いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

「この国での貧困は絶対に自分のせい」と言う人々の「背景」について


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 この人のこと、僕はよく知らないのですが、まあそりゃ炎上するよなあ、というツイートではありました。
 人にはそれぞれ事情もあるし、自分だって、病気や事故、家族の介護などで、いつどうなるかわからない。
 朝、車のエンジンをかけながら、もしちょっとした運転時の気のゆるみで人を轢いてしまったら、人生が暗転するかもしれないんだよなあ、という恐怖感に襲われることもあるのです。
 そんな僕も、職場でなかなか動いてくれない人や指示を守ってくれない人にたいして、苛立つことは少なくないわけです(僕自身もイラつかせていることは多々あるはず)。
 いろんなことが「できる」のも「できない」のも人それぞれではあるのだけれど、すべてを「そういう人もいますからねえ」なんて受け入れるのは、現実では難しいよね。給料分くらいは働いてよ……とか心の中で思うことはある(僕もたぶん思われている)。


fujipon.hatenablog.com


 今回の桂春蝶さんや松本人志さんの発言をみていると、当たり前のことなんですが、人の考えかたというのは、その人のこれまでの人生に影響を受けずにはいられないのですよね。
 金持ちが貧乏人に厳しい言葉を吐いて叩かれている、のかと思いきや、実際にネットで批判されているのは、「自分だって若い頃に貧しくてつらかったけれど、こんなにがんばって今は成功した。だからお前にだってできるはず。努力が足りないだけだ」という感じの「生存者バイアス的な発言」をする「つらい目にあってきた人」が多いのです。


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この本のもとになったNHKの番組のなかで、「健康格差」についての討論が行われたそうなのですが、そのなかで、俳優の風間トオルさんがこんな発言をされています。風間さんは5歳のときに両親が離婚し、その後、父親も失踪してしまい、祖父母のもとで育てられたそうです。

 (風間トオルさんの)著書『ビンボー魂』(中央公論新社)には、小学校時代「学校が休みになる=学校給食にありつけない」や「中でも空腹との長く厳しい闘いが強いられる夏休みをどうやって凌ぐかが大問題」と書かれている。そんな時、風間さんは家の前の公園に生えている、草やタンポポアサガオを食べたりして飢えをしのいだ壮絶な体験をされている。


「国の力を借りるのは最後の最後じゃないでしょうか。国が一律で何かすることでもないですし、個人が自分で努力して解決することじゃないでしょうか。僕なんかも子どもの時、貧困というか、お金がなくて、公園の草とか食べて飢えを凌いでいました。草の匂いをかいだり、口に入れながら、『これはいける』『これはいけない』って判断していました。そうやって努力して空腹を満腹にしてきた。だから、高齢になって動けなくなった時に初めて、国の力を借りることが許されるのかなって思いますけどね……」


 ギリギリのところ、厳しい状況から自分が努力して抜け出した人ほど、社会保障を受ける他者に対して厳しい態度をみせる、というのは、けっこうありがちです。
 自分は頑張って克服したのだから、みんなできるはずだ。
 あるいは、自分だけが苦労したのでは、割に合わない、って。


 桂春蝶さんや松本人志さんは目立つ存在だから叩かれやすいのだけれども、身近なところでは、部活でのシゴキや理不尽な上下関係がなかなか断ち切れないのは、「自分が受けた不利益やつらい思いを自分で終わらせるのは腑に落ちない」とか、「そういうことは無意味だったと認めたくない」という感情があるからなのだと思います。
 悪意はなくても、それが「つらい思い」であればあるほど、人は、そこに「なんらかの意味」を見出そうとしてしまう。


 あと、世代の問題、というのもあると思うんですよ。
 桂春蝶さんは僕より少し年下なのですが、団塊ジュニア世代くらいって、まだ、「努力すれば報われる」、逆にいえば「うまくいかないのは頑張りが足りないから」という価値観を親世代に植え付けられていたのです。
 実際は長い不況や社会構造の変化で、「がんばっているはずなのに、なかなか報われない世の中」になってしまったにもかかわらず。
 親世代は、会社からの締め付けはきつくても、日本経済全体が上り調子で、「そこそこ頑張れば、けっこう豊かで、いろんなものを手に入れることができる、未来はもっと良くなるとみんなが信じていた社会」だったのに。
(ただし、その前には、「戦争の直撃を受けた世代」「終戦直後の極貧の時代」もあったことは忘れてはならないでしょう)


 こういう「頑張れば報われる」という主張って、たぶん、昭和40年代生まれくらいまでは、耳慣れてもいるし、受け入れられる人も多いのではなかろうか。
 桂春蝶さんは、そういう聴衆の前でずっと仕事をしてきたから、ツイッターという全世代に伝わるメディアが届く範囲を理解していなかったのかもしれません。
 こういう「自分の苦労話」をすれば、「頑張ったんだねえ」って、みんなが感心してくれる世の中は、もう過去のものになってしまった。
 僕はAKB総選挙のときに、高橋みなみさんが、ずっと「どりょくはかならずむくわれるー!」ってやっているときの、観客の「オー!」という反応に、毎回戸惑いを感じていたのです。それは先入観によるものの可能性も高いけれど。
 今のAKBのファン世代には、ああいうアナクロニズムが新鮮なのだろうか、というのと、少し歓声が小さく感じるのは、やっぱりみんな戸惑っているんじゃないか、というのと。
 芸能人としてあれだけ成功している人に言われてもなあ、なんだけど、「でも、『自分たちが推しているAKBのリーダーだしなあ」。
 あれはむしろ、ガラスケースの中で、自分たちの替わりに努力している姿を見せてほしい、ということだったのだろうか。
 ああ、また自分でもよくわからない話になってきた。


 桂春蝶さんや松本人志さんを批判したくなるのはわかるけれど、彼らには彼らの背景がある、というのも、知っておいて損はないと思うのです。
 そして、「自分の現在地や経験則で判断し、『わかっているつもり』になって、目の前の相手や現状に合わないことを言ったりやったりしてしまうリスク」は、誰にでもあるのです。

 ちなみに、小金持ちとかプチエリート層の多くは、思っていても、こういう発言はしないことが多いのです。
 彼ら(ごめん、本当は「僕らは」かもしれない)は「良心的」というより、こういう「見下ろし系の言葉」を口にすることによるトラブルを、これまでの人生で数多く経験しているから。



 こういうツイートに賛意が集まっているのをみると、「しかし、えん罪事件で長年刑務所に入れられていた人からみる『国家』は、また別物だろうな」とも感じるんですよ。もう揚げ足取りなんですが。


 「人それぞれ」を突き詰めていくと究極的には、「もう、社会とか国の政策を全体像として語ることは不可能だし無意味ではないのか」とか考えはじめてしまうので、本当に、どうすれば良いのか……


その「正義」があぶない。

その「正義」があぶない。

最貧困女子

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