いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

藤子不二雄(A)先生のこと。


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 2022年4月7日。藤子不二雄(A)先生、逝去。

 藤子・F・不二雄先生が亡くなられたのが1996年ですから、(A)先生がひとりだけの「藤子不二雄」になってから、もう四半世紀も経っていたのですね。

 僕の両親はすでに鬼籍に入っているのですが、僕は、両親だけでなく、藤子不二雄先生に育ててもらったようなものだな、と、この訃報を聞いてしんみりしてしまいました。
 小学生の頃、『ドラえもん』のてんとう虫コミックスを手にしたときの喜びや、藤子マンガだらけの『コロコロコミック』にワクワクしたこと、『ドラえもん のび太の恐竜』を両親と観に行ったとき、父親が居心地悪そうにしていたことなどを思い出しました。
 ドラえもんの枕カバーをボロボロになるまで使い続け、親に呆れられていたことも。
 僕の子供たちも藤子マンガに育ててもらって、今度は僕が父親として『ドラえもん』の映画を観ているのです。まさか、こんなに長いつきあいになるとは。

 もちろん、『ドラえもん』はF先生の作品であり、(A)先生は直接関わってはおられないのは百も承知なのですが、(A)先生自身のマンガだけでなく、F先生の作品であっても、僕はずっと、「でもまだ、藤子不二雄には(A)先生がいるから」という気持ちだったのです。
 (A)先生がいるかぎり、藤子不二雄は続いている。
 ふたりが仲良く写っている写真も、撮影するときだけ集まっていた、というエピソードを後年聞いて、若いころはけっこう寂しいというか、人間の裏面をみたような気分だったんですよ。
 でも、自分が年を重ねてみると、「性格が正反対」というお二人が、信頼関係を保ったまま、嫌いにならないように、お互いにとって快適な距離をとって「藤子不二雄」という大名跡を守ってきたのは、すごいことではないか、と思うようになりました。


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 これは、(A)先生が78歳のときの著書なのですが、「伴走者」として、(A)先生がF先生を語っている言葉の数々には、すごくインパクトがありました。

 漫画は頭で考える部分と、自分の実体験をふくらませる部分とがあります。もちろん、最初から最後まで空想で描く場合もありますが、ある程度現実が基になっていると、読者もリアルに感じて納得してくれるわけです。
「途中下車」の主人公のおじさんなんて、僕が現実に見た顔を絵にして描いたから、何ともいえないリアルな感じが出てると思うんですよ。読者も、ああ、本当にこういうことがあるかも知れないと。漫画に気持ちが入るというか。
 藤本氏はおそらく、全部、彼の想像力で考えていた。これは天才にしかできないことなんです。僕も最初はそうでしたが、だんだんと体験の部分が大きくなっていきました。最初はまったく同じスタートで出発した二人でしたが、次第に路線が分かれていった。トシをとるにつれ、経験をつむにつれ、二人の個性がはっきりしてきて別々の”まんが道”を進むようになっていったのです。

 合作というのは、結構、面倒くさいんですね。相談しながらやりますから。別々に描いていれば自分の都合で好きにやれます。特に僕なんか、夜飲みに行ったりすると、その分、帰ってきて徹夜で埋め合わせをしますが、合作だと、そうもいかない。僕も藤本氏も、世界が変わってきて、だいたい、藤本氏は学習誌関係を描いていて、僕はそのほか。でも、だんだんジャンルが分かれてきても、藤子不二雄は同じだという気持ちでした。普通だったら、一緒にいてもまったく別の漫画を描いているんだから、もっと早く分かれていても良かった。同じペンネームを使う必要がまったくないわけですから。それでも、同じ藤子不二雄を、僕たちも、読者も、みんなで共有していた。それはありがたいし、嬉しいですよね。普通はどこかでトラブルが起こりますよ。例えばそれこそ、金銭的な面とか。それが、どっちがいくら描こうが関係なかった。完全に半分にしていた。仕事の量が多いとか少ないとか、そういう計算をしたことが一切ありませんでした。


F先生のことを、いちばん近くでみてきたA先生による「天才」という言葉。
「想像だけで書いて、体験がないと、リアリティに欠ける」なんて言われがちなのですが、「本当の天才」というのは、「全部、想像力で考える」ものなんですね。
アウトドア派、行動派で、ひとりで海外にも出かけてしまうA先生と、インドア派で人付き合いも苦手だったF先生。
F先生が『ドラえもん』で国民的な漫画家になった時期、A先生は、「自分は、藤本氏のマネージャーにでもなるしかないか……」と悩んでいたこともあったそうです。
「ギャラ折半」というのも、かえって心苦しい時代があったのかもしれません。
でも、結局のところ、このふたりは、コンビを解消したあとも、お互いの信頼関係と藤子不二雄という名前を守ってきたのです。
むしろ、お互いの信頼関係を続けていくためのコンビ解消だったと考えるべきだったのでしょう。


もちろん、きれいごとだけじゃない面はあったのかもしれませんが、「天才」「『ドラえもん』の作者」と最も比較される立場にありながら、少なくとも外向きにはマイペースにやや大人向けの作品を描き続け、多趣味で晩年まで人生を楽しんでいたようにみえる(A)先生の生きざまは、とても魅力的なものでした。

(A)先生は「遺された、藤子不二雄の片割れ」であることと、ひとりの漫画家としての仕事を同時に引き受けつつ、F先生の思い出もときどき語っておられました。
 自分の「役割」と「やりたいこと」のバランスをうまくとりながら、人生を味わいつくしたようにも見えます。

 僕の勝手な想像なのですが、(A)先生にだって、F先生へのライバル意識やコンプレックスもあったのではないでしょうか。
 同じ仕事をしていて、お互いに超一流であればこそ、その「差」みたいなものに敏感になりやすい気もします。
 そんな内面をさらさずに、飄々と人生を楽しんでいるように見せ続けた(A)先生は、作品でも、その生きざまでも、多くの「じゃないほうの人」「ちょっと斜に構えてしまう人」の味方でした。


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 2014年11月26日の夜、NHKの『探検バクモン』に、藤子不二雄A先生が出演されていました。
 この番組の最後に長年のパートナーだった、藤子・F・不二雄先生について、A先生が語っておられたのです。
きっと、感動的なエピソードが出てくるのだろうな、と身構えていたのですが、それは、こんな話でした。

マンガを描きはじめた頃、持ち込みで編集部に行くわけですよ。
最初の頃は、編集者に、とにかくボロクソに言われるわけです。
で、藤本氏(A先生は、F先生のことをずっとこう呼んでいるのです)は、怒って、その編集者から、原稿をパッと取り返して、帰っちゃう。
それで、ぼくはあわてて編集者に「すみません、すみません」って言って平謝りして、藤本氏を追っかけていく、っていう。
ほんと、二人だったから、よかったんですよ。
帰り道に、二人でその編集者の悪口を言い合って、なんでこのマンガのよさがわからないんだ、でも、自分たちのマンガの良さをわかってくれる人もきっといるはずだ、って。


 「藤子不二雄」が、まだ、何者でもなかった頃の思い出。
 夢を追っていた二人の若者の日常の1ページなのですが、僕はこの話、大好きなんですよ。
 そして、内向的で、人付き合いが極端に苦手だった、というF先生ひとりだったら、マンガの才能とは別のところで、作品を世に出すことができなかったり、途中で筆を折ったりしていたのではないか、とも考えるのです。
 (A)先生のマンガの技術も、F先生という才能と一緒だったからこそ、デビューし、描き続けていくなかでさらに向上していったのではないでしょうか。

 縁というか、組み合わせの妙というか、この二人のコンビだったからこそ、「藤子不二雄」だったのです。


 (A)先生、本当にありがとうございました。
 時々でも、元気なお姿を拝見するたびに、僕はなぜだかすごく安心し、こんなふうに年を重ねられたらいいな、と憧れていました。
 『まんが道』も『笑ゥせぇるすまん』も大好きですし、たまにゴルフをやるときには、つい、「旗包み」を思い出してしまいます(実際にできたことはありませんが)。

 ずっと、「藤子不二雄」であることを楽しそうに続けてくださったこと、僕も、子供たちも忘れません。

 こんなに幸せな、うらやましい人生は滅多にないと思うのです。
 でも、これを書いていたら、なんだか涙が止まらなくなりました。


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