えてくれた「便利」なツールです。
でも、「便利」以上のものではなかったのだな、と、今、あらためて噛みしめているのです。
- 作者: 川上量生
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