このような凶行の被害に遭い、現在も治療中の冨田真由さんの快復を願っております。
正直なところ、屈強なSPでもついていないかぎり、他者が、自分も死んでもいい、という覚悟で襲ってきたら、どうしようもないと思うんですよ。
警察にも相談していたとのことで、もう少し積極的に対応してくれていたら、という気はするのだけれど、ネット慣れしていると、岩埼容疑者のような人は、少なからずいるのだろうな、とは感じます。
ちょっとした思い込みを自分自身の被害妄想で増幅して、大きな悪意にしてしまう人。
彼らは、自分のなかでの「正義」のためとか、「自分は被害者である」とかいうような大義名分をもって、誰かを傷つけようとするのです。
警察の人的資源から考えても、現在のSNSというのは、あまりにも広すぎるのだろうし、この事件が起こる前に、冨田さんに対して、最近どうですか?と確認の連絡も入れていたそうです。
なんとかならなかったのか、という思いは、みんなが共有しているのだけれども。
こういう事件って、いまの「SNS時代」に限ったことではない、という意見もあって、確かに、そうだと思うんですよ。
芸能人がファンに「襲撃」されるというのは、けっしてレアケースではない。
美空ひばりさんは1957年にファンの少女(19歳)に塩酸をかけられていますし、ジョン・レノンは1980年にマーク・チャップマンという男に撃たれて亡くなっています。
マーク・チャップマンの場合は「大ファンだった」というより、世間の注目を浴びるための犯行、だと言われているのです。
今回の事件のひとつの特徴というのは、ストーカー的なファンが、どんどん「ストーカー化」していく様子が、SNSのログとして残されていること、だと思います。
最初は「好意」からはじまって、自分の思い通りにならない相手に勝手に「失望」して、恨みをつのらせる人から、どうやって逃れれば良いのだろうか?
この事件について、2016年5月23日朝の『とくダネ!』で、司会の小倉智昭さんとコメンテーターのやまもといちろうさんの間で、こんなやりとりがありました。
小倉智昭:SNSには強い、やまもとさんですが、このTwitterやブログの書き込みから、変化っていうのは相当うかがえますよねえ。
やまもといちろう:もう、ちょっとこれ、みなさん、テレビを観られている方は、こういう単純な悪意をいきなり個人に向けられることってあまり無いと思うんですけど、あの、ネットを見ていると、こういう人って、けっこういらっしゃるんですよ。
で、書きはするけれど、それはそれで自分の気持ちをストレートに表現するとか、もしくは誰かの気を引きたい、というところでまあ出てくるものなので、別に珍しいものじゃないんです。
ただ、この岩埼容疑者に関してはその、ものすごくその示唆的なものが後からわかってくる、と、みていくと、やはりその、どうやってそういうものを、悪意みたいなものを相手が察知するか、みたいなものがどうも出てくるだろう、と。
で、あの、このプレゼントを返す前にですね、1回ブロックをしているんですけれども、ブロックというのは、その人の発言を自分が見られないようにするという、そういう仕組みなんですけれど、そのブロックをずいぶん引っ張ってですね、それまでずっと悪意を受け続けていたんですね、冨田さんが。
なので、そういった点で言うと、犯行をした側からすると、じらされている、という雰囲気を持ってしまう。そうなると、やはり、自分の好意を受け取ったにもかかわらず拒否した、という気持ちが大きく増幅してしまうのではないか、というふうには思いますね。
やまもとさんは、ネット上でのトラブルの経験が豊富な方なので(という言い方が妥当かどうかはさておき)、どんなコメントをするのだろう、と興味がありました。
「ネットにはこういう人がけっこういる」というのは、たしかにそうだよなあ、と僕も思います。
そういう悪意って、向けられてみないと実感するのはかなり難しい。
しかも、その悪意は、最初のうちは「好意」からスタートすることも少なくないのです。
僕自身、個人サイトやブログをけっこう長い間やってきて、いろんな人とブログやSNSを介して接してきました。
ほとんどの人は「他者との距離のとりかたに差はあっても、常識の範囲内」なのだけれど、ときどき、「この人、いきなり距離近いな」と思うような人がいる。
そういう人のなかに、「好意や賛意を毎回のように寄せてくるのだけれど、僕が望んでいる反応をしないと、急に怒りをぶつけてくる人」がいるのです。
ブログをやっていると、コメント欄とか、SNSとかって、大事な「コミュニケーション(あるいは宣伝)ツール」じゃないですか。
この人は、僕のブログを読んでくれていて、応援してくれているんだよなあ、と思うと、零細ブログとしては、邪険にはしにくい。
SNSって、ある意味「みんなが見ている場所」ですから、自分が誰かをスポイルしたり、ブロックしたりしているところを見せたら、「評判が下がる」のではないか、と不安にもなる。
僕は、くたびれたオッサンですから、バッシングはされても、好意とか強い悪意を寄せられることはそんなに無いのですが、ブログをやっていた人の中には、ストーキングされたり、恐喝されたりしてブログをやめてしまった人もいます。とくに女性の場合は、そういう話を聞くことが多いのです。
ワイドショーでインタビューを受けていたイベントプロデューサーの田村JINさんという人によると、冨田さんは、「生きざまとか生き方とかを語るメッセンジャー的な歌詞を書く」「自分はこうやって生きたい」「負けない」というようなシンガーソングライターだったそうです。
本人のブログで、「ブログへのメッセージやTwitterでお名前と枚数を教えていただければチケットを予約できるので、私に言ってください」と告知していました。
SNSのおかげで、友人に頼んだり、事務所に頼らなくても、自力で簡単に「イベントの告知」や「チケットの予約」ができるようになりました。
こういう「商業ベースに乗らないところ」でも、直接、広く、大勢の人にアピールすることができるようになったことは、大きな「変化」なんですよね。
ストリートミュージシャンでも、自分たちの演奏を世界中に配信することができる。
(観る人がいるかどうかは、また別の話として)
こういうのって、ソーシャルゲームの課金システムと似たような構造なのかな、とも思うのです。
ユーザーのなかの「ごくひとにぎりのヘビーユーザー、重課金者が、サービスを支えている」。
2年前くらいのデータなのですが、課金率(全ユーザーのなかで、課金してゲームをやっている人)は10%くらいだそうです。
ゲームの種類によっても課金率は全然違うのでしょうけど、いくつかネットで調べた範囲では、10%程度という記述が多くみられました。
AKB48のCDも、握手会や総選挙の投票のために何百枚と買ってくれるファンが売上に貢献しています。
いまは、CDが売れない時代ですから、ライブに来たり、グッズを買ってくれるヘビーユーザーをいかに取り込み、逃さないかが大事なのです。
そのためには、「芸能人とコアなファンの連帯感」みたいなものを演出する必要があって、ブログやSNSはそのために、役に立つ。
というか、「それが唯一無二の手段」という芸能人たちもいるはず。
こういう商売のやり方でありながら、「本人の人格と、芸能人として売っているキャラクターは違う」と主張するのは、なかなか難しいとは思います。理屈では正しいのだろうけど、こんなにお金を使わせておいて、親密な雰囲気にしておいて、って言いたくなる気持ちもわかる。
だからといって、ファンが危害を加えたり、暴言を吐いたりする権利は無いのだけれど。
ソーシャルゲーム業界は、「のめりこみすぎはやめましょう」「課金はほどほどに」と言いながら、「どんどんガチャをやらないと、試合に勝てない」システムになっており、「重課金者に支えられて運営している」のです。
「課金しないと勝負にならないよ」「もっとお金を使って」と「課金しすぎはダメですよ」という本音と建前が使い分けられている世界。
「やりすぎはダメ」と言うけれど、じゃあ、どのくらいが「適切」なのか?
今回の被害者のような、大手芸能事務所のバックアップがあるわけでもなく、SNSでチケットを手売りしているような場合、あるいは、一部の熱狂的なファンを中心に芸能活動をしている場合には、ひとりの「重課金者」の存在って、大きいと思うんですよ。
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これは、元祖「鉄道アイドル」木村裕子さんが、鉄道オタクである自分とファンとの交流をまとめた1冊です。
読んでみると、木村さんとファンの「距離の近さ」に驚かされます。家族ぐるみのつきあい、っていう人さえいます。
今回の被害者が「地下アイドル」だったかどうかは見解が分かれているのですが、そういう「小規模な商いをやっている芸能人」に関しては「ファンとの距離の近さ」というのも、ひとつの「魅力」だし、芸能人の側も、それは意識しているはずです。
まだブレイクしていない芸能人に肩入れする人のなかには、そういう「距離の近さ」を好んでいる人も多いはず。
やまもとさんは、「もっと早めにtwitterをブロックして、コミュニケーションの窓口を断っておけば(相手に「自分の言葉が伝わっている」という期待を持たせないようにしていれば)」もしかしたら、これほどまで悪意が増幅される事は無かったのではないか、と考えておられるように僕は感じました。
最初から相手にされていなければ、怒りもさほど大きくならないうちに、やり場がなくなってしまう。
無視されているけれど、自分からの言及は見ているんだろ?と感じていたからこそ、「じらされている」とか、「自分の好意を受け取ったにもかかわらず拒否した」という「恨み」が積もっていった可能性はあります。
とはいえ、冨田さんの活動からすれば、SNSというのはまさに「生命線」であり、「ファンに向けての窓」なわけです。
こんな危険そうなヤツは排除してしまいたい、と思っていたかもしれないけれど、「アイツは俺をブロックしやがった」とか言いふらされるのも望ましくはないし、できれば、自然に矛先が他所に向いてくれればな、と考えていたのかもしれません。
もしかしたら、前向きなことを歌い続けてきて、「万人に対して開かれている自分」を、なかなか捨て切れなかったのだろうか。
このやまもといちろうさんのコメントを聞いて、先日のこの話を思い出しました。
anond.hatelabo.jp
fujipon.hatenablog.com
はてなブックマークコメントの一覧を「非表示」として、はてなブックマーカーたちとのコミュニケーションを拒否した、「狭量で信者を囲おうとしている」ちきりん!
でも、この事件と、やまもとさんのコメントを合わせて考えると、ちきりんさんのあまりにも広範かつ多数のtwitterでの「ブロック」って、「自分の身を守るため」ではないかとも思えてくるのです。
いまの世の中では、ネットで不特定多数の人と対話していったり、議論を深めるのは、今回の事件の加害者のような「ストーカー気質の人」に期待を持たせてしまうリスクが高すぎる。
中途半端なやりとりをして、途中でシャットダウンするよりは、最初から「相手にしない」ほうが安全です。
「無視された」と怒る人はいるだろうけれど、最初から無視してしまえば、そして、多くの人にそういう態度をとっていれば、今回の事件のような極めて強い悪意の矛先が自分に向くことは、回避できる可能性が高い。
この件について、非表示になっても何年も言い続けているブックマーカーたちの執拗さをみると、その判断は、間違っていないような気がします。普通の人が致命的に傷つけられるには、ひとりの悪意で十分なのだから。
そして、いまのネットで、「それでもコミュニケーションをあきらめない」ということには、リスクに見合うほどのメリットを期待できない。
無名であれば、売り出し中であれば、リスクと付き合いながら「ある程度オープンにしていく」しかないところもあるのでしょうけど、そこそこ名前も売れてしまえば、あえてSNSという危険な回路をフルオープンにしておく必要はありません。
バッシングばかりしてくる、ネットの有象無象を相手にするよりは、お金持ちで社会的な地位も高いライフネット生命の出口さんと対談していたほうが、はるかに有益で効率的です。
もうすでに、ネット上でのコミュニケーションは「収束の時代」に入ってきているのではないか、そうならざるをえないのではないか、と、今回の事件で、あらためて感じました。
「ちきりんブロック」は、少なくとも、ある程度メジャーになった人にとっては、正しい戦略なのだと思います。
「自分の寛容さをアピールするために、twitterで誰もブロックしない」という時代は、もう終わった。
- 作者: 小早川明子
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