いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

「人の気持ちがわかる」と自信を持って言い切る人は、こわい。


 ブログなんてものを書かずにはいられない僕という人間は、北条かやさんと、五十歩百歩だよなあ、なんてことを考えてしまう。
 しかも、彼女の場合は収入につながっているのだが、僕の場合は、ほとんどお金にもならない。
 ある意味、よりいっそう病んでいる、ともいえる。
 そういえば、一昔前(十数年前くらい)のインターネットには「閉鎖芸」みたいなものが蔓延していた。
 ちょっとイヤなことがあると「閉鎖します」と宣言して、閉鎖・移転を繰り返すサイトが少なからずあったし、それに対して、取り巻きたちが「閉鎖なんて悲しいです!」とコメント欄に書き込む。
 そのコール&レスポンスには、様式美のようなものがあった。
 4月1日のネタとして、「閉鎖します」をやる人がいなくなってから、もう何年経つのだろうか。
 サイトやブログにとっての「閉鎖」というのはプチ自殺みたいなもので、自分の葬式に参列できないことの代用なのかもしれない。
 しかし、いまや、インターネットでも「閉鎖芸」みたいなものの居場所はなくなってしまった。
 「閉鎖芸」的にサイトやブログをいくつか閉じてきた経験がある僕としては、みんな大人になったなあ、と感慨深いのと同時に、もう、あんな中学生日記のようなインターネットは、どこにも存在しないのだな、なんて、ちょっとセンチメンタルな気分になったりもする。


 ブログを書いているのは人間であり、人にはそれぞれ、「逆鱗」みたいなものがある。
 他者からみたら、「なぜそこまでその話題に過敏になるのか?」と思うようなところに、こだわりがあったり、どうしても許せなかったりすることが、たぶん、多くの人にあるはずだ。
 もちろん、僕にだってある。
 そのうちの軽いものをひとつ紹介しておくと、僕は「えっ?」って聞き返されるのが、すごく苦手だ。
 昔から、自分の喋りかたや滑舌の悪さが大嫌いで、聞き返されると「お前の話はわからないんだよ」とバカにされているような気がして、苛立ってしまうのだ。
 僕が話す相手には高齢者が多いので、耳が遠くて聞き取りづらい、ということはよくあるし、悪気があって聞き返しているのではない、たぶん。
 でも、昔からのコンプレックスを刺激されると、わかっているつもりなのに、やっぱり、苛立つ。
 ただ、今の僕は、それが自分の「逆鱗」のひとつであることを知っているので、その波がやってきたとき、なんとか自分を鎮めることができる。あくまでも、大概は、だけど。


 ブログを書いていて、なんでこの話題に、執拗に「いっちょ噛み」してしまうのか、と、アップロードした30分後くらいに後悔することも、1年に何回かはある。
 噛み付いてしまった人には、申しわけない。


delete-all.hatenablog.com


 僕はこれを読んで、北条さんの「自殺語り」は、フミコさんの「逆鱗」に触れたのだな、と感じた。
 その「逆鱗」の存在は、フミコさんのこれまでの人生によるところが大きいのだろう。
 「死」をほのめかしている人に、こういう言い方をしなくても、とも思ったのだけれども、書いている本人も、わかっていて押しとどめられない衝動、みたいなものがあったのではなかろうか。


 ただ、そういう「逆鱗」エントリって、「自殺衝動エントリ」みたいなのをあげてしまう人間の難儀さ、みたいなものと、「自分でコントロールできないものを文章にして公開している」という意味では、そんなに違わないような気もするのだ。
 他人を傷つける言葉は、大概、自分自身も傷つける。
 書いたほうも、きっつー、だったはずだ。


 僕は長年人間をみてきて、わからないな、と思う。
 ただひたすら、そう思う。


 このあいだ、テレビを観ていたら、選挙に出馬するという女性が「わたしは以前、引きこもりで、子どもの頃は親から虐待を受けていました。だから、人の気持ちがわかります!」と絶叫していた。


 それを聞いて、ああ、「人の気持ちがわかる」のか、と僕はせつなくなった。


 40年以上生きているのだが、「私はこういう経験をしてきたから、同じような立場の人の気持ちがわかる」と自信を持って言い切る人は、こわい。
 こういう人の大部分は「あなたの気持ちはわかる」と、自分の経験則を当てはめて、「あなたの気持ちは、私と同じ」だと決めつけてくる。
 そして、こちらが「僕の気持ちはそうじゃありません」と反論すると、「それはあなたがおかしい」という反応を示す。
 そういうのって、多かれ少なかれ誰にだってあるものだが、自分は特別な体験をした、という人のほうが、そういう「押しつけ」の圧力が強いような気がする。


 もちろん、似たような立場であれば、通じるところはあるはずだ。
 でも、「引きこもり」や「虐待を受けた子ども」がみんな同じであるはずもない。
 自分は知っている、という人は、往々にして、そういう想像力を欠いて、すべて、自分のモノサシで測ろうとしてしまう。


 ブラック企業の偉い人にもいるよね、そういう人。
 自分ができることは、他人にもできるって、思う人。


 いやまあ、選挙の候補者としては「私は人の気持ちなんてわかりません!」って言えないだろうとも思うんだけどさ。
 僕だって、こんなことを書いているけれど、職業人としては「あなたの仰りたいこともわかります」って言うし。


 僕は「恋愛経験豊富な人」というのも苦手だ。
 そもそも、何度もマッチングに失敗した人が、なぜ「経験豊富」という評価をされるのか、よくわからない。
 スジからいえば、高校時代の初恋の人と添い遂げるほうが、よっぽど「正解」ではないのか。
 縁とか運っていうのはあるから、最初に正解に辿り着かないのはしょうがないんだけど、そういう遍歴の長さ、多さって、あえて自慢するようなことでもあるまい。


 最近、炎上とか互助会なんていうのが話題になることがあるのだが、個人的には、炎上なんて、起こそうと思って起こせるものなのだろうか、とも疑問になるのだ。


fujipon.hatenablog.com


 この永谷園のお茶づけの記事、徹夜仕事のあと、ふと目についたパッケージの裏の表示をネタにしたもので、そのときの僕にとっては、ひとつの「発見」だったのだ。
 何か書いておきたい気分でもあり、箸休め的なネタ、のつもりだった。
 ところが、思いのほか多くの人に言及されて拡散されてしまい、けっこう反発もあった。
「こんな当たり前のことを自分で調べもせずに記事にしてアクセス稼ぎかよ」というツイートをみたときは、ちょっと凹んだ。
 いやいやいや、狙ってたわけじゃなくて、「とりあえず更新」のネタだったのに……
 だが、実際に公開してしまえば「これはそんなに読まれるつもりで書いたんじゃない」というのは、こちらの都合でしかない。


 結局、10年以上やっていても、読んでいる側の反応って、予想がつかないのだ。
 なんで、時間が無いのでサッと書いたのがそんなに読まれて、こっちの気合いを入れたほうは閑古鳥?なんてことばかり。
 もちろん、読まれて嬉しくないわけじゃないんだけれど。


 受け手が「傍目八目、こいつは炎上芸人だ」と思っている人も、けっこう「天然」だったりするんじゃないかな。
 そもそも、燃やそうという意思のもとに、高確率で炎上をプロデュースできる人って、ある意味「天才」じゃなかろうか。


 あくまでも僕自身の意見だけれど、世の中(というか、宗教的な背景を考えると、「日本」に限定したほうがいいかも)には「絶対に自殺しない人」というのがごく少数いて、「自分で自分を消すことによってしか、人生を完成させられない人」も、ごく少数いるのではなかろうか。
 南条あやさんとか二階堂奥歯さんが遺したものを読むと、彼女たちは後者だったのではないか、という気がしてならない。
 そして、大部分は、このどちらでもなく、置かれた環境や状況、健康状態によっては、苦しみから逃れるために、自ら命を絶つ可能性がある人なのではないかと思う。


 人って、そう簡単には死なない。
 でも、縄で輪っかをつくって、ここに首を入れて、台を蹴飛ばしたら死ぬんだな、なんて思っているうちに、台からふと足が離れてしまう人だって、いるような気がする。
 だから、僕はなるべく、そういう状況に近づく人を少なくしておきたい。
 ネットでは、死のうとまでは思っていない人と、殺そうとまでは思っていない人が不運な化学反応を起こして、人が死んでしまうことがある。


 僕の知っている人は、なるべく死なないでほしい。
 嫌いじゃない人なら、なおさら。
 だけど、「死ぬことに魅入られている人」をこの世界に押しとどめておくためには、自分の人生を全部差し出す覚悟が必要なのだ。
 そこまでやっても、うまくいくかどうかはわからない。
 僕には、そこまで誰かのために尽くすのは無理だ。
 自分のことだって、持て余しているのだから。
 そして、その人が「本当に死のうと思っているか」なんて、実際のところ、「その人が、本当に死んでしまったらわかるけど……」というくらい、わからないものなのだ。
 死ぬつもりで多量に服薬をしても死なない人もいるし、一時の苛立ちで衝動的に農薬を飲んでしまったがために、のたうちまわって死ぬ人もいる。


 本当に、人間って難儀なものだなあ、と思う。思い続けている。


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