いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

TVアニメ『平家物語』感想


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祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり
沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす》

平安末期。平家一門は、権力・武力・財力あらゆる面で栄華を極めようとしていた。
亡者が見える目を持つ男・平重盛は、未来が見える目を持つ琵琶法師の少女・びわに出会い、
「お前たちはじき滅びる」と予言される。

貴族社会から武家社会へ――
日本が歴史的転換を果たす、激動の15年が幕を開ける。


 Netflixの「おすすめ」に出てきたので、とりあえず第1話を観てみたのです。
 「未来が見える琵琶法師の少女」って、『平家物語』をどうするつもりなんだ?平家の「滅びの未来」を変えるために、サイキック少女が活躍する話なのか?と少しだけ思ったのですが、思った以上に、僕が今まで読んできた『平家物語』でした。
 
 そもそも、『平家物語』って、多くの日本人にとっては、読む前から壮大にネタバレしているのです。
「権勢を極め、驕れる平家が、かつて平家のライバルだった源氏の生き残り、頼朝・義経によって滅ぼされる」
 その「あらすじ」はみんな知っているはず。
 平敦盛安徳天皇の行く末も。
 あるいは、源平合戦で源氏勝利の立役者となった源義経の「その後」も。

 アニメ『平家物語』が「エピソード11」までというのをみて、僕は「ああ、これは『シーズン1』なんだな」と思ったのです。
 中学生の頃読んだ、吉川英治さんの『新・平家物語』は全16巻もありましたし(中高生の頃の僕は吉川さんの作品や西村京太郎さんのトラベルミステリー、歴史小説やSF、海外ミステリばかり読んでいたのです、日本の「恋愛小説」は、なんだか読むのが照れくさくて読めませんでした)、古川日出男さんの「新訳」は、単行本で900ページくらいあります。
 
 国語の教科書で、冒頭の「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」は暗記させられていても、全部読み通した人というのは、案外少ないのではないでしょうか。
 でも、この「源平合戦」のあらすじは、みんなが知っています。



 「たった11話で、『平家物語』の世界を描けるのか?」
 「そもそも、この『びわ』という少女って、この物語に必要なのか?」

 そう思いながら、僕はいつのまにか、このアニメにハマってしまいました。
 観はじめたら、知っているはずの「平家一門のこの先の運命」が気になって、つい、「次の話」に進んでしまうのです。
 平家が滅びる、のは知っていますし、「権勢を極めて、好き勝手やっていた平家に対する、源氏の痛快な逆転劇」みたいなイメージを持っていたのですが、このアニメは、『びわ』の目を通して、常に「平家側から見える世界」を描いています。

「権力を握って、増長しすぎた平家が周囲の反感を買い、坂を転げ落ちるように滅亡していった」のは「平家の油断」というか「驕りに対するしっぺ返し」だと思っていたけれど、「じゃあ、平家はあの時代、どうすれば良かったのか?」と、このアニメを見ていると、考えずにはいられないのです。
 
 平家は保元・平治の乱で武威を示し、武士として貴族社会を打破して権力の階段を上っていくのですが、京都で皇室のもとで権力を握るというのは、「貴族化していくこと」にもつながっていました。
 武士として、貴族たちから軽く扱われていた時代からの平家である清盛や重盛は、貴族社会や皇室への配慮とともに、武士としての屈辱と矜持を持ち続けていました。
 しかしながら、重盛の子どもたちの代になると、もう、物心ついたときには「平家にあらずんは、人にあらず」という世の中になっていたのです。

 「生まれついての貴族化」してしまうと、武芸の訓練や戦での心構えよりも、芸能や権謀術数の技術のほうが重要になってしまうのは当たり前なんですよね。
 平家は驕っていた、油断していた、とも言えるけれど、ある意味、「京で貴族として権力を握るために必要なアビリティにスキルを振り、その分、武力のステータスが低くなってしまった」とも考えられます。
 平家の「戦争を知らない若者たち」は、環境に適応しただけなのだけれど、その環境のほうが、急激に変わってしまったのです。

「貴族化」してしまったところに、「地方の、戦慣れした戦闘集団である関東武士団」がなだれこんでくれば、力勝負ではどうなるか?
 平家は、かつて自分たちが既存の貴族勢力に対してやったことを、源氏にやられてしまった。
 でも、平家が都で権力者として皇室を利用しながら政権を運営していくには「貴族化」して、「適応」していくしかなかった。
 
 だからこそ、源頼朝は、鎌倉に幕府を開いて、京都の皇室と距離を置くことにしたのでしょう。
 頼朝は、平家に学んだ、とも言えるのです。
 とはいえ、その源氏の嫡流たちの「その後」も、後世の僕からみればあまり後味の良いものとは言えず、それでも人は権力が欲しいのか?という気分にはなります。


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 古くは皇帝が次々に殺されていったローマ帝国の不安定な時代、現在では、大統領になったら、その後ほとんど逮捕され、批判の嵐にさらされてしまう韓国をみていると、「人は『自分ならうまくやれる』と思う生きものなのだろうか?」と考え込んでしまいます。
 

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 その環境での「強者」として大型化していった恐竜は、地球環境の変化で滅亡してしまった。
 では、そのときに、恐竜はどうすればよかったのか? なにかできることがあったのか?

 このアニメは、徹頭徹尾「平家、とくに重盛一族の視点」で描かれており、源氏側はときおり挿話として、あるいは合戦での敵として出て来る程度です。合戦も、ほとんどは「ナレ戦」で、物語の後半では、富士川、一の谷、屋島と、あっという間に平家は劣勢になっていきます。
 「壇ノ浦」は(このアニメとしては)それなりの時間をかけて描かれていますが、勝負の趨勢を決めたのは、2022年を生きている僕からすれば「超常的な力」でした。
 
 NHK大河ドラマの『鎌倉殿の十三人』もそうなのですが、「もののけ」とか「生霊」とか「仏罰」とかを、現代的な感覚で「そんなものは迷信だ」と排除するのではなく、かといって、過剰に「信仰」を美化するわけでもないんですよね。
 「当時の人々にとっては、それが『当たり前の感覚』であった」
 という前提で描かれているのです。

 僕としては、そこに違和感があるのと同時に、「祈る」という解決策を失ってしまった「宗教を持たない現代人」は、自分自身の、人間の力ではどうしようもないような大きな悲劇にさらされたときに、どうすればいいのだろう?とも思いました。
 東日本大震災のときには、昔からの寺社が、コミュニティとして大きな役割を果たした、とも聞いています。
 科学や技術、社会のシステムの進歩に、人間の心はついていけていない面があるのかもしれません。

 
 アニメ『平家物語』は「1シリーズ、全11話にまとめられている」のが、ひとつの特徴であり、結果的には英断だったと思います。
 物語としては「平家、とくに重盛一家からみた平家の栄枯盛衰」に特化しており、「『平家物語』ダイジェスト版」的な感じで、名場面、名台詞だけが拾い上げられているのです。

 「このくらいの長さだから、一気見することもできるし、運命の変転のダイナミズムをより一層感じる」のも事実です。
 いろんな意味で「あっさりしているが、自分で行間を埋めたくなる」のです、このアニメ。
 ほとんど「ナレ戦」で結果が伝えられて進行していくところや、重要な登場人物が唐突に退場していくところ。

 ドラマであれば、もう少しドラマチックに足掻いてほしい人たちが、あっさり自ら舞台を降りたり、多くの人物の「印象的な場面」が切り取られ、描かれるものの「最後にどうなったのか?」までは描かれずに終わっていたり。
 もちろんこれは「気になったら、Wikipediaで調べればいいし」的な「割り切り」ではあるのでしょう。
 人物をひとりひとり詳細に描いていたら、11話で済むわけがないし、このアニメの「一気見できるスピード感」は実現できなかった。
 
 このくらいの長さだったら、最後まで観られるかな、と僕も思ったんですよ。
 いまの世の中は、コンテンツに溢れていて、「ディテールを丁寧に描く」ような作品は、「魅力的ではあるんだけど、たぶん死ぬまで先送り」になりがちです。

 源平合戦のなかでの重盛の息子たちをみていると、僕としては「気持ちはわからなくはないが、その選択は、あまりにも厭世的すぎないか? どうせなら、最後に意地を見せてやろう、とか思わないのだろうか」とか思うし、拍子抜けしてしまうのです。
 なんのかんの言っても、「最後まで戦う人」に、みんな同情とか、共感しがちなのではなかろうか。ウクライナだって、戦力差があるなかで、あれだけ国民が踏んばっていることが、世界を動かしている面はある。
 そんな厭世的な考え方になってしまうような(文化人的な)生き方をしてきた人が、武士として、大将として戦わなければならなかったことも、平家の敗因ではあったのでしょう。

 そういう「やたらとモヤモヤするというか、観客としては『もうちょっとなんとかならないのか……』と言いたくなるところ」をとくに美化するわけでも説明するわけでもなく丁寧に描いているのが、このアニメの凄さであり、魅力なのです。
 正直、維盛とか清経、僕はWikipediaに直行しましたけどね。えっ?この人たち、本当にこうなったんだっけ?って。

 文章的には「知っていた」はずの場面についても、アニメでみると、「刺さる」ところも多かったのです。
 安徳天皇の最期なんて、文章の『平家物語』を読んだときには、「まあ、この状況ではしょうがないよな」って感じだったけれど、このアニメで、そこに至るまでの戦況や状況、そして母親としての平徳子の姿をみていると、「なんとかならなかったのかなあ」と切なくて。

 いやしかし、『びわ』の父親もそうなのですが、世の中には、「物語」になることもないまま、無造作に切り捨てられたり、死んでいったりする人たちも大勢いるわけで(というか、そちらの側の人のほうが大部分なわけで)、安徳天皇や平家だけが「かわいそう」とか「哀れ」という気分にもなれないのです。
 平家は、栄華の時があっただけ「幸せ」だったのか? それとも、その落差を体験させられたから「不幸」なのか?
 正解なんて、ない。
 たぶん、人それぞれの「答え」はあるのだけれど。


 一般人だろうが、平家(権力者)だろうが、ひとりの人間の力では、どうしようもない「歴史のうねり」みたいなものがある。
 大胆に、短くまとめられている作品だけに、このアニメ版は、その「全体像」が迫ってくる気がします。

 
 感想をいくつかネットでみて、「『びわ』は主人公なのに、何のためにいるのかわからない、今後の活躍に期待します!」という内容が散見されたんですよ(物語前半での感想です)。
 うん、気持ちはわかる。そんな「未来が見える力」があったら、「死に戻り」とか「タイムリープ」とかして平家滅亡を防ぐみたいな話があってもいいよね。深夜枠のアニメって、そういう話が多いし、ゲームだって、みんなが幸せになる「真エンドルート」が大概用意されています。
 「そんなの『平家物語』じゃねえ!」と僕は言いたくなるのだけれど、これはそういう「滅びの物語」なのだ、という先入観がなければ、あまりにも救いようがない。われわれは、800年前の人々のような「仏教的無常観」を持ってはいないし。

 『びわ』は、平家の人々に起こる悲劇を、ただ「見守る」。そして、「記憶し、語り継ぐ」のです。
 僕は『びわ』というキャラクターが「何もしない、できない」のに、なぜ主人公として存在しているのか、疑問だったんですよ。
 でも、このアニメを最後まで見届けて、わかったような気がします。

 世の中のほとんどの人間は、物語の登場人物ではなくて「見守る人」「観客」なんですよね。
 そして、さまざまな物語を伝えてきたのは、その登場人物自身ではなく、それを見て、記録し、語った「語り部」たちなのです。

 僕は以前から、疑問に思っていたのです。
 安徳天皇に「波の下にも都はございます」と語りかけた二位尼の言葉を聞いたのは誰だったのか?
 周囲にいて、生き残った人だったのか、それとも、『平家物語』の作者の創作なのか?
 たぶん、みんなが「歴史」として認識していることのなかには「創作がそのまま歴史的事実のようになってしまったこと」がたくさん含まれている。
 でも、そういうものも含めて「人間の歴史」であり「物語」であるともいえる。

 『びわ』は「何もしないし、できない」。ただ見守り、ときには平家の人たちの心を安らげるだけ。
 実際は、ほとんどの人が「登場人物」にはならず(なれず)、『びわ』の立場で生き、そして死んでいく。
 このアニメ『平家物語』は、歴史の大きな流れのなかで、「ただ祈ることしかできなかった人たち」「見守り、語り継いできた人たち」への鎮魂の作品でもあるのかもしれません。

 「『平家物語』って、何?」という人には、あまりにもダイジェスト版すぎてちょっとわかりづらいかもしれませんが、『鎌倉殿の十三人』すら、最近は録画してはいるけれど観ていない回が溜まってきている僕にとっては、「このくらい思い切ってまとめてくれたことに感謝したい」アニメでした。
 全11話で、オリジナルのキャラクターも出てくるけれど、観たあとに心に残ったものは、たしかに『平家物語』だったと思います。


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