いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

「議論」が「呪い」に変わるとき

参考リンク:「それ見たことか」という展開を望む呪い - ↑ズイショ↓

これを読んで考えたことなど。
基本的には、楽天の田中投手に対して、負の感情を抱いている人って、そんなにいないと思うんですよ。
あの「酷使」をみて、「それでも投げた姿に感動」した人も、「怪我でもして、選手生命が失われたらどうするんだ!」と憤った人も。
田中投手は来年メジャー移籍が取り沙汰されていますが、日本のプロ野球ファンの大部分は「向こうでも活躍して、楽しませてほしい」と願っているはずです。
24勝0敗のエースが流出してしまう楽天ファンには、複雑な思いもあるでしょうけど……
日本の球場で田中投手の姿が見られなくなるのも、寂しくはありますよね、やっぱり。


「こんな酷使をしたら、田中投手は終わってしまうかもしれない」
そう危惧していた人たちも、田中投手という不世出の選手の将来を心配していたはずです。
ところが、人間というのは厄介なもので、「議論」とかいうことになると、「その物事がうまくいく」ことより、「自分の主張が正しいこと」を証明したいという誘惑に駆られてしまいがち。


以前『ゲーセン少女』が話題になったのですが、あれがフィクションであるとわかったときに起こったのは、「あんなわかりやすいフィクションに騙されるバカども」への嘲笑 vs 「フィクションだろうが何だろうが『いい話』に感動して、何が悪いと主張する人たち」のバトルでした。
(と、第三者的に書いていますが、僕も「バカども」呼ばわりにカチンときた人間のひとりだったことを告白せざるをえません)


ただし、ネットにも「現実認識派」はいて、

 まあ、難病で死んだ女の子が実在しなくて、よかったんじゃないか

というような言葉もみられたんですよね。
「現実」からすれば、たしかにその通りで、「ウソでよかった」のでしょう。
ところが、戦っていた人たちは、そこでなかなか矛を収められなかった。
結局のところ「お前らはバカだ」「その態度が気に入らない」と、『三年目の浮気』の夫婦喧嘩みたいになってしまったのです。


原発問題は、まさにこの極致ともいうべきもので、「放射脳」などと揶揄されている一部の反原発派のジレンマは「原発は危険なもののはずなのに、実際の被害は、自分たちが予想していたほど報道されてこない」ことなのではないかと思います。
それで、「こういう話」が出てきたり、有名人が病死するたびに「放射能の影響」とか言う人が出てきたりする。
で、周囲からはその反応をさんざんバカにされて、人格まで否定され、傷ついてしまう。
そこで、「じゃあ、一歩引いて考えてみよう」という人もいると思うのです。
ところが、人間というのは、抑圧されると、かえって反発して信仰を深めたり、抑圧されたもの同士で結びつこうとしたりする。


ネットっていうのは、便利なんですよ。
Twitterの各人のタイムラインなどをみて、あらためて考えてみていただきたいのですが、そこにあるのは「自分で選んだフォローしている人たちの呟き」なんですよね。
しかしながら、フォローしている人がたくさんいると、みんながあれこれ多様性をもってつぶやいているようにみえてくる。
なんとなく、このタイムラインが、世界全体のミニチュアなのではないか、と思えてくるのです。
そこは「自分で観測したい範囲の世界」でしかないのに。
ネットっていうのは、広い世界への窓口であるのと同時に、「自分が見たいものだけを見る」ためにも、けっこう便利なツールなのです。


かくして、「政府やマスコミは真実を隠している」と考える人たちが寄り集まって、お互いの信仰を増幅させていく。
そして、それを批判する人たちは、妥協点を見いだすとか、説得するのではなく、ひたすら彼らをバカにする。
まあ、わかるんですけどね、そういう集団って、基本的に「聞く耳を持たない」ことが多いから。
最初は説得しようと思っていた善意の人々も、結局匙を投げてしまう。
「バカにされている」と感じている人たちは、心の奥で、「自分たちの考えの正しさを証明するようなハルマゲドン(ただし、自分は直接の被害を受けない)」を期待するようになる。


僕はちょっと危惧しているのです。
今度は「反原発派をバカにして溜飲を下げるためだけの集団」としての「反・反原発派」が増えてきたように見えるから。
今回の山本太郎参議院議員の「請願」についての僕の感想は「市民運動で議員になった人が、お上に請願することで問題を解決しようとするなんて、どういうスタンスで政治活動をやっているんだろう?」でした。
あとは「天皇陛下もお困りになられただろうな」と。
ただ、山本議員が請願していたとされる「原発作業員や福島の子どもたちについて」は、最近あまり触れられなくなった原発・被災地問題のなかでも、重要なことだと思うのですよ。
それは「山本太郎が主張していたから」といって、些事にはならないはずなのに、結局のところ、世間で大きな論議を呼んでいるのは「山本太郎が正しかったか」なのです。


『弱者の居場所がない社会』(阿部彩著/講談社新書)の東日本大震災後の「復興」についての項で、阪神淡路大震災後に神戸新聞が行ったアンケート結果が紹介されています。


神戸新聞は、震災後2年、5年、9年に被害が大きかった、東灘・深江地区、須磨・千歳地区)の被災者にアンケートを行ったそうです。


(著者は、「このような追跡調査の常として、よりしんどい状況にある人のほうが調査に答えてくれる傾向があるが」と注釈しています)

 それにしても、愕然とするのは、2年後よりもむしろ5年後、9年後の方が震災前と比べて収入が減ったと答えた人が多いことである。


 震災後5年、9年と言えば、被災していない、たとえば筆者のような人間にとって、震災は、遠い記憶となりつつある頃であった。


 しかし、少なくとも一部の被災者の方々の生活は、悪化していたのである。


 この理由としては、被災者の救済のために震災後に設けられたさまざまな政府系の融資の返済時期がきたことや、住宅再建や事業再開のための借金の負担、失業などが、被災者に二次的、三次的な経済インパクトとして訪れるからと分析されている。


 無事に生活や事業の再建の道を歩んでいた人もいるであろうが、すべての人がそうであるわけではなく、そうでない人々は、この二次的、三次的な経済インパクトを、どこからの支援もなしに、かぶらなくてはならなかったのである。


 周囲が「忘れてしまった頃」に、新たな危機はやってくる。
 震災の影響は、まだまだこれからも続いていくのに、僕は、もう飽きはじめている。


 個人的には、ネット上の議論というのは、お互いに相手の顔がみえないまま、誹謗中傷合戦になってしまいがちなので、あまり得策ではないと考えています。
 大事なのは、「相手を打ち負かす」ことではなく、「これからどうしていったら良いのか考えて、妥協点を見いだす」ことのはずなのに、あまりに入れ込みすぎると、どんどん「自分の主張を補填するための不幸」を期待し、ダークサイドに堕ちてしまう。
 ネットバトルって、けっこうアドレナリンがドバドバ出たりして、興奮するものなんですよ、当事者にとっては。で、多くの場合は精神的なダメージはあっても、実害は出ないので、ついついハマってしまう。
 傍からみれば「不毛なネットバトルに明け暮れている人々」というのは、どちらが正しいとか以前に「どちらも関わりたくない存在」なのに。


 田中投手は怪我しないほうがいいし、原発は事故を起こさないほうがいい。健康被害だって、無いほうがいいに決まっています。
 楽観的になりすぎて、リスクを過小評価するべきではないでしょうが、僕は「なるべくみんなが幸せになる方向」を探したい。
 もっとも、「無責任に上から目線で言い散らかせる」のが、ネットの面白さでもあるのですよね。
 それは、僕自身もやっていることだからなあ……


弱者の居場所がない社会――貧困・格差と社会的包摂 (講談社現代新書)

弱者の居場所がない社会――貧困・格差と社会的包摂 (講談社現代新書)

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