東日本大震災から5年後の3月11日を迎えました。
九州在住の僕にとっての「あの日」というのは、とくに揺れも生活上の不便もなく、研究会に出席して家に帰ったあと、テレビをみて「画面にうつっている信じられないような状況」と「ふだんの日常を過ごしている自分」のギャップに、ひたすら困惑していた記憶があります。
7歳の長男は、いまだに「津波、こわい」って、思い出したように言います。
実際にそれを体験したわけではなく、テレビに映っているのを観ただけなのに。
あれから、5年。
変わったこともあり、変わらないこともあり。
東日本大震災を境に「情報リテラシー」(情報活用能力、とでも訳しておきます)について多くの人が考えるようになったのは事実です。
その一方で、原発についての考えや、今後の安全対策も、みんなが同じ方を向いて、とは、なかなかいかない面もあるのです。
3月11日ということで、僕がこれまで読んできた東日本大震災関連の本のいくつかを御紹介しておきます。
本をいくら読んでも、わからない、伝わらないところはあるはず。
でも、本を読むというのも、あの記憶を伝えていくためのひとつの手段であることは間違いないと思うから。
(1)検証 東日本大震災の流言・デマ
fujipon.hatenadiary.com
震災時の流言やデマについて、かなり早い時期にまとめられた新書。
発生時に近い時点で書かれたものなので、当時の「空気感」みたいなものが色濃く伝わってきます。
(2)遺体
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このルポルタージュは、震災で亡くなられた方々の「遺体」と向き合うことを余儀なくされた人たちの物語です。
彼らは「被災者」である一方で、「多くの身内や知り合いを失いながら、自分は生き延びた人たち」でもあります。
安置所で遺族の話を聞き続けた人、検死、検歯を担当した地元の医師、自衛隊員、遺体を搬送した地元の消防団員たち……
みんな、「こんな災害が起こらなければ、ごく普通の社会生活を続けて、平凡な人生をまっとうしていた」はずの人たちです。
(3)あの日からのマンガ
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しりあがりさんは、「震災後の世界」を、「被災者の立場からみた悲劇」としては描いていません。
あくまでも、「周辺にいる人」として、しりあがりさん自身から見えている世界と、そして、もっと俯瞰的に「大きな歴史のなかで、この震災の位置づけ」(として、しりあがりさんが考えていること)が描かれているのです。
(4)僕と日本が震えた日
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このルポルタージュは、被災地のことを直接描いたり、原発事故に対する東電の責任を追及したりするものではありません。
みそさん自身が「手に届く範囲」で、心配なこと、気になっていることを、「いま、どうすればいいのか」不安を抱きつつ取材したものです。
そして、だからこそ、同じように直接の被災地から少し離れて生きている人たちにとって「本当に知りたいこと」が描かれているのです。
(5)想像ラジオ
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「生きていること」に喜びとともに、ほんの少し後ろめたさを感じてしまうから(災害でもそう感じるのはおかしいのだけれど、おかしいからといって、打ち消せるようなものでもなくて)、かえって、「死者の声」「現場の声」に耳を傾けることに臆病になってしまう。でも、そうやって知ろうとせずに「わからなくなってしまう」からこそ、さらに「怖さ」や「不安」は増していく。
その断絶が、死者や現地の人々との「壁」をつくり、反発さえしてしまう。
(6)チェルノブイリ・ダークツーリズム・ガイド
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あんな事故が起こったあとのチェルノブイリは、廃墟になっているのだろうし、ウクライナの人たちは、チェルノブイリを忌避しているに違いない。
僕もそう思っていました。
ところが、あの事故のあとも、チェルノブイリは「現役」だったのです。
リスクは承知しながらも、「ウクライナ全体の電力の7%」は、捨てられなかった。
逆にいえば、あの事故から14年間、3号機は大過なく稼働した、とも言えます。
そして、この本を読んでいるかぎりでは、ウクライナの人たちは、あの事故に関して、かなり冷静に成り行きを見守っているような印象を受けました。
(7)地震と独身
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著者の酒井順子さんは『負け犬の遠吠え』などの「独身女性もの」のみならず、松任谷由実さんを評した新書や、「女子と鉄道」など、さまざまなジャンルで活躍されているエッセイストです。
この本は、その酒井さんが「独身」の視点から、「東日本大震災後の日本で、独身者はどう過ごしてきたのか」を取材してまとめたもの。
「絆」とか「家族の物語」として語られがちな東日本大震災ですが、当然のことながら、「独身で被災した人たち」もいたわけです。
家庭持ちにとっては、正直、ちょっとした気まずさを感じる本ではあります。
僕たちが「家庭があるから」とセーブした仕事は、代わりに誰かの肩に乗せられているというのが、震災という特殊な状況では、くっきりと浮き彫りにされているから。
(8)記者たちは海に向かった
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あの災害で、ギリギリのところで、「生き延びた」人々は、多くの人が流されていくところを目の当たりにしたのです。
あんな非常時なのだから、まず自分が助かることが最優先で、他人を助ける余裕なんてないのは、仕方が無い。
「その場」にいなかった僕には、そういうふうに思われます。
でも、「その場」にいた人たちは、「もしかしたら、あの人は、自分が手を伸ばしたら、助けることができたのではないか?」「自分は他人を見捨てて生き伸びてしまったのではないか」と自問しつづけているのです。
(9)紙つなげ! 彼らが本の紙を造っている
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このノンフィクションを読みながら、自分が読んでいる本の「手触り」を確かめたくなることが、何度もありました。
紙の本があるのは「あたりまえ」だと思い込んでいるけれど、どこかで誰かが文章を書き、紙をつくり、印刷し、製本しているからこそ、この本は、ここにある。
そのリレーのどこかひとつでも欠けてしまったら、僕は、この本を読むことができなかったのです。
(10)あのとき、大川小学校で何が起きたのか
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子どもたちは、死にたくなかった。
先生たちだって、子どもたちを死なせたくなかったはず。
誰かの悪意によって、子どもたちは命を落としたわけではないのです。
でも、だからこそ、「なぜ、大川小だけ、こんな結果になってしまったのか?」を検証することが大事なのです。
「東日本大震災」については、さまざまな書籍、映像作品が世の中に出ていますし、今後も、たくさんのものが出てくるはずです。
もちろん、時間の経過による変化を踏まえつつ。
とりあえず、僕がこの5年間に読んだもののなかで、印象深かったものを10冊、挙げてみました。
これを書くにあたって、この5年間の本の感想や自分が書いたものを大まかに読み直してみたのですが、「震災のことそのものを書いたもの」ではなくても、文中で震災について言及したものが、本当にたくさんありました。
僕は「当事者」だとは言えないけれど、同時代を生きた人間として、この震災を忘れることはできないと思っています。
というか、忘れられないよね。
さまざまな切り口の本があるのですが、もし気になったものがあれば、ぜひ手にとってみてください。
書店で紙の本を買うだけでも、日本製紙石巻工場の再生に尽力してきた人たちに、少しは喜んでもらえるかもしれませんし。