いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

「あなたには弱者の気持ちがわからない」という呪縛


kawango.hatenablog.com


 これを読んで思ったことなど。
 僕は川上さんのことがずっと気になっていて、著書も読んできたし、けっこうファンでもあるのです。


fujipon.hatenablog.com


 冒頭のエントリも、川上さんは川上さんの目で見てきた世界のことを書かれていて、その率直さには頭が下がります。
「あなたには弱者の気持ちがわからない」っていう言葉は、僕もネットでよく浴びせられて、考え込んでしまっていました。
 
「なんだ医者か、勝ち組じゃん」
「親ガチャ勝ってるだろ」
「お前みたいな恵まれた立場にいるやつに、俺たちの気持ちはわからないよ」

 もう10年近く前、ほとんど一睡もできずに働いていた当直の夜に、急性アルコール中毒で救急搬送されてきた若者がいました。
 ぐったりしながらも必要な処置をしていたら、その若者は少し酔いが醒めたのか大声で騒ぎ始めたのです。
「なんでこんなことするんだよ!お前らみたいなエリートに、俺たち落ちこぼれの気持ちがわかるか!」
 いやいやいや、我々は一睡もしていないのに、楽しく飲み会をしていたあなたに、そんなふうに罵倒されなければならないのか?
 「エリートさん」って、実際にやっていることは、夜中にゲロまみれ、血だらけになり、「なんですぐに検査できないんですか?」と、昼は忙しいから、と救急車で来た人に怒られるとかばっかりなんだけど。
 心底うんざりしながら、尿道カテーテルを入れて、また罵倒され。

 
 そんなの気にしていたらキリがない、のだけれど、僕は子どもの頃から、自分はカッコ悪いし、運動もできないし、性格も内向的で人と接するのが辛くてしょうがなくて、ずっとイヤでイヤでしょうがなかったのです。本とマイコンとテレビゲームだけが、僕の生きる楽しみでした。
 勉強「だけ」が、僕が他人より少しはマシにできることだったので、これで生きていくしかない、と思いながら、なんとか机に向かっていました。
 とはいえ、もともと勉強が大好きではない人間は、息をするように勉強をする、あるいは、勉強が大好きな人間のなかに入ってしまうと、勝負にならないんだな、と、のちに思い知らされるわけですが。

 僕は自分を「強者」だと思ったことはありません。生き延びるために必死だった(というほど、生き延びたい、と思ってもいなかったのですが)し、「なんで僕はこんな人間なんだろうなあ」と自分が嫌になってばかりです。この年齢になると、「どうせ嫌でもそろそろ死んでしまうし、子供達もいるから」と、ある程度折り合いはつけられるようになってきた気はしますが。

 その一方で、「自分は弱者だから、お前は俺を優遇する『義務』がある」と声高にアピールするだけで、自分からは何もしようとしない人たちに、「そういうのって、本当に『弱者』なのか?」という違和感も拭えなかったのです。

 僕はずっと、自分はカッコ悪いしモテない、と思ってきたけれど、それ以前に、モテたいのであれば、もっと身だしなみやファッションに気を配るとか、体型を整えるとか、自分からアプローチするとかいう努力のしかたはあったのです、たぶん。
 でも、そういうことをやる前から「自分はダメだ、モテる人間じゃない」と決めつけ、研鑽や努力は放棄していた。
 「俺は勉強には向いていない」と全く勉強もせずに、「なんで俺は成績が悪いんだ!弱者だ!差別だ!」と言っている人には「全く勉強しなきゃできないのは当然だろ」としか思わないのに。

「やってもできない」場合は多々あるし、自分がやりたいことに自分が向いているとは限らない。自分がやりたいことでご飯が食べられている人は、そんなに多くない(僕だってそうです)。

 なんらかの障害を持っているとか、「やってみたけれどやっぱりダメだった」というのであれば、話は別なんですけどね。
 「努力するのも才能なんだ」と言う人もいて、確かにそういう面はあるような気はするし、「親ガチャ」的な環境要因が大きいというのも頭では理解できます。
 その一方で、僕には僕の人生しか記憶にないし、僕の立場、経験からしか物事を見ることはできないし、他人が本当は何を考えているか、なんてわからないのです。


 いまの社会、とくにインターネットを経由すると、「弱者の味方」だとみなされたほうが得をしやすいような気がします。
 というか、自分が傷つかないために、つねに「弱者を代弁している人」が多い。


fujipon.hatenadiary.com


 川上さんと立花さんのやりとりを見て(聞いて)いると、立花さんは、川上さんを「勝ち組」「既得権者」だと視聴者にアピールすることによって、自分が「共感」を得ようとしているように感じました。


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 この「ひろゆき」さんの著書に、こんな話が出てきます。

 高校のときにもこんなことがありました。数学の代数・幾何の授業があまり好きではなくて、おいらマンガを読んでいたのですよ。
 当たり前ですが、すごく怒られて授業もストップしてしまった。ただし、おいらはマンガを読んでいただけで、授業の進行を妨げるような迷惑なことは一切していません。なので、「先生が注意しなければ何も起きず、そのまま授業ができたのでは?」と言ったわけです。
 さらに言い争いになって、最後に「こういう言い争いをしている時点で、時間がどんどん無駄になっているから、授業を妨害しているのは先生ですよね?」と言ったら、先生が「もう、いい」と引き下がって……。
 要は、古典のときには「眠りたい」、数学のときには「マンガを読みたい」という強い願望が先にあって、つい先生に口ごたえしてみたら、結果的に論破できてしまったというわけです。
 ただ、どちらも「理不尽」な先生だったらたぶん勝てなかったと思います。論理的に話す先生だったからおいらのほうが勝ってしまったのでしょう。
 たとえば、「もうルールで決まっていて、先生に言われたとおりにするという制度なんだから従うしかないんだよ」という話なら、こちらも反論できないわけです。「文科省がやれって言ってるからやれ」とか言われたほうが、ぜんぜんスッキリしたと思う。ただ、先生という職業の人はプライドが高めだからそういう言い方はできません。それは、つまり弱点ですよね。
 要するに、「私、頭がいいんです」とか言っている人のほうが足をすくわれやすいということなのですが、このことは、またあとで説明しましょうか。


 川上さんは、賢い人だし、プライド(あるいは、自分の美意識への矜持)が高い人だから、そして、ちゃんと考えて話をしなければならない、という人だから、「弱者のためになにをやっているかを具体的に言ってみろ」という立花さんの挑発に即答できなかったのだと思うのです。
 冒頭のエントリでは、整理した上で、文章にされているのだけれど。

 経営者として考えれば「安定したパフォーマンスを継続し、きちんと利益を出して、会社を維持していくこと」は、そこで働いている人たち、そのサービスを受けている人たちのための最重課題なのです。
 でも、出せる給料に限界はあるし、状況によっては、1000人の雇用を維持するために、100人のリストラをする必要が生まれることもある。


 新型コロナウイルス禍のなかで、病院で働くことのリスクは上がり、感染で休む人が出て仕事は増えたし、消毒などの手間もかかるようになりました。
 働く人たちの仕事の負担は増えたのだけれど、感染予防のために外来・入院の患者さんは減り、収益面ではマイナス、という状況になったのです。
 働いている側としては、「どうしてこんな不安な時期に懸命に働いているのに、仕事の量も増えているのに、給料が上がらないのか?手当が出ないのか?」という不満が出てきます。
 しかしながら、経営側からすれば「現実的に収入が減って、コストが上がっている」ので、無い袖は振れない。

 経営をする立場からすると、「組織を維持していくためには、昇給なんて無理」なのだけれど、働いている側からすれば「どうして何も報われないんだ」と言いたくもなる。

 業績が右肩上がりで、どんどん給料も上げられれば良いのだけれど、そんなに簡単な状況はほとんどないのです。

 組織全体、社会全体のためにやっているはずのことでも、個々の人間を不幸に、あるいは不満にしてしまうことは、たくさんあります。


 僕は、「弱者のためになにをやっているかを具体的に言ってみろ」と他人に問うことができ、それに「冷蔵庫をあげている」とか「NHKの受信料を払わないで済むようにしてあげている」と胸を張って答えられる立花さんは「すごい」と思います。立花さんも頭がいい人だから、「そんなことは根本的な解決にはならない」のは百も承知のはずなのに、それが「自分を弱者側だと印象付ける効果がある」とわかっていて、実際に口にすることができる。

 
 えっ、それは確かに「立派なこと」かもしれないけれど、場当たり的な善意みたいなもので、みんなの前でアピールするべきことなのか、と僕は驚いたのです。

 川上さんも、「そんな『ちょっといい話』みたいなので良いの?」と拍子抜けしたのではなかろうか。

 賢い人だから、広い視野で考えようとしてしまうから、「経営者が組織全体のために行う判断は、個々の社員を不幸にすることがある」ことを思わずにはいられないし、それを「弱者のため」だと声高にアピールするのは、ためらうのが川上さんの理性であり、羞恥心だと思うのです。
 ブックマークコメントで多くの人が書いているように、川上さんは「能力はあるけれど、社会通念に合わせづらくてうまく生きられなかった人々」に活躍する場所をつくったし、川上さんが作ったサービスで人生が変わったり、気分転換をしながらめんどくさい人生を泳いでいる人もたくさんいます(僕もそのひとりです)。

 でも、そこで、「自分には弱者の気持ちがわからないのではないか」と自問してしまうところが、川上さんの「らしさ」でもあり、「弱さ」でもあり、「僕が(遠い存在であるはずの)川上さんに親近感を抱かずにはいられないところ」でもあるのです。
 川上さんは、株価を上げるためだけの経営者になるには、優しすぎるのかもしれません。


 最近読んだ、作家・新川帆立さんのエッセイ集に、こんな話がありました。

 建前がどれだけ建前然とした理想論や机上の空論だったとしても、ないよりはマシなのである。建前すら放棄して「何でもアリ」となってしまうのが一番怖い。

 だが近年の言論空間においては、建前を笑い冷やかす「冷笑系」の言説がまま見られる。
「戦争反対などというお題目を唱えても仕方がない」「侵略戦争国際法違反だというが、強制力が乏しい国際法など無意味である」といった言説だ。
「戦争はいけない」という建前が存在する世の中で戦争をするのと、「戦争してもいい」と正面から認められた世界で戦争をするのは、果たして同じなのだろうか。「戦争はいけない」とお題目を唱え続けることそのものに、法と正義の支配する世界の根底があると思う。

 2022年2月24日、ロシアがウクライナへの侵攻を開始した。純然たる侵略戦争であり、明確に国際法違反である。SNS上で、「国際法違反であるロシアの侵攻を止められないのなら、国際法を学ぶ意味があるのか」といった趣旨の言説を目にした。法を学ぶ者による問題提起だったそうなので、非常に驚いた。法に携わる者がそのようなことを言う世の中になってしまったのか。

 国際法がない世の中になれば、ロシアの侵攻を非難する道具すらない。力がある者が何をしてもいい世の中になってしまう。無秩序で弱肉強食な世界に、国際法は「建前」を持ち込んでくれる。十分な力はないかもしれないが、全く力がないわけではない。国際法を盾に外交を進めることもできる。
 平和を願うと同時に、平和を支える知的な取り組みが放棄されないことを祈っている。


 僕はこれを読んで、ウクライナ戦争という現実を目の前にして、「自分が学んでいる国際法の無力」に絶望している人の気持ちが、新川さんには理解できないのだろうか、東大卒・元弁護士で、人気作家だから「人の気持ちがわからない」のか?と思ったのです。

 あらためて考えてみると、これは「法を学ぶ後輩」への「法律を学ぶ者が、そんな心構え、覚悟ではいけない」という熱いエールでもあるのでしょう。
 僕の中にも、やっぱり、相手の「属性」で、ネガティブに判断してしまう傾向はあるのです。
 新川さんは「東大卒」「人気作家」から、川上さんは「大企業の偉い人、お金持ち」という属性から逃れることはできないし、率直であろうとするほど、「弱者(あるいは、絶望している人)の立場で語る」のは難しいし、それをやると不誠実になってしまう。

 それでも、「愚痴くらいこぼしてもいいだろ」と言いたくはなるのです。
 そう言いながら、僕自身、医療従事者のSNSをみていると、正直、「みんなに見えるところで、なんでそんなことつぶやくの?」とウンザリすることも多々あるわけですが。

 川上さんに「弱者の気持ちがわかる」かどうかは、僕にはわかりません。
 たぶん、川上さんには、川上さんの気持ちしかわからないのではないかと思うし、みんな実際はそうなのでしょう。
 いや、もっと突き詰めていうと、人間って、自分の本当の気持ちでさえ、よくわからないのではなかろうか。

 でも、そこで「どうせわからないのだから」と開き直らずに、自問する川上さんの姿勢が、僕は好きです。
 それがポーズなのだとしても、その「建前」さえ無くなってしまったら、もう終わりだと思うから。

 僕は長年「他人の気持ちがわからない」と言われてきましたし、自分でもそのことが悲しかった。
 結局、人間っていうのは、他者の気持ちをわかろうとしてアクティブラーニングを続けていく永遠に未完成なAIみたいなものなんだろうな、と今は自分に言い聞かせています。気休め、ではありますけど。


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