いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

新型コロナウイルスと「教育格差」


 長男の小学校は、来週月曜日に始業式、ということになっているのだが、正式決定した、という連絡もなく、ホームページも半月くらい更新されていない。
 福岡県内では県立学校はゴールデンウイークまでの休校延長が発表され、福岡市内の学校も4月17日までの休校が決まった。
 その一方で、地域の感染者が少ない、ということで、現時点では、4月6日の始業式を予定している地域もあり、正直、困惑している。
 そろそろ休校の延長なのか、授業再開なのかはっきりしてもらいたのだけれど、長男の学校側も、ギリギリまで悩んでいる、というのが正直なところなのだろう。
 中学受験とかに力を入れている(ことをアピールしている)学校としては、カリキュラムの消化を考えると、「休みが長くなりすぎると学習に支障が出る」ことを危惧しているのだろうし、周辺地域では今のところ患者数がほとんど増えていない、というのもある。
 しかしながら、福岡市内から公共交通機関で通ってきている生徒が多いので、通学時のリスクを指摘されると「絶対にだいじょうぶです」とも言い難いだろう。

 まずは命が大事、というのは、当たり前のことだ。
 だが、日常生活において、全くリスクがない、というのもまたありえない話ではある。
 交通事故に遭うかもしれないし、通り魔に襲われる可能性だってある。

 正直、休校が長引くことには不安も大きい。
 家にずっと籠っている状態では、勉強もはかどらないし、他の子と差がついてしまうのではないか、とも思う。
 そもそも、これだけ長い間学校に行かず、友だちとも遊ばない小学生、というのがどういう感じのものなのか、僕にはよくわからない。

 新型コロナウイルスの感染予防のため、3月はじめから学校が一斉休校になった時期のことだ。長男が通っている塾で、先生と話をする機会があった。

 僕は「この塾は、新型コロナの影響で閉める予定はないのですか?」と尋ねたのだが、先生は、「いえ、うちは基本的に先生と生徒がマンツーマンですから、感染予防をして、密着しないように、換気を心がけて続けていきますのでご安心ください」と言っていた。

 「でも、こんな状況では、通ってくる生徒も少ないのでは?」

 「それが、全然そんなことはないんですよ。学校が休みになって時間ができたから、受験勉強をしっかりやって差をつけるチャンスだ、どんどん授業を入れてほしい、という親御さんが多くて、かえって忙しくなっています。ある親御さんは、『まさかお休みになんかしないでしょうね!』とまで仰っていて……」

 そのときは、こんなにいろんなことが長引くことになろうとは思わなかった。
 学校が休校になる、というのは、感染のリスクや子どもの身体のことを考えると、やむをえない措置であるというのは理解できる、しなければならないと思う。
 いろんな人から、「子どもが学校に行っていてくれないと、自分は仕事に行けなくて収入がなく、困る」という話もたくさん聞いた。
 
 「学校が休みになる」、とくに義務教育が休みになるというのは、長引けば長引くほど、「教育格差」みたいなものをどんどん拡大していくのだ。
 少なくとも学校では勉強していた(授業中に席にはついていた)、という子どもたちは、学校がなければ勉強しなくなるし、親も「自分の仕事で精いっぱいで、子どもの日中の生活にまで目が届かない」のが現実だろう。
 その一方で、教育熱心な親たちは、お金を出して、個別指導の塾や家庭教師を利用し、子どもに勉強をさせ続けている。
 ほんの数か月、ではあるけれど、数か月の差というのはけっこう大きい。
 もっとも、こういうのはこれまでもずっと続いてきた日常的な格差であり、休校によって、義務教育で多少なりとも平準化されていた部分が失われているだけではあるけれども。

 焦ってはいけない、のはわかっている。
 僕は以前、大雪の日に当直先から自分の病院に急いで戻ろうとして車をスピンさせ、岩壁の直前でなんとか止まってくれた、という経験をした。
 そして、バカバカしいことに、僕が長時間かけてようやく着いたときには、天候がすっかり回復して、道路はスムーズに走れるようになっていた。状況が良くなってから出発しても、到着時間は1時間くらいしか変わらなかっただろう。
 それ以来、「時間が経てば状況が良くなる可能性が高いことは、焦らずに安全になってからやる」よう心がけている。
 遅刻しても一日気まずい思いをするくらいだが、事故を起こしたら一生苦しむことになるし、自分だけの問題ではないから。そんなことはわかっているはずなのに、いざ遅刻しそうになると、人は、焦る。

 新型コロナウイルスも、ここで「早く学校を再開しないと子どもたちの勉強が遅れる!」と焦るのは下策だと頭では理解している。
 今は「あと何か月続くのだろう……」と不安で仕方ないけれど、終わってみれば、人生における数か月というのは「誤差」だったり、「ちょっとした思い出」くらいのものだ、たぶん……

 しかし、これだけ長い間「休校」になってみると、あらためて、「学校というものの存在の大きさ」を考えずにはいられなくなる。
 実際は、前述の塾も、今週くらいから、通学時も含む「感染のリスク」を親(あるいは本人)が心配して、休む子どもが増えてきているようだ。
 感染症が広がるプロセスでは「格差」が拡大するが、爆発的に増える事態になると、また「格差」は縮まるのかもしれない。

 正直、僕のところは、なんだかなあ、と思いつつもそれなりにお金もかけて塾に通わせてきた側なので、こういうことを書くのはやや後ろめたいのだが、半世紀近く生きてきて、「始業式の日に学校が始まるのかどうか」を心配する日が来るとは、夢にも思わなかった。
 子どもの頃は、始業式前日に「明日なんかとんでもないことが起こって、学校が突然休みにならないかなあ」って毎年夢想していたのに。
 「当たり前のことが、予定通りに行われる」というのは、本当はすごいことなのだ。まさか、こんな年齢になって、それを思い知らされる日が来るとは。


fujipon.hatenadiary.com

アクセスカウンター