いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

すぎやまこういち先生のこと


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 90歳というのは、人生を終えるのには早すぎる、という年齢ではありません。
 『ドラゴンクエスト』シリーズの最新作が発表されるたびに、僕は内心、すぎやまこういち先生の姿を思い浮かべ、どうか先生がずっと『ドラクエ』の音楽をつくり続けてくれますように、と願っていました。
 堀井雄二鳥山明、そして、すぎやまこういち
 この3人のうち、誰が欠けても、それは僕にとっての『ドラゴンクエスト』ではないから。


 僕は高校時代、家の近くの『ベスト電器』のマイコンコーナーで、すぎやま先生の音楽をずっと聴いていました。
 当時はまだマイコン(今のパソコン)が世の中にようやく浸透しはじめた頃で、そのマイコンコーナーには、新しもの好き、機械好きの人たちが集まっていたのです。
 
 マイコンコーナーでは、さまざまなゲームのデモが流れていて、僕は何時間も、そこで『イース2』や『ザ・スクリーマー』『ブラスティ』などを眺めていたものです。
 当時の、PC8801mk2SR全盛期くらいのフロッピーディスク付きのマイコンは30万円近くしていたので、ナイコン族(マイコンを持っていない人たちを当時はこう呼んでいました)の若者たちは、電器屋マイコンコーナーに入りびたっていたのです。中には、ゲームソフトだけ買ってデモ機で延々と遊んでいる剛の者もいました。

 そんななかで、僕は、PC8801mk2 SRでずっとデモが流れていた、エニックスの『ジーザス』というアドベンチャーゲームにひきつけられていたのです。
 まだ普及しはじめたばかりのFM音源サウンドに、画面がほんの少し動くくらいの「アニメーション」。
 マイコンでは、こんなすごいゲームができるんだなあ、と感動し、いつかこれを手に入れたいなあ、と思っていました。
 のちに、シャープX1Gを手に入れたら、『ジーザス』はX1-Turbo専用だった、という悲劇が待ち受けていたのですが。
 当時の僕のいちばん嫌いな言葉は、まちがいなく「Turbo専用」でした。


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 1987年か……もう34年も前になるのだなあ……
 この『ジーザス』の音楽を作曲していたのが、すぎやまこういち先生なのです。
ジーザス』は、音楽が謎解きの大きな要素になっているのですが、その「誰でも知っているメロディ」をうまく活かしたストーリーにも痺れました。

 すぎやま先生は、1985年にエニックスの将棋ゲームのユーザーアンケートはがきを送ったのがきっかけで、ゲーム音楽を手掛けるようになったそうです。
 1986年に「肩慣らしとして」『ウイングマン2』というマイコンアドベンチャーゲームの作曲をしたあと、同年5月27日に発売された『ドラゴンクエスト(1)』を作曲。
 『ドラゴンクエスト(1)』で僕の記憶に残っているのは、「たいようのいし」のありかがわからなくて中学校で同級生に聞いたことと、さんざん夜更かしした挙句、プレイ開始から3日目でクリアしたときのエンディングのすばらしさでした。
 こんな映画みたいなエンドロール、エンディングテーマが、テレビゲームで見られる、聴けるなんて!
 感動してアンケートはがきを書いて送ったら、その年の暮れに、『ドラゴンクエスト2』の発売を知らせるハガキが家にやって来たのを思い出します。

 こうして確認しながら書いていると、『ジーザス』のほうが『ドラゴンクエスト(1)』の後だったということに、けっこう驚いています。僕は昔の記憶にはけっこう自信があったのですが、人の記憶なんて、曖昧なものですね。
 でも、『ジーザス』のデモと音楽は、今でもはっきりと思い出すことができるのです。


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 これは2006年に音楽雑誌でファミコン音楽が特集されたときのことを書いたエントリなのですが、このなかで、すぎやま先生はこう仰っています。

すぎやまこういち(『ドラゴンクエスト』シリーズ)
「『ドラゴンクエストⅠ』の全曲を超スピード(約1週間)で創りました。というのも、実は、音楽を含めすべてできあがっていた『ドラゴンクエストⅠ』を千田プロデューサーの判断で、全曲作り直すことになったからです。この時点で、すでにマスターアップの締め切りは過ぎていました。こんな件がなければ、僕とドラクエの縁はなかったでしょうね」


ちなみに、ファミコンの音源というのは、

音階の演奏ができるモノフォニック(単音)のパートが3つと、ノイズのみが演奏できるパートが1つ、の計4パート/4ボイスという構成


なのだそうです。本当に少ないような気がしますが、すぎやまこういち先生は、FF(ファイナルファンタジーシリーズ)の植松(伸夫)さんの「3音だけってのは、やりにくいですよね」という問いに、

音楽なんて2音で充分。ドラクエは2音で作ってるよ。残りの1音は効果音に使ってる。

と答えられたそうです。


 僕は40年くらい、いろんなゲームミュージックを聴いてきているのですが、自分にとって感受性が強い時代だったこともあいまって、1980年代のPSGとFM音源時代のサウンドというのは、とくに印象深いのです。

 薄暗いゲームセンターに、ナムコの『リブルラブル』のキラキラした音楽が流れていたのだよなあ。

 すぎやま先生がゲーム音楽に携わるようになった時代は、古代祐三さんなどのゲーム音楽家が存在感を示していたものの、「3音しか使えない、しかも、子ども向けのテレビゲームの音楽なんて、プロの作曲家がやる仕事ではない」とも考えられていたのです。
 
 そんななかで、ボードゲームからテレビゲームまで、ゲームというものが大好きなすぎやま先生は、音数や音色が限られているという、さまざまな制約を楽しむように、ゲーム音楽の世界を切り開いていったのです。すぎやま先生のサウンドは、それ自体が「名曲」であるのと同時に、聴くとプレイ中の記憶がよみがえってくる、「ゲームを活かす音楽」だったと思います。
 
 のちに、他のジャンルから名高い作曲家が大勢やってきて、ゲーム音楽を手掛けるようになりましたが、すぎやま先生ほど成功をおさめた人はいないし、これからも出ないと思います。
 
 この40年間で、ハードの進化により、テレビゲームでも「普通の音楽」を流せるようになりました。
 「ゲーム音楽」は、いまや多くの人に親しまれ、愛されるジャンルであるのと同時に、ゲームの中ではコンテンツのひとつとして多彩な音楽が使われることから、演歌やワールドミュージックなどは、「ゲーム音楽のなかで(商業的に)生き残っている」という面もあるのです。
 東京藝大の作曲科を卒業した人が、「ゲーム音楽を作曲したい」と、ゲームメーカーの入社試験を受けに来るようになった、という話も聞きました。

 「すぎやまこういち以前」のゲーム音楽って、制作スタッフのなかで「ちょっと音楽に詳しい人」がつくるというような世界だったのです。いや、「スタッフ」というか「音楽をやっていた知り合い」とか「プログラマーがついでに」というような感じのことも多かったそうです。

 ゲーム音楽が「普通の音楽」と同じようになったのは、技術的にはすごいことなのだけれど、僕は、あの薄暗いゲーセンの『リブルラブル』が、ひどく懐かしくなることもあるのです。

 すぎやま先生は、『ドラゴンクエスト』で、ゲーム音楽というジャンルをみんなに浸透させていった一方で、今となっては数少なくなった、「昔のゲーム音楽の面影を遺し続けている作家」でもありました。
 「序曲」とか、どんなにアレンジされて、オーケストラが演奏しても、『ドラゴンクエスト(1)』のタイトル画面が浮かんでくるものなあ。


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この本の巻末のインタビューのなかで、オーケストラや吹奏楽団の情報を発信するポータルサイト「2083WEB」の齋藤健二さんは、こんな話をされています。

――ゲーム音楽には、さまざまな音楽ジャンルの曲がありますからね。


齋藤:自分自身、音楽ジャンルで言うとジャズやフュージョンが好きなんですけど、一般の人は決して聴くことが多いジャンルではないと思うんです。ただ、それがゲーム音楽というフィルターを挟むと、いろんな人が耳にしてくれる。これはオーケストラにも言えることで、普段クラシックのコンサートに行かない人でも、ゲーム音楽のオーケストラ・コンサートになると、多くの人が集ってくれる。こういう風に、いろんなジャンルの音楽を先入観無く聴くきっかけになるのは、ゲーム音楽の良いところだと思います。


 『ドラゴンクエスト』からクラシック音楽やオーケストラの世界に触れた人も大勢いるはずです。

 僕も『ドラゴンクエストコンサート』で、すぎやま先生を拝見したことがあります。

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 福岡でのコンサートのステージで、すぎやま先生は優しい口調で曲の説明をしたり、指揮棒を振るったりされていたのですが、「序曲」からスタートして最初の何曲かを演奏されたあとで、先生は、「それでは、私はちょっと座らせていただきますね」と仰り、それ以降は座って指揮をされていました。
 これは別にアクシデントでもなんでもなくて、「予定通り」だったはずなのですが、それでも、実際にそうやって座って指揮をされているすぎやま先生の姿を観ていたら、やっぱり、すぎやま先生の「年齢」を考えずにはいられなかったのです。
 すぎやま先生は、1931年生まれですから、もう76歳になられます。

 
 これは2007年に書いたものですが、ここから14年間、すぎやま先生は精力的な活動を続けてこられたのです。
 もう新しい曲は聴けないのか、と思うと寂しいかぎりですが、90歳まで現役で精力的に活動を続けられたのはすごいことですし、おそらく、今後もすぎやま先生の曲は聴き続けられることでしょう。

 競馬の関東G1のファンファーレもすぎやま先生作曲なんだよなあ!

 すぎやま先生の音楽は、僕の人生のあちらこちらで流れ続けているのです。これからも、きっとそのはず。


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ドラゴンクエスト』の作曲の依頼を受けたときのすぎやま先生は、もう50代半ば。
ポップスの作曲家としては、「転機」にさしかかり、仕事も減ってきた時期だった、とのことでした。

すぎやまこういちそして無事、ドラクエの音楽の仕事がスタートしました。最初に打ち合わせした時、音楽はすでにできていたんですよね。


中村光一すでに、ゲームとしてはほぼ出来上がっていて、曲も仮のものが入っていたと思うんですが、先生にお願いできることになったので、どういう場面があって、どういうストーリーなのかをお話させていただきました。すでに締切直前で、8曲近くを1週間で作っていただくことになってしまった。さすがに1週間じゃ無理だろうと思っていたら、きっちりあげてくださって。当時は容量が少なかったので、和音もオタマジャクシ(音符)も少なめでお願いしますという制約まであったのに、です。


すぎやま:2トラックでね(笑)。その時、ゲームについていた音楽を一応、聴かせてもらったんですが、「これはヘボいわ」と(笑)。製作期間が1週間でも引き受けたのは、それまでに2000曲近く作っていたCM音楽では、「締め切りは明日の朝」なんていうこともしょっちゅうありましたから。1週間あれば何とかなるだろうと思いましたよ。
 でも、フィールド曲の「広野を行く」は最初、中村さんの評価はあまり良くなかったんですよね。


中村:私のイメージとしては、勇ましく、いかにも「冒険に行くぞ!」という感じの曲がいいなと思っていたのですが、先生が書いてくださった曲は、どこか寂しくて、不安感があるという印象だったんです。ところが、ゲームと合わせて実際に曲を流しながら動かしてみたら、スタッフには結構好評で、みんな口ずさむようになっていました。


すぎやま:はじめての、たった一人での冒険だから、不安や寂しさに照準を合わせたんだよね。勇ましさや意気込みというイメージに一番近いのは、『3』の「冒険の旅」ではないかと思います。


この本を読み、これまでのすぎやま先生の人生とディスコグラフィーについて知っていくと、すぎやま先生は自由な「アーティスト」であるのと同時に、ものすごく自分の仕事に厳しい「職人」でもある、ということがよくわかります。
そういう一見相反したふたつの要素をバランスよく持っている、数少ない作曲家なんですね。
すぎやま先生が『ドラゴンクエスト』を作曲された時代、他の有名な作曲家たちのなかにも、ゲーム音楽作曲の打診を受けた人はたくさんいたそうです。
でも、彼らの多くは、「ファミコンの3音くらいの貧弱な音源では、私の曲は表現しきれない」ということで、依頼を断ったのだとか。
すぎやま先生は、自らもすごいゲームマニアであり、「このゲームにふさわしい音楽とは」という視点を持てる、数少ない作曲家でもあったのです。
ゲーム音楽における、さまざまな「制約」に、かえってやりがいを感じることができる人でもありました。


 僕、もうすぐ50歳なんですよ。
 もう人生下り坂だ、終活だ、なんて考えてしまう日々なのですが、これを書いていて、すぎやま先生の人生の転機になった「ゲーム音楽を作りはじめた」のが、50代半ばだったのを思い出しました。

 まだ、この先にだって、「何か」があるかもしれない。
 そんなふうに、少し勇気づけられもしたのです。

 すぎやま先生のおかげで、ゲーム音楽は大きな進歩を遂げた。そして、50代半ばでのゲーム音楽との出会いで、すぎやま先生の人生も大きく変わった。
 僕をはじめとする、多くのゲーマーたちの人生も、『ドラゴンクエスト』の影響を受けた。いや、受け続けている。

 ものすごく不躾な言い方ではあるのですが、すぎやま先生の訃報はとても悲しいのだけれど、その一方で、もしゲームの神様というのがいるのだとしたら、その存在が、すぎやまこういちという人を90歳まで生かし、その仕事を全うさせてくれたのではないか、そんな気がするのです。


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 政治的なスタンスやタバコ好きなどで批判を受けることもありますが、僕にとっては、ゲーム音楽のレジェンドであるのと同時に、ずっと一緒に「テレビゲームの時代」を歩んできた、愛すべき大先輩ゲーマーでもあったのです。

 いまごろは、「天国は退屈でかなわん」とか嘯きながら、好きなだけタバコをくゆらし、バックギャモンに興じておられるのではないかなあ。



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 福岡でのコンサートのとき、すぎやま先生は「自分がつくったなかでも、いちばん好きな曲」として、この曲(『この道 わが旅』)を最後に演奏されたのを思い出します。
 僕もこの曲、『ドラゴンクエスト』の音楽のなかでいちばん好きです(ゲームとしても『ドラゴンクエスト2』がいちばん好き)。


 すぎやま先生、本当に、本当に、ありがとうございました。また、この旅のどこかで。


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