いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

「理屈としての正しさ」と「処世術としての正しさ」


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 僕自身、「何者にもなれなかった」中年男なので、これを読みながら、「自分が言われたら、きっついだろうな……」と思っていたのです。


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 でもまあ、「何者にもなれなかった」という言葉を使う時点で、具体的な目標を持って何かをやってきた、というわけでもないのでしょうね。

 具体的に「何か」になろうとしていた人は、プロ野球選手になれなかった、プロ棋士になれなかった、という言い方をするのだろうから。

 フミコさんが言っていることは、至極もっともではある。
 「何者か」がどんなものであるかのイメージもない人が「何者か」になれるはずがないのだから。


 ただ、こういう「結局、自分は何ものにもなれなかった」という述懐が口をついて出てくるシチュエーションが、ネット以外では、あまり思いつかない、というのもまた事実なのです。
 僕自身が、とくに最近は外で他人とお酒を飲む、という機会がない、というのもあるのかもしれないけれど。

 基本的に、この手の述懐(「結局、人生うまくいかなかったな……」みたいなのとか)に対しては、「まあ、みんなそんなものですよ、僕もそうですし……」くらいの「返し」が、いちばん無難なのだと思います。
 実際は、ほとんどの人が、「うまくいかない」のでしょうし、弱っている他人をさらに追い込んで嫌われるのは、処世術としては、洗練されているとは言えません。
 自分の息子が若いときにそんな言葉を漏らしていたら、厳しいことを言うかもしれませんが、赤の他人を不快にさせるのは危険でもあり、めんどくさい結果を生むことにもなるから。

 
「理屈としての正しさ」と「処世術としての正しさ」は、違う、ということなんですよね。
 飲み会の席で顔見知りの中高年に「何ものにもなれなかった」と言われたら、多くの人は、無難な対応「みんなそんなものですよ」を発動するはずです。
 ところが、ネットでは、多くの人が遠慮なく「自己責任だろ」と言い放つのです。
 言われた側が殴り掛かってくることもないから。


 僕は現実のフミコさんは、「処世術」を発揮している人なのだと思うし、もし「自業自得ですよ」と言っていたとしても、そういう「歯に衣着せぬ発言」が、その場では自分には求められている、というのを理解した上でやっているのだと想像しています。
 
 僕も、ネットではけっこう「何者にもなれなかった」話を書いていますが、直に接する人たちの前では、そんな話をすることはまずありません。僕は日常では愚痴も他人の悪口も「何者にもなれていない」も言えないのです。そもそも、「他人に相談する」のも苦手だし(「他人の意見に期待していない、とも言えますね、傲慢ですけど)。
 あらためて考えてみると、そうやって、自分が傷つくことを回避しようとしているから、何者にもなれない、あるいは、なることに近づけないのではないか、という気もします。


 最近、ある小説を読んだのですが、その中に、こんな話がでてくるのです(ネタバレになるのも良くないので、「だいたいこんな話」ということで)。

 ある人が真夜中に小さな交差点で信号待ちをしていました。
 赤信号で、交差点の向こう側にも、同じように信号待ちをしている人がいます。
 周りがよく見える交差点で、夜中でもあり、車がやってくる気配は全くありません。
 あなたはこの交差点で、信号が青になるまで、ずっと待っていますか?


 この小説で、主人公は「それでも、ちゃんと信号を守る人」として描かれています。「自分が信号を無視したら、向こう側でちゃんと待っている人を傷つけるかもしれないから」と。そして、そういう主人公を、周りは「他人に配慮できる、素晴らしい人」だと評価しているのです。
 そして、自分の判断で渡ってしまう、という人は、否定的に描かれます。


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 ちなみにですが、「多くのフランス人は、こういう場合に黙って信号が変わるのを待っている日本人に、すごく違和感を持つ」という話を聞いたことがあるのです。
 彼らは「明らかに車が来ていないとわかるのだから、安全だと思うのなら渡るべきだろう。信号をとにかく守るというのは、自己判断の放棄だし、時間がもったいない」と考えるのだとか。
 ネットでは「遵法精神」を説く人が多いので、「そんなの信号を守るべきだろう」という意見が大勢を占めそうですが、実際にそうする人ばかりではないように僕には思われます。いや、僕は基本的に信号を守りますけどね、小心者だから。


 こういうのって、どちらが「正しい」というものではないと思うんですよ。長年つちかわれてきた社会常識とか、それぞれの人が依って立つ背景によって「それぞれの正解が異なる」だけのことで。

 僕は、この小説のなかで「他人の気持ちを慮って、信号を渡らない」のが美化されることに、心がざわめいたのです。
 でもさ、そんなふうに生きていたら、ずっと、他人の「お気持ち」に振り回されて生きることにならないか?って。
 
 
 こうして20年くらいネットをみてきて感じるのは、まだ多くの人が、リアルとネットでの「ことば」を使い分けているけれど、それでも、しだいに「ネットで語られているような「正しい理屈」が、「正しい処世術」を侵食している、ということなんですよ。「正しい処世術」も時代によって変わってきている、と言うべきか。
 ネットの「インフルエンサー」たちの言葉は、僕にはあまりにも極端に感じられることが多いのだけれど、なんのかんの言っても、時代の流れ、みたいなものは、その影響を受けているのです。少なくとも、有給休暇を取るとか、お付き合い残業をしないとか、飲み会でもノンアルコールで過ごす、とかいうことができるようにはなりました。
 
 まあでも、人間関係というのは難しいもので、「あなたが何者にもなれなかったのは、なろうとしなかったからですよ」と言われると、その内容が間違っているからというより、正しくて、しかも、発言者は自分に悪意を持っている、あるいは、軽んじられていると感じるから腹が立つのですよね。
 プライドの問題というのは、けっこう、ややこしい。


 そして、ネットのなかでは、多くの人が「正しい側」よりも、「多数派」や「誰かを叩いて気持ちよくなれる側」を選びやすい。
 もしかしたら、「自分が傷つかないで、他人を責められるポジションにいること」そのものが「正しい」という感覚なのかもしれません。
 そういう感覚が、どんどん現実を侵食しているのは、怖い。

 
 僕は結局、「何者」にもなれていないのですが、最近は、「何者にもなれない者」というのを演じているような気がしてきました。
 あらためて考えてみると、なんとか今日をやり過ごす、というのを繰り返して、ここまでなんとかたどり着いたのであって、いま、こうして生きているだけでも、それなりに頑張った結果ではあるのです。こんなふうに生きたくはなかったけれど、こんなふうにしか生きられなかった。
 もちろん、こんなので100%満足できるわけもないし、それでも何か物足りない気持ちを「承認欲求」なんてシンプルな言葉で説明されてしまうことには、なんだかなあ、とは思うのですけど。

 最近、人生というのは「成し遂げる」ものではなくて、「味わう」ものではないか、なんてことを考えるのです。
 ようやく、そう思えるようになった時点で、賞味期限が近づいているのは、誠に残念ではありますが。


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「承認欲求」の呪縛(新潮新書)

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