いつか電池がきれるまで

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河内貴哉投手の「最高の16年間」

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河内投手、ついに戦力外か……
今年の4月の阪神戦、ピンチの場面でシーズン初登板したのですが、ボコボコに打たれてしまい、結局、その一試合のみで再度2軍へ逆戻り。
この阪神戦での投球は、調子云々というよりは、いまの河内の球威だと、1軍の主力相手では好調でも抑えるのは難しいみたいだな、と、ある意味「限界を感じる内容だったんですよね。
もともと左腕に乏しいというチーム事情はあるし、1試合だけで判断するべきではないのかもしれないけれど、若手のような「伸びしろ」もないだろうし、これは今シーズンまでかな、と。
そういう意味で「覚悟」はしていたんですよ。
でも、この記事を読んだとき、なんとも言葉にしづらい、感慨みたいなものがわきあがってきたのです。


カープ国学院久我山河内貴哉投手を、中日・近鉄との3球団競合の末に交渉権獲得したのは、1999年のドラフトでした。
当時のカープのドラフトは、「来てくれる選手を指名する」という弱気なもので、ファンは「また負け犬ドラフトか……」とため息をつくことが多かったのです。
いまは「カープ女子」などと盛り上がっていて、マツダスタジアムも人で埋まっていますが、マツダスタジアム完成前のカープは、お金がなくて年俸が安い、設備はボロボロ、人気はないし、練習もキツイ、という、(選手からすれば)積極的に行きたがる人は少ない球団だったんですよね。
そこで、「来たがらない人は指名しない」ということにすると、ドラフトでは、他球団なら1位はないだろ、という選手がけっこうな頻度で1位指名されていたのです。
たまに他球団と1位で競合しても、抽選で当たった記憶もほとんどなかったし。

河内投手を引き当てたのは、当時の達川光男監督で、ゲン担ぎに持っていたという、タバコの『ラッキーストライク』を、誇らしげにかざしていたのを今でも覚えています。

入団した年に引退した、大野豊投手の背番号「24」を受け継いだ河内投手は、ルーキーイヤーの5月3日に早くもプロ初登板。高卒1年目で、こんなに早く1軍の試合に出るなんて、と思ったのですが、荒削りながらも伸びのあるストレートを目の当たりにし、河内はきっとこれからのカープを支える左のエースになってくれるはず!と期待を膨らませるものでした。
その年、2000年の5月30日、巨人戦でプロ初勝利。
まさに「大器」でした。


その後は、プロの壁にあたったのか、期待の割には成績が伸び悩んでいたものの、2004年にブレイク。
オールスター出場も果たし、キャリアで最高の8勝(9敗)を挙げます。
ただ、当時の僕は、この「8勝」は、ステップアップのための第一段階、だと考えていて、これからは、コンスタントに二桁勝てるエースになってくれるはず、だったのです。


ところが、翌2005年には投球フォームを崩し、制球が定まらなくなってしまい、ずっと二軍暮らし。
2006年は後半に中継ぎとして少し存在感をみせたものの、フォームはサイドスロー気味になっており、かつての豪快な投げっぷりと150kmの速球はみられなくなっていまいます。


2008年5月に左肩関節唇及び腱板部の修復手術を受け、2009年オフには育成選手としての契約に。
このとき僕は、「河内、あれほどの素材だったのに、残念だったな……」と、「引退同然」とみなしていました。
かつて、このようなパターンで怪我の経過をみるため育成選手になったあと、再起した選手は記憶になかったので。


ところが、河内投手は、諦めませんでした。
肩の手術から、懸命のリハビリを続け、2011年5月には4年ぶりに2軍の試合に登板。
2軍でも結果を残して、2012年5月には、支配下登録選手に復帰しました。
その年の8月16日のヤクルト戦で、中継ぎをして好投したあとチームが逆転し、2004年以来、2094日ぶりの勝利投手となったのです。


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この試合のことは、今でもよく覚えています。


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この試合の7回表に1-2と勝ち越されたあとに登板した河内は、その回を抑え、次の8回も三者凡退。
その裏、野村謙二郎監督の「河内に勝たせてやれよ!」とのゲキに打線が奮起して逆転し、見事、河内は勝利投手になったのです。


「リハビリ中はいろいろな方に支えてもらった。5年間仕事をせずに休んでいた。4年間も育成契約を結んでくれた球団にも感謝したい」


2009年に結婚した奥様は、ずっとつらいリハビリ時代を支えてきて、「投げる姿を見るのが私の夢」だと仰っていたのだとか。
かつての150kmのストレートの面影はなく、中継ぎとして、スライダーなどの変化球のコンビネーション中心で打者をかわしていくピッチャーにモデルチェンジして、河内は、蘇りました。


この試合、ヒーローインタビューが終わるまで、カープのチームメイトである今村投手と梅津投手は、ベンチで河内投手を待っていたそうです(通常はヒーローインタビューを受けている選手を残してベンチを去ってしまう)。

いつもクールなイメージがある今村投手が、
「だって8年ぶりですよ、ロッカーが隣ですし、いつもお世話になっていますから当たり前ですよ」
と語り、
梅津投手は、
「(左肩手術から)頑張っている姿をずっと見てきましたし、僕が右肩の手術をするか悩んでいた時に、
最後までするなと言ってくれたのが河内さんでした。なにより前から憧れている人です」
と感謝の言葉を述べていました。
結局、梅津投手は手術を受けず、マウンドに戻ってきたそうです。


当時のチームメイトであり、この日の先発だった大竹寛投手(現在は巨人に所属)も、右肩のルーズショルダーに苦しんでおり、
「3軍の(リハビリ)メニューはきつい。でも黙々とこなす河内さんを見ていると、やらないとと思った」
と、自分が勝ち投手になれなかったにもかかわらず、河内投手の8年ぶりの勝利投手を喜んでいました。


3年前、2012年の出来事なのに、この3人と河内投手のなかで、(たぶん)来年もカープにいるのは今村投手だけというのは、あらためて考えてみると、ちょっとせつなくなりますね。


2013年には、リリーフとして、21試合連続無失点、という記録もつくった河内投手。
とはいえ、圧倒的な球威や決め球があったわけではなく、「どうしてこんなに抑えられるのだろう?」と不思議でもあったんですよね。
河内投手の「経験」とか、「人生の重み」が、ボールに乗り移っていたのだろうか。


今回の引退について、河内投手は、戦力外通告後の会見で、こう語っていました。

「高卒でカープに入団して16年間、手術もしていろんなことがあったけど、最高の球団で最高の仲間と、最高のファンの前で、家族にも支えられながら野球ができた。この16年間は僕の中で宝ものになった」
カープから戦力外だと言われる時が引き際だと考えていた。生涯、カープでと考えていたので」


このコメントを読んで、不覚にも、ディスプレイが曇ってきてしまって。
1999年、高校球界を代表する好投手だった河内は、中日と相思相愛だと言われていました。
高校生に逆指名権はなかったので、抽選の結果、カープに入ることになった。
そして、プロ入り当初は「本格派の、チームの、プロ野球界を背負って立つ投手になる」と期待されていたにもかかわらず、なかなか結果を出せず、ようやく勝てるようになってきた矢先に、大きな怪我と手術。そして、長い長いリハビリ。
カープというチームも、よく我慢したとは思うのです。
でも、それ以上に、「どんなにリハビリで頑張っても、プロ入りしたときの150kmの剛速球は投げられるようにならないであろう自分」と向き合うことには、大きな葛藤と苦悩があったと思う。
それでも、河内貴哉は、プロ野球の世界で自分ができることをやって、生き延びてきた。
思いのままにならない、つらいこと、もどかしいことばかりでも、腐らずに、自分のできることを、諦めずに続けてきた。
そして、自分の野球人生は「宝もの」だと胸を張った。


「最高の球団で最高の仲間と、最高のファンの前で、家族にも支えられながら野球ができた。この16年間は僕の中で宝ものになった」


多くの功なり名を遂げた選手の引退コメントには、満足感とともに、後悔や無念さが混じっていることが少なくないのです。


河内投手は、「エースになることを期待されながら、怪我に苦しみ、成績としては『残念』に終わった、もったいない選手」でした。


でも、これほど自分の野球人生を「全うした」人は、そんなにいないはず。
エースじゃない人生だって、こんなに輝ける人がいる(頭髪の話じゃないですよ、念のため)。


河内さん、本当におつかれさまでした。
そして、ありがとうございました。
河内さんは、僕たちにとっても「最高の仲間」でした。
第二の人生でも、もっともっと幸せになってくださいね。



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