いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

ブログで、人生が(たぶん)変わった話

ブログを書き始めて、人生変わったこと。


僕は、生きていて感じる「ちょっとした疑問」を書くのが好きです。
それで、書いているうちに「平凡な人生の、ちょっとした起伏を見つけるのが楽しくなってきた」すなわち、「平凡な人生が、けっこう面白くなってきた」「退屈を感じることが少なくなった」ような気がします。


たとえば、こんな話を書きました。
「すき家」と「吉野家」の生卵の話 - いつか電池がきれるまで


まあ、こういうのって、どうでも良い話、だと思うんですよ、大部分の人にとっては。
僕自身にとっても、「人生を左右するような話」じゃありません。
でも、ブログを書き続けている人間、とくに、僕みたいに「日頃の出来事を拾う」ような文章を書いている人間にとっては、こういう「日常生活のちょっとした気付きとかヒラメキ」で、すごく嬉しくなるのです。
大概において「日常」というのは、パターン化されていて、面白くないものです。
いや、面白くないというか、そんなものが面白いかどうかさえ、考えない。
日常は、ただ淡々と過ごして、なにか「特別なイベントのとき」に備えようとしている。


ところが、こんなふうに「日常でネタを探す」ような習慣が身につくと、なんだか、「いつもと同じ日常」の解像度が、少し上がってきたんですよね。
「当たり前のこと」を、「なぜこれが当たり前なのか?」「もっと良いやり方があるのではないか?」と考えてみるようになりました。
そうすると、日常生活って、けっこう謎だらけ、なんですよね。
もちろん、それは良いことばかりじゃなくて、気付かなくてもいいようなことで、思い悩むこともあるのだけれど……
それでも、「日常の退屈」をあまり感じなくなったことは間違いありません。


僕は本当に非冒険的な人間だし、他人からみれば、つまらない人生を送っているかもしれません。
でも、「何か面白いことないかな?」という視点で日常を生きていると、案外退屈しないんですよね。
他人の評価はさておき、僕は、ブログを書くという目的のおかげで、人生が少し楽しくなりました。


「魚釣り」が趣味の人に対して、僕などはこう思っていたのです。
「釣り竿に餌をつけて、魚を釣り上げるだけなのに、何が面白いのだろう? どんな魚が相手でも、同じなんじゃない? そりゃ、何メートルもあるような巨大魚相手とかならともかく」
しかしながら、あらためて考えてみれば、魚釣りというのもまた「環境や目標の魚の習性などに合わせて、最適解を探っていくこと」が楽しいのではないかと思うのです。
詳しくない人からみれば「同じようなことをやっているように見える」けれど、釣りというものにのめり込んでいけばいくほど、一回一回、それぞれの「違い」が見えてくる。
たぶん、本当に釣りが好きな人は、その「違い」を楽しんでいるのです。


Twitterで、こんな呟きがありました。


「教養」とは言えないけれど、「何かを拾って、形にしようという日常への向き合い方」ができるようになって、退屈な人間である僕の人生は、けっこう楽しくなりました。
読んでいる人たちは「何だこのどうでもいい話はっ!」と怒っているかもしれませんが、僕にとっては、その「どうでもいい話」が宝物なんですよ。
「見つけた!」と思うと、内心ニヤニヤしてしまいます。


書くことで考えをまとめることができる、とか、人とつながることができる、という人がいるのもわかります。
ただ、僕にとっては、そんな立派な話じゃなくて。
ブログを書こうとすることは「おもしろき こともなき世を おもしろく」生きるための方便、みたいなものなのです。


読んでくれている人には、付き合わせてしまって申し訳ない、という気持ちもある、と言ったらイメージが少しは良くなるんじゃないかな、と思ったのですが、とりあえず書きたいことを書くので、気が向いたら読んでくれると嬉しい、というくらいが、なんとなくの本心です。
そう言いながらも、まったく誰も読んでくれないと、それはそれで寂しがるとは思うのですけど。

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