いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

僕たちは、どう(仕事を)辞めるか

delete-all.hatenablog.com


 僕はこれを読みながら、フミコフミオ (id:Delete_All) さん、55歳で営業職を辞めていいんじゃないかな、と思っていた。

 しかしながら、世間(はてなブックマーカー)の風は冷たい。


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 実際のところ、ここでフミコさんがブログに書いておられるキャラ設定や奥様との関係が、全部ノンフィクションだと僕は思っていないし、ネタ要素も込み、という前提で読んでいる。おそらく、多くの読者もそうで、この「仕事をやめるな」「家にずっといたら配偶者が迷惑」というのも、ライブのコール&レスポンスみたいな「お約束」なのかもしれない。

 僕自身、40代で、それまでの「医局縛り」から解放されたのを機に、心身ともにリフレッシュしようと思って、1年間常勤の仕事をせずに生活していたことがある。
 旅行にも行けたし、本も読めた。ブログも書けた。今から思うと、なぜ、あのときもっと、いろんなことをやっておかなかったのか、と後悔するばかりだ。

 でも、当時のことを思い出してみると、僕は毎日すごく不安だった。
 そこそこの蓄えはあったとはいえ、毎月どんどん貯金が減っていくのは想像以上に怖かった。昼間にパチンコ屋とか映画館に出かけるのだが、他人の目が「こんな時間にいい歳のおっさんが何やってんだよ」と責めてくるような気持ちになった。それと同時に、平日の昼間に休み、土日祝日が仕事の主戦場、という人も結構いるのだ、ということも知ったのだけれど。
 人の生き方、暮らし方というのは、僕が抱いていた先入観よりも、現実ではずっと多様だった。

 時間というのは、ないと辛いが、あると持て余すものなのかもしれない。
 プレステの『信長の野望』全国統一とか、『スーパーロボット大戦』全クリアとかを、眠くなるまでやって、起きたら続きをやる、という生活をしていた。下手したら家から全く出なくなるので、パチンコ屋とか競馬場に行っていた気もする。

 結果的に、そういう生活は1年間で終わり、幸いにも働ける場所があったので、その後はそれまでよりも、穏やかな環境で働いている。
 ありがとう医師免許!こんなものを取ってしまったがばかりに、向いていない仕事をして消耗しきってしまったけれど、生き延びる、それなりに自分の居場所になる職場を探すためには、役に立ちすぎる資格ではあった。

 なんだか自分の話ばかりになってしまったけれど、僕はフミコさんとほぼ同世代(たぶん、少しだけ歳をとっている)なので、「営業職としてノルマを果たし続ける、という環境で頑張り続けることへの限界」や「仕事へのモチベーションの変化」も想像できる気がする。
 
 僕は自分が若い頃は、早期退職をする人たちは「働きたくない」のだと思っていた。
 これ以上働いても、職場に居場所は無くなるし、社長や取締役のような「島耕作コース」が待っているわけでもない。
 年齢とともに、活力も低下していく。

 でも、自分が50歳を超えると、仕事へのモチベーションへの低下、もう偉くなれないことへの落胆、みたいなものよりも、このまま惰性で働き続けて、60歳、65歳になって、リタイアしてそんなに経たないうちに身体も自由に動かなくなり、人生を終えていくことに、抗ってみたい、まだ身体も心も動くうちに、新しいこと、自分がやりたかった(であろう)ことに立ち向かってみたい、と思うようになってきた。

 50歳をすぎると、体力も、記憶力も、考える力も、どんどん落ちていく。
 最近、職場の自室を出て少し歩くと、「電気を消したかどうか」自信がなくなって、確認しに戻ることが増えた。もともとボーッとしてはいるのだが、人や物の名前がなかなか思い浮かばなくなった。知っているはずなのに、と。
 ブログの文章も書けなくなっている。昔、自分が書いたブログを読むと、ちょっと感心してしまうほどに。

 正直なところ、まだ若い人(30〜40代前半くらい)がFIREで自由な生活、なんていうのには、働くのが嫌で嫌で仕方がない人以外にとっては、「自由な生活って、毎日遊んで暮らしても、それはそれで飽きるの早いよ、ブログやSNSで自慢することでしか満たされない人生になるよ」と言いたくなる。
 
 でも、人生の残り時間を意識する年齢になって、収入や環境、仕事の区切りや人生の優先順位が整っているのであれば(フミコさんは、まさにその稀有な実例だろう)、まだ身体と脳が少しでも動くうちに、「第2、第3の人生」に漕ぎ出すのは素晴らしいことだと思うのだ。時間って、なんとなく今やっていることを続けると、あっという間に失われてしまうものではあるから。

 「家に居られると邪魔だから」みたいな理由は、外に仕事場を作って通えば済む話だし、「職場がなければ、書くネタがなくなるのでは」というのも、本当に書ける人であれば(フミコさんはたぶんそういう人だろう)、置かれた環境なりの文章を綴ることができるはずだ。

 「仕事をしているおかげで、少しは社会に貢献している、と安心できる」と再確認してしまった僕のような小物が言うのもなんだが、人生は一度きりなので(これも、同じ言葉でも20歳の時の僕と50過ぎの僕では、感じる痛みが大きくちがう)、残りの人生を少しでも有意義に、わがままに使って良いのではなかろうか。

 実際は、人間って、「自由に好きなことをやっていい」と言われると、案外、やりたいこともないし、やってみてもそんなに面白くないものなのかもしれないけれど。

 僕自身は、子どもたちのためにも、もう少し稼ぎ続けなくては、と思っている。
 でも、それは「子どものために嫌々ながら働いている」というよりは、すぐに投げ出しそうな僕の人生に、それなりの「生きる意味」を与えてもらってありがたいものではあるのだ(それでも、嫌になっちゃうときはあるけど)。

 正直、この年齢になってみるまで、50過ぎの人なんて、「逃げ切る」ことばかり意識しているのだと思っていた。
 なってみたら、考えるのは「残りの人生を使い切る」ことばかりだ。


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