いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

羽生結弦選手の「努力は報われなかった」という言葉を聞いて、思い出したこと


 この江川紹子さんのツイートと、それに対するさまざまな人たちの反応をみました。
 僕は、『AKB総選挙』全盛期の高橋みなみさんのスピーチでの決め台詞「努力は必ず報われるー!」への会場の微妙な空気感を思い出さずにはいられなかったのです。
 観客は、他のメンバーのスピーチの決め台詞には、間髪入れずに大歓声で答えていたのですが、この言葉にだけは、戸惑ったような沈黙が会場を覆い、そのあと、明らかに控えめな歓声が上がっていたのです。
 
 僕たちは、「推し」とその所属グループを応援するためにここに来ている。彼女たちの言葉は、どんなものであれ、肯定したい。すべきだろう。だが、ステージの上で大歓声を浴びている「努力が報われた人」にそう言われると、なんだか自分が努力していないことを突き付けられているみたいだ……正直、「生存者バイアス」みたいなものじゃないのか……

 僕は高橋さんが、毎年あの決め台詞を口にするたびに、「そういう『努力家キャラ』でもあるんだろうけど、観客の微妙な反応を感じていないのだろうか……」と考えずにはいられなかったので
 あの総選挙では、爆弾発言を投げつけていた人もたくさんいたのですが、僕はあの「高橋みなみさんのかみあわないポジティブスピーチ」が、観客の反応も含めて、いちばん印象に残っています。

 「努力は必ず報われる」って、「無敵ワード」ではあるんですよ。
 「努力してもうまくいかないこともある」という反論に対しては、「それは努力が足りないか、努力の方向性が間違っているのだ」と言えばいいから。


 でもまあ、50年生きてきた実感としては、「努力してもうまくいくとは限らないが、努力せずにうまくいった人はいない」のです。
 僕は人間というのは、まだ解析され尽くしていないコンピュータみたいなもので、人それぞれのCPUは違うし、情報の処理速度には差があるけれど、インストールしていないことはできないし、アップデートしなければどんどん時代に置いていかれる、と思っています。
 医学・医療の世界で、すごい実績を積み重ねてきた人にも接してきたけれど、やっぱりみんな、「才能」だけでやってきたわけじゃない。
 ただ、「努力する才能」みたいなものもあるとは感じているのです。あるいは、その努力すべき対象を「面白い」と感じ、のめり込むことができるかどうか。なんのかんの言っても、自分が心底嫌っていたり、つらく感じるだけのことを、結果を出すためだけにずっと続けられる人って、いないから。


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 内田樹先生が以前、「みんな自分は能力や仕事の内容の割に給料が安い、報われていない、と言うけれど、能力と報酬が正比例するような世の中になったら、それはすごくキツイのではないか」というようなことを書いておられたんですよね。
 そういう「曖昧さ」「運不運に左右される要素」みたいなものは、理不尽なようで、「本当はできていない、やっていないほとんどの人々」を救っている面もあります。


 僕もこの羽生選手の「本音」、テレビで観たのですが、羽生選手からは、結果を出すことができなかった悔しさと同時に、やり尽くした、という「諦念と充足感」みたいなものも伝わってきたのです。
「努力は報われなかった」と言えるのは、「自分は努力した、と言い切れる人」の特権です。
 そして、羽生選手には、その資格がある、ありすぎる。
 他の選手は「勝つこと、メダルを獲得すること」を目標にリンクに上がらざるをえなかったのに対して、羽生選手は、「フィギュアスケートという競技の可能性を極める」ことを目指していたようにみえます。すでに2個金メダルを獲っているというのもあったのでしょう。
 
 他の選手とは別の世界で闘っている、という意味では、女子フィギュアで採点基準への抗議の意味をこめて、リンクの上で滑りながら宙返りしてみせたスルヤ・ボナリー選手をちょっと思い出しました。『怒り新党』で、ボナリー選手の映像をみて、夏目三久さんが涙を流していたんですよね。ああ、夏目さんも闘っているんだなあ、と。


 僕自身は、若い頃は「努力至上主義」なんて大嫌いでしたし、何事にも「がんばるしかないねえ」と言っていた母親に反発もしていました。
 でも、いま、僕自身、いろんな困難に直面したときに、その「がんばるしかないねえ」が心に蘇ってくるのです。


 羽生選手の話のあとで、自分の思い出話をするのは、恥ずかしいのだけれど。


 僕は大学時代、ある部活をやっていたのです。
 選手としてはまったくダメで、練習はがんばっていたのだけれど、なかなか結果を出せない。
 いまから考えてみると、僕は「試合のための練習」ではなくて、「練習しています、と言い訳をするための練習」ばかりしていて、試合になると、「練習よりも、もっと良い結果を出そう」として緊張し、練習を活かせずに失敗していたのです。
 そして、試合でダメだったら、やたらと落ち込んで周りに気を遣わせる、そんなどうしようもない存在でした。

 それでも、4年生のとき、同学年の人数が少なかったこともあり、キャプテンを任されることになりました。いや自分には無理、とさんざんゴネた末に。
 最後の大きな試合の前の夏休み、これまでずっと結果を出せなかったけれど、これで終わりなのだから、やれるだけやってみよう、ダメな自分にまかせてくれた先輩や同級生、それでも一緒にやってくれている後輩たちに恥じないように頑張ろう、と決心し、自分なりに懸命に練習しました。素直に先輩の指導も受けて、「だいぶ良くなった」と言ってもらったりもして、自分なりに手ごたえも感じていたのです。


 そして、最後の試合。


 そこで、素晴らしい結果を出して、大逆転、みたいな話だったら「映画化決定!」だったんですけどね……

 チームも、僕自身も、「残念な結果」でした。


 個人戦が終わったあと、僕は会場を出て、人影のない場所にひとり座っていたら、とめどなく涙が流れてきました。
 その涙は、悔しかったとか、恥ずかしかった、とかじゃなくて、ひたすらに流れていって、使い古された言葉だけれど、「心が洗われていくみたい」な気分だったのです。
 あのとき、僕は人生ではじめて、「ああ、僕はよくやった、最後までやり遂げた」と、自分を認めてあげられたような気がします。

 試合の結果は出なかったのですが、指導してくれた先輩も「でも、あのときのお前は、今まででいちばん良かったよ」と後で言ってくれたんですよね。


 正直なところ、僕の人生で、こんな「透明な涙」を流したことは、これ一度きりしかなくて、今でも忘れられないのです。
 人生で、もっと重要な場面は、たくさんあったはずなのに。
 逆に、学生時代の部活だったからこそ、「結果が出なくても、自分自身を肯定する」ことができたのかもしれません。


 あれから四半世紀以上経っているのですが、僕はあの涙のおかげで今でもなんとか生きていられる。
 まあ、人生のお守りみたいな体験なんですよ。
 
 試合の結果はさんざんだったし、競技者としての僕は「ザ・その他大勢」でしかない。その競技もいまは縁がない。
 それでも、僕にとっては人生でもっとも大事なもののひとつです。

 誰かに聞かれたら、「いや、結局、試合では全然ダメだったし、チームも結果を出せなかったから……」と答えるしかないのですが、僕自身にとっては、なぜか、それが「自信」みたいなものになっています。あのときは、四半世紀経っても覚えているとは思っていなかったけれど。

 羽生選手のコメントに対して、「報われない努力もある」「努力も才能だ」「諦めるという選択肢も大事だ」と考える人も多いと思います。
 それでも、羽生選手は自分が挑戦したこと、努力したことを後悔していないと思いたい。
 もちろん、「残念」ではあるかもしれないけれど、僕の経験では、年を重ねるにつれて、「やって失敗したこと」よりも、「やらなかったことへの後悔」のほうが、ずっと引きずるし、重くのしかかってくる。
 羽生選手は「努力が報われないこともある」のは百も承知で、「やらずにはいられなかったこと、自分がやりたかったことをやった」だけではなかろうか。

 「努力は必ず報われるわけではない」し、「正しい努力が良い結果をもたらす」というよりは、「良い結果をもたらした過程が、『正しい努力』と認定される」のではないか、と感じることも多いのです。
 そもそも、子供のころ、あるいは若いころの「なりたかった自分」になれる人なんて、ほんのひとにぎりしかいないわけですし。

 それでもやっぱり、「がんばるしかない」ときって、あるのだと、この年齢になって、あらためて感じています。


fujipon.hatenablog.com

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