アドバイスとか、そんな偉そうなものではなくて(というか、文章を書くことについて、僕がこの方にアドバイスできるようなことなど何もないので)、これを読んで思ったことについて書かせてください。
僕も地方在住者で、けっこう長い間ブログを書いています。ライター、という立場ではないのかもしれないけれど、ときどき、文章を書いてお金をいただくこともあります(ただし単著はない)。
けっこう長い間書いていて、そして、たくさんのプロの「物書き」の文章を読んできて思うのは、ひとりの人間のなかに「書いてお金をもらえるほど価値のあること」って、そんなにたくさんは存在しないのではないか、ということなんですよね。
プロの作家でも、同じネタをちょっとずつ変えて使い廻したり(エッセイでは、あっ、またこの話か、って思うこともあるのです)、ひとつのヒット作をマンネリになりながらも描き続けていたりすることはよくあります。
もちろん、筒井康隆先生や藤子・F・不二雄先生、荒木飛呂彦先生のように「ひとりの人間の頭のなかから、こんな広大な世界を生むことができるのか……」と圧倒されることもあるのですけど、これはもう、天才の領域です。
それは「創作」の世界であって、自分の日常とか取材をして書くということになると、誠実になろうとすればするほど、ネタ切れを起こしたり、ものすごく時間と手間がかかったりしてしまうんですよね。
徹底的に取材をして書くノンフィクション作家は、何年かに一度しか本を書けないし(それで合間にエッセイなどを書いて糊口を凌ぐわけです)、日記を書いていると、ああ、この話、前にも書いたよなあ、何度目かなあ、と自分でも苦笑してしまう。
いまはインターネット以前よりもずっと、文章を大勢の人に公開するためのハードルが下がりました。
これまでは「作家」や「ライター」にならないと、読んでもらうための舞台に上がれなかったのが、ブログに書いているだけで、いつのまにか舞台に上がっていることもあるのです。
もちろん、そんなに簡単にうまくいくものではないけれど。
僕は本をそれなりに読んできて、ブログでも多くの文章に触れているのですが、「作家がずっと書き続ける時代」から、「多くの人が、人生の渾身の一作」を持ち寄るような世界になるのかもしれない、と思い続けているのです。
「思い続けている」ということは、実際はそうなっていない、ということなんでしょうけどね。
裾野が広がることによって、出てくる才能というのはあるのだけれど、実際のところ、環境はどうあれ、出てくるべき才能はけっこう早いうちに出てくるものなのかもしれません。
K-1がすごい人気になっていったとき、僕は、これで、今までのトップファイターたちは、新しい才能に駆逐されていくんだろうな、と予想していました。だって、競技人口が何十倍、何百倍にもなるのだから。
でも、実際はそうならずに、初期のファイターたちが実力者として君臨しつづけていたのです。
何かを書く、という仕事にしても、依頼する側からすれば、一発長打の魅力はさておき、一定のクオリティを保てるであろう人というのは、そんなに多くはないのでしょう。
地方で書く、ということの難しさもわかります。
いまは、東京と地方の日常生活での格差はほとんどなくなっているのですが、文化的な差は、けっこう大きいんですよね。専門的な調べものをしたり、仕事帰りにふらっと美術館に行ったり、小劇団の舞台を観に行ったりすることに関しては、東京には圧倒的なアドバンテージがあります。僕にはあんなに歩かなければならない生活はきついけれど。
ただ、これはあくまでも僕の想い、みたいなものなのですが、けっこう長い間、小娘さんの文章を読んできて感じるのは、「この人は、『こちら側の人』なんだ」ということなんですよね。
僕個人の味方とか仲間とかそういうわけじゃなくて、「メディアの『与える側』として、きらびやかな世界で生きてきた人ではなくて、いち観客として、華やかな世界を憧れの目でみてきた人」だということです。
「こちら側の人のままで、書かれた文章」であることが、小娘さんの大きな魅力ではないか、と僕は思います。
いままで、多くのブロガーから作家になった人を外野から眺めてきたけれど、成功した人もいれば、なんか当たり障りのないことばっかり書くようになったなあ、という人もいる。
観客席からであれば、面白いヤジをとばせる人でも、相手と同じステージに立っても同じことを言える人というのは、そんなに多くはありません。
そして、いつのまにか、あちら側(自分たちは選ばれた「送り手」なのだと考えている人たちの側)に行って、ポジショントークばかりする人、あるいは関心もないのに炎上ばかり狙う人になってしまう。
「あちら側」には、「あちら側」のルールがあって、スポンサーの意向には逆らえないし、世間でみんなが叩いているものは、尻馬に乗って、もっとうまく叩いたもの勝ち、なんですよね。
そういう意味では、別に、メディア人だから、プロの物書きだから「あちら側」だというわけではなくて、まとめサイトや個人ブログでも、「あちら側」に行ってしまった人は、多勢います。
というか、効率的に稼ごう、稼ぎ続けようと思ったら、「あちら側」に行かざるをえないのが、いまの世の中の仕組みです。
「無料で見られて、広告で稼ぐ」というネットのビジネスモデルは、本や雑誌よりも、そして、みんなが大嫌いな新聞やテレビよりも、まだチェックが甘いこともあり、よりいっそう「PV(ページビュー)至上主義」に向かっていきやすい。
世間が、吉澤さんへのバッシング一色になったなかで、こういう文章を書くのって、「あちら側」の人には難しいと思うのです。だからこそ、ブログでの公開になったのかもしれませんが。
プロのライターならば、憧れのあの人に会って、直接話を聞いてみたい、とか、業界の有名な人たちと交流してみたい、という夢みたいなことが、叶う可能性もあるはずです。
でも、そのことによって、「あちら側」に取り込まれてしまって、「ブログはあんなに面白かったのに、プロになったら、他の人と変わらないな」とガッカリさせられるケースって、少なからずあるのです。
北海道在住で、資料を調べるのも大変だし、家庭の事情で身動きがとれないこともある、というのは、本人にとっては、ものすごくもどかしいのだろうなあ。
いろんなしがらみを断ちきって、もっと、思いっきりやってみたい、というのもわかる。
ただ、僕はその「ハンディキャップ」こそが、小娘さんの文章の魅力の源泉ではないか、とも感じるのです。
いろんなしがらみやコンプレックスだらけの人生の合間に、人は、アイドルに憧れたり、贔屓の野球チームの勝敗に一喜一憂したりする。それが「普通」なのだけれど、これまでの「あちら側(伝える側)」の人たちの書く文章は、あくまでも、「同じ地面に乗っかっている人」からのものだった。
ネットによって、「所詮、きらびやかな世界は、ディスプレイの向こう側の存在なのだから」という「こちら側」からの視点が、読めるようになっていったのです。
地方在住は「不利」ではあるのだけれど、多くの人は、同じように、「地方」で生きています。
だからこそ「地方からみた景色」を書き続ける人がいても、良いと思う。それこそ、インターネット時代にできるようになったことでもあります(そういう意味では、イケダハヤトさんがやっていることは、手法や理念としては素晴らしいのですよね。残念な目的になってしまっているけれど)。
極論すれば、それが「自分からみた風景」であることが明示されていれば、「誤解があっても、自分の記憶をそのまま取り出したもの」にも価値はあると思うのです(「お金をもらう」となると、そうはいかないでしょうけど)。
どうしても、人って変わっていくものだし、状況もずっと同じとは限りません。
だから、チャンスだ、と思うタイミングがあれば、現状にこだわる必要もない。
けれど、いまの状況だからこそ、見える、書ける景色はある。
不躾な言い方をすると、冒頭の文章のような、「ひとりの人間として、ライターとしての悩み」って、ものすごくオリジナリティのあるコンテンツ(情報)だと思います。
30代半ばって、こういう仕事と日常(あるいは人生設計)との板挟みになりやすい時期でもあります。
ものすごく個人的なものだけに、かえって、多くの人に刺さる文章でもある。
長い間書いているうちに、対象について語っているのと同じくらい、小娘さんの人生も、「物語」になっているのです。
それぞれの立場もあるし、事情もあるので、知ったようなことは言えませんが、僕は、こういう文章が書ける人と、こういう文章を読めるインターネットが好きです。
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