いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

2024年の「インターネットと人間の限界」と「面白いこと」について


あけましておめでとうございます。
本年もよろしくおねがいいたします。


このブログでは、毎年、新年最初のエントリは、「現在のブログ情勢と今年の展望」みたいなことを書いているのです。

fujipon.hatenablog.com
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しかしながら、現実問題として、「ブログ界隈」に関しては、「みんなにアピールするメディアとしてはもうオワコンです。好きな人たちが細々と続けていく趣味になりましたね」という言葉で言い尽くされてしまうかな、と思うんですよね。
それは別に悪いことではなくて、自然なことなんだろうな、と。
これだけネットやSNSが地雷原みたいになってしまうと、中途半端に関わらない方が楽に生きられる、とも思います。
僕などは、若い頃に、まだ発展途上だったネットで「知らない人とゆるくつながっていく面白さ」を知り、それに寄り添いながらここまで生きてきた、という恩義みたいなものがあるけれど、自分の子どもたちの世代は、物心ついたときからネットがあったわけで、そんなに特別な思い入れはないはずです。


最近、ちょっと驚いたことがあるんですよ。
結構利用していた『餃子の王将』のテイクアウトのEPARKでのネット注文が、昨年の終わりくらいに受付停止になったのです。
ああ、王将は独自のネット注文システムに移行するのかな、と思ったのですが、その後も、ネットでのテイクアウト注文が再開される気配はありません(店頭での持ち帰りはこれまで通り可能です)。

なんでもネットで注文できるようになっていく、と僕は思い込んでいたけれど、王将はそうならなかった。
個人的な経験でも、王将のネット注文は、オーダーがうまく通っていなくて、受け取り時間になっても全く料理が作られておらず待たされる、ということが何度かあったのです。
いや、王将に関わらず、飲食店のネット注文システムの中には、働いている人たちが捌ききれないくらいの注文を受けてしまい、現場が崩壊してしまうことが多々あったように思います。

新型コロナ禍のなか、松屋にネット注文をしたときには、店内は大混雑していて、1時間以上待ち、ウーバーイーツの人たちも渋い顔をしているけれど、2人の店員さんはもうどうしようもなくて、ただ目の前の注文を一つずつ作り続けるしかない、という状況になっていました。
そこまでして、松屋で食べる必要があったのか、と今思い出すと不思議な光景なのですが、あのときは、あっちもこっちも「それしか選択肢がない」と煮詰まってしまっていた。

王将は、繁忙時間は、店内の注文をこなすだけでもけっこう大変そうなのに、合間にネット注文をこなすのは難しく、客とのトラブルも多かったので、人手不足もあって、ネット注文を中止する、という選択をしたのでしょう。
経営側としては、ネットでのテイクアウトというのは、けっこうな収入になっていたはずではあるのですが、現場の負担がもう限界になってしまった。

先日、スマートフォンの機種変更に、3大キャリアのひとつのショップに行ったのですが、お昼過ぎに行っても、ネットで時間指定予約をしていないと対応できるのは夕方になります、とのことでした。しかも、僕が欲しかった機種は店内在庫なし。それをこちらから確認していなかったら、わざわざ夕方に出直してきて、新機種の予約だけして帰る、ということになっていました。
オンラインショップの充実と引き換えに、店内にはごく一部の売れ筋の限られた商品しか在庫がなくなってしまったようです。

インターネットって、たとえば宿とか交通機関、コンサートなどの予約には、すごく便利なんですよね。
稀にダブルブッキングとかが起こる可能性はありますが、それは人間がやっても同じこと。

しかしながら、食べ物や日用品に関しては、かえって「ネットを介するとめんどくさくなる、手間がかかる、トラブルが増える」ということが、認識され始めてきたように感じています。
「データ」のやり取りだけで済むものは、ネットの強みが存分に発揮されるのだれど、食べ物は誰かが調理しなければできあがらないし、誰かが食べなければ終わらない。デリバリーだと「届ける人」も必要になります。

人間の生活を便利にするはずだったインターネットが、人間に限界以上の負荷をかけ、できないことをできそうに見せて、サービスをする側にも受ける側にもストレスを与えるようになってきている。
今回も、年末年始はネット注文を受けない、というチェーン店がいくつかありました。
あらためて考えてみると、食べる当人が店に行って、食べて帰ってくる、というのがもっとも「効率的」ではあります。
ただ、テイクアウト慣れしてしまうと、店で食べるのにも、なんか「視線」みたいなものがちょっと気になってしまう。


インターネットのおかげで、見えないものが見えるようになった、と思っていた。
でも、見る必要がないものが見えてしまって気持ちが曇りっぱなし、にもなってしまう。

エベレストの頂上付近で遭難し、今にも息が絶えようとしている人がいる。その人からのメッセージは、通信機器からリアルタイムで送られてくるのだけれど、われわれは、それを見守りながらも、助けるためにできることは何もない。

大きな災害が起こったときに、関係ない地域で楽しそうにしていると「不謹慎」だと叩く人がいる。
でも、戦争や災害って、世界のあちこちで、ずっと起こり続けているのです。
ウクライナで戦争をやっているのに、正月とか祝っていてもいいのか?
他国だから関係ない、のか?
どこまでが、いつまでが「要自粛」なのか?

僕は大阪万博なんて、ニコニコ超会議よりもずっとつまらなさそうにしか思えないのですが、今回の地震を契機に「万博をやるお金があるんだったら、被災地支援に使え」と言っている人の多くは、もともと「万博反対!」派です。
他人の不幸をダシにして、(被災者を心配しているという振る舞いで)自分の主張を補強するのに利用する、というのは、被災地を撮影してバズろうとする迷惑系YouTuberとそんなに変わらないのでは。
万博が嫌なら、万博がなぜダメなのか、を災害を利用せずに説明することはできないのだろうか。でも、それだと誰もまともに取り合ってくれないんだろうな。

「俺たちはしっかり消費して経済を回そう」とかSNSで声高に言うのも、ちょっと嫌だ。
寒い場所で食べたいものも食べられず、プライバシーもない生活を強いられている人たちが見ているかもしれない状況で、「俺たちは好きなことをして経済回してやるぜ!」とか胸を張る必要があるのだろうか。
正直、僕だって、自分の生活を守ることに精一杯で、少し募金をするくらいが関の山で、普段通りの生活をするしかないのだ。
でも、そこに「つらい思いをしている人たちには、ちょっと申し訳ないけれど」みたいな遠慮のかけらくらいはある。
多分、多くの人は、ネット以前は、大きな災害に対して、そのくらいの「自分たちは幸運でちょっと申し訳ないけれど」くらいのスタンスで向き合ってきたはずだ。
でも、ネットは人々に、自分のスタンスを表明することを強いてしまいがちだ。
仕方がない、そうするしかないんだけれど、それをわざわざ表明したり、他者に同調を求めたりする人には、「わかっていても、言わないほうがいいことって、あるんじゃないか?」と僕は感じてしまう。


コンピュータの処理能力が上がりすぎて、あるいは、人の思考がSNSという形で透明度が高くなりすぎて、人は、ネットを便利に使う時代から、ネットの部品として、大きなシステムの一部としてネットに使われる時代になってきたのではないか。

僕が子どもの頃に読んだ、『銀河鉄道999』の終着駅で、星野鉄郎を待っていた結末を思い出す。
あれは、松本零士の予言だったのだろうか。

おそらく、僕の子ども、あるいは孫世代は、ネットとの距離の取り方が上手くなってきている。
最近は、高めの飲食店でも、料理の写真を撮ってインスタグラムに上げようとする人はほとんど見なくなったし、ブログを書き始める人も少なくなった。
インターネットの公共空間に過剰に露出することは、それを「仕事」にできる人以外にとっては、メリットよりもデメリットのほうが大きい、ということをみんな実感してきた。

個人ブログを眺めていると、「この人、まだやっていたんだ!」という人は、ずっと書き続けているけれど、最近はじめた人は、ほとんどすぐに書かなくなってやめている。もちろんこれは、僕が年齢とともに新しいブログに疎くなっているだけの可能性も高いけれど。

インターネットの発展を阻んでいるのは、それを利用するのが、人間という「食べたり飲んだり排泄したりする必要がある、質量を持つ物体である」ということが大きいと最近思っている。
もし、人間がデータであれば(もちろん、データだって、現状、それを扱うためのサーバーとかネットワークケーブルが必要なだけだが)、もっといろんなことが効率化できるだろうし、合理的な判断ができるはずだ。
とはいえ、「俺は人間をやめるぞー!」というわけにはなかなかいかないし、僕はもう、「死にたいとか思わなくても、どうせあと20年くらいで、わけわかんなくなるか死んでるか、だからな」というのが実感でもある。

なんかブログの話ではなくなってしまったけれど、こういう時代だからこそ、2024年は「昔っぽい、政治的な主張みたいなものよりも、楽しいことやろうぜ。面白いことを紹介するよ」というブログが再評価されるのではないか、とも思っている(僕はそういうの、得意じゃないけど)。

www.itmedia.co.jp


最近、落語を聴きに行くようになったのだけれど、「面白さ」を決めるのは、その落語家そのものの「人柄」とか「存在感」であって、技術だけを磨いても「上手い人」にはなれても、「名人」にはなれないのではないか、と感じる。
漫才もそうだし、ブログもたぶんそうなんだと思う。
そういう意味では、僕は結局、人間として面白くなれなかったな、としか言いようがない。無念だが、仕方がない。


そんなことを考えていたら、『本の雑誌』の2024年1月号のurbanseaさんの「雑誌の細道」という記事の冒頭に、こんな文章があった。

 制作系の仕事をしていると、演出家などと二人きりになったおりに、”クリエイター”なる鎧を脱いだ言葉を聞くことがある。ある者は「人が才能と呼ぶもののほとんどは、実は学力。セリフを約(つづ)めるのが国語力であるように。いきなり出来なくても慣れれば誰もがある程度、出来るようになる」と言う。


 このあと、雑誌『フォーブス・ジャパン』でのビートたけしさんの才能論が紹介されているのだが、身も蓋もない話だけれど、人が「センス」だと思い込んでいるものの多くは、「データ(あるいは勉強)の蓄積」なのだ。
 僕は、勉強不足だった。それをセンスのせいにしようとしていた。

 人間とインターネットの境界は、もう、「最初のゼロからイチ」を生み出せるかどうか、しかないのかもしれない。
 いまさら攻殻機動隊かよ、と苦笑しつつ、もう21世紀も24年目か。


 新年早々、わけがわからないものを読ませてしまって、申し訳ありませんでした。


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