いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

「自分をADHDと思いこんでいるただの低スペック人間多すぎでは?」についてのとりとめのない雑感

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nyaaat.hatenablog.com


「自分をADHDと思いこんでいるただの低スペック人間多すぎでは?」についてのとりとめのない雑感など。

 最近、この本を読んだのですが、著者の借金玉さんはすごく頭が良いというか、言葉で物事を説明するのが上手な人だなあ、と思ったのです。


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 たぶん、ネットで語られている「発達障害者の苦悩」というのは、「生きづらいけれども、言語能力に優れていたり、文章を書くのは得意」な発達障害者によって書かれたものが多いのでしょう。
 
 僕自身も含めて、「生きづらいと自分では思っているし、困り果てているけれど、口は達者(あるいは、ネットでは饒舌)」というタイプの人が主な語り手になっているのです。
 それは、あくまでも一部の発達障害者の特性でしかないと思われます。


 最初から2つめのエントリ、ニャートさんが書いたものを読んで考えていたんですよ。
 「低スペックというのは、環境に問題があるだけで、自分に合ったところを選べば、『できる人』として評価される場合も多い」というのは、本当にその通りだと思うのです。
 でも、それは、いい大学を出ていたり、自分の苦しみを文章にできるような能力を持ってたりすればこそ、なのかもしれません。

 
 僕は病気の人を長年みてきて思うのです。
 人は、他人のことがわからない。
 そして、それ以上に「自分が他人に比べて、どういう状態にあるのか」がわからない。
 いろんな病気で、「なんでもうちょっと早く病院に来なかったの?」と問いかけたくなる人がやってきます。でも、僕自身も半世紀近く生きてきてようやく理解できたのですが、いま自分に起こっていることが「年齢にともなう自然な変化」なのか「放っておけば自然によくなるようなもの」なのか「とにかく一刻も早く病院に行くべきもの」なのか、ってわからないんですよね。
 もちろん、ものすごく痛いとか、体のどこかが動かなくなった、というような状況であれば、ほとんどの人は病院に来るわけですが、じわじわと進行してくるような病気の場合、「まあ、年だもんね」みたいな判断をしてしまうことが本当に多いし、僕自身にもそういう傾向があるのです。
 実際のところ、他人が本当に何を考えているかなんて、わかりませんよね。


 自分は他人が簡単にできることができなくて苦しい、と感じている人は多いはず。
 僕だってそうです。
 でも、本当のところは、みんながそれを本当に「簡単にやっている」かどうかはわからないし、個人的には、人の「感情」とか「自然なふるまい」みたいなものも、疑っているのです。


 以前、こういう話を書きました。
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『ないものねだり』(中谷美紀著・幻冬舎文庫)の巻末の黒沢清さんによる「解説」の一部です。

 今でも強烈に印象に残っている撮影現場の光景がある。中谷さんに、沼の上に突き出た桟橋をふらふらと歩いていき、突端まで行き着いてついにそれ以上進めなくなるという場面を演じてもらったときのことだ。これは、一見別にどうってことのない芝居に思える。正直私も簡単なことだろうとタカをくくっていた。だから中谷さんに「桟橋の先まで行って立ち止まってください」としか指示していない。中谷さんは「はい、わかりました。少し練習させてください」と言い、何度か桟橋を往復していたようだった。最初、ただ足場の安全性を確かめているのだろうくらいに思って気にも留めなかったのだが、そうではなかった。見ると、中谷さんはスタート位置から突端までの歩数を何度も往復して正確に測っている。私はこの時点でもまだ、それが何の目的なのかわからなかった。
 そしていよいよ撮影が開始され、よーいスタートとなり、中谷さんは桟橋を歩き始めた。徐々に突端に近づき、その端まで行ったとき、私もスタッフたちも一瞬「あっ!」と声を上げそうになった。と言うのは、彼女の身体がぐらりと傾き、本当に水に落ちてしまうのではないかと見えたからだ。しかし彼女はぎりぎりのところで踏みとどまって、まさに呆然と立ちすくんだのだ。もちろん私は一発でOKを出した。要するに彼女は、あらかじめこのぎりぎりのところで足を踏み外す寸前の歩数を正確に測っていたのだった。「なんて精密なんだ……」私は舌を巻いた。と同時に、この精密さがあったからこそ、彼女の芝居はまったく計算したようなところがなく、徹底して自然なのである。
 つまりこれは脚本に書かれた「桟橋の先まで行って、それ以上進めなくなる」という一行を完全に表現した結果だったのだ。どういうことかと言うと、この一行には実は伏せられた重要なポイントがある。なぜその女はそれ以上進めなくなるのか、という点だ。別に難しい抽象的な理由や心理的な原因があったわけではない。彼女は物理的に「行けなく」なったのだ。「行かない」ことを選んだのではなく「行けなく」なった。どうしてか? それ以上行ったら水に落ちてしまうから。現実には十分あり得るシチュエーションで、別に難しくも何ともないと思うかもしれないが、これを演技でやるとなると細心の注意が必要となる。先まで行って適当に立ち止まるのとは全然違い、落ちそうになって踏みとどまり立ち尽くすという動きによってのみそれは表現可能なのであって、そのためには桟橋の突端ぎりぎりまでの歩数を正確に把握しておかねばならないのだった。
 と偉そうなことを書いたが、中谷美紀が目の前でこれを実践してくれるまで私は気づかなかった。彼女は知っていたのだ。映画の中では全てのできごとは自然でなければならず、カメラの前で何ひとつゴマかしがきかないということを。そして、演技としての自然さは、徹底した計算によってのみ達成されるということを。ところで、このことは中谷さんの文章にもそのまま当てはまるのではないだろうか。

 
 この中谷さんの演技に対する姿勢が、黒沢清監督に強い印象を残したということは、少なくとも日本の役者さんの大部分は、こんな「計算した演技」をすることはないのでしょうね。

 
 実際のところ、もし人が自分の欲求や思いついたことに対して、そのまま「自然に」行動すれば、ほとんどの場合、他人から嫌われるはずです。
 多かれ少なかれ、あるいは、自覚的であるかそうでないかは別として、人はみんな「演技」をしながら生きています。


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 こちらは、『Books&Apps』に寄稿したものなのですが、アスペルガー症候群と診断された医師の「現実への適応」の話です(ちなみに僕のことではないです)。


 よくできた演技は、現実と区別がつかない。
 

 アスペルガー症候群発達障害を抱えている人には、特定のジャンルにはすごい能力を持っていたり、ペーパーテストはすごく良くできたりする人が少なからずいるのです。
 それで、医者や法律家、官僚のような「現場では人とのコミュニケーションが重視される高偏差値の職業」に就いてしまうことがあるんですよね。
 そのことは、本人にとっても周囲にとっても、悲劇を生みがちなのです。


 この話を読むと、そういう人でも、「共感したように見えるふるまい」を練習し、身につけることができる事例があることがわかります。


 僕は子どもの頃から、「面白いから笑う」「悲しいから泣く」という実感があまりなくて、「笑ったほうがいいことを誰かが言っているみたいだから」「ここは涙を流しておいたほうがみんな納得してくれる」というようなことばかり考えていたのです。
(ただし、年齢とともに、涙もろくなってきて、行方不明の子どもが見つかった、というようなニュースを見ると、ひとりで本気で泣いてしまうようになりました。振れ幅が激しいというか……こういうのが感情失禁なんでしょうか)


 思うに、現実の世界では、そういうふうに「生きやすいように、感情というものを学習して表出している」という人は、少なからずいるのではないでしょうか。
 その一方で、「なんで急にそんなに怒り出したり、苛立ちをぶつけてきたりするんだ……」という人もいる。

 
 話を戻すのですが、そういう「人間らしい感情のエミュレーター」を装備できるっていうのは、それはそれで、「能力」とか「才能」がある人なんですよ、たぶん。
 ただ、わかっていても、それをやるのは、ものすごくきつい、という人もいる。


fujipon.hatenablog.com


 僕の「いい人エンジン」は、それなりの性能はあっても、燃費が悪すぎる。
 中途半端に「適応」できているというのも、それはそれで本人にとってはつらいものではあるのです。


 結局、こういうのは「苦しんでいる人たちが、『自分のほうがつらいんだ!』と言い争っている」ほど不毛な状態はないのです。
 感情とか内面なんて、定量化する方法はないのだから。


「あなたはもっと向いた場所があるはず」「あなたは低スペックではない」という励ましや、「こういう方向で工夫をしてみればいい」というアドバイスって、実は諸刃の剣じゃないかと思うのですよ。


「やればできるから、低スペックじゃないから、生きている価値があるんですよ」

 
 揚げ足を取るみたいだけれど、本当に「やればできる人」「環境を変えればうまくいく人」ばかりなのだろうか?
 「適切な努力」が常に可能だろうか?
 「やればできる」を基準にしてしまうと、そこからこぼれ落ちてしまう人が、大勢いるのではないか。
 正直、こうしてネットで何かを表明できる人って、それなりに「能力がある人」だと思うんですよ。
 その一方で、決定的に欠落したところがあるのだとしても。


 借金玉さんの本を読んでいて、「沁みた」ところがあったのです。
 借金玉さんは、「死にたい。自分には価値がない」という電話が友人からかかってきたときに、自然に「価値がなくたって死ぬ必要はない」と答えたそうです。


 きれいごとのように聞こえるでしょうし、そう思われるのは百も承知で言うのですが、結局のところ、「自分は何かの役に立つから、生きる価値がある、と定義することは、それが破綻したとき、自分を追い詰めるだけ」のような気がします。
 「生きてるだけで丸儲け」を大前提にしたほうがいい。


fujipon.hatenadiary.com

 私たちが「生きる意味があるか」と問うのは、はじめから誤っているのです。つまり、私たちは、生きる意味を問うてはならないのです。人生こそが問いを出し私たちに問いを提起しているからです。
 私たちは問われている存在なのです。
 私たちは、人生がたえずそのときそのときに出す問い、「人生の問い」に答えなければならない、答を出さなければならない存在なのです。生きること自体、問われていることにほかなりません。
 私たちが生きていくことは答えることにほかなりません。そしてそれは、生きていることに責任を担うことです。


 まあでも、こういうのって、本当につらいとき、死にたいときには、読んでもうまく咀嚼できないですよね。
 そういうときは、まず病院に行って、薬による治療を考えてみるべきでしょう。
 人間って、バカバカしいくらい、化学物質に制御されてしまうのです。
 考えるのは、少しラクになってからでも、遅くはないのだから。


 まずは「とにかく生きる」こと。
 それから、「うまく生きるための技術」みたいなものを習得していけばいい。
 ギリギリのところでは、ライフハック的なものよりも、「他人に助けを求めるための技術」のほうが大事なんじゃないか、とも思うのです。
 どんなに本人が苦しんでいても、うまくSOSを発することができなければ、助けてもらえないので。
 

 これからAIが人間の仕事を肩代わりする時代になると、人間どうしの能力差なんて、リニアモーターカーの前で、三輪車と乳母車がスピード競争しているようなものになってしまうのかな、とも思うのですが。


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ないものねだり (幻冬舎文庫)

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それでも人生にイエスと言う

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