いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

小山田圭吾さんとすぎやまこういち先生の「違い」を考える


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 すぎやまこういち先生、もう90歳になられたのか……まあ、問題はそこじゃないって話なんでしょうけど。
 東京オリンピックにたくさんのゲーム音楽が使われたことに関しては、僕自身も感慨深いものがありました。
 テレビゲームというものが、まだ「日陰」の存在だった頃から大好きだったので、オリンピックという「権威」に認められた、ということは「何をいまさら」という気持ちがありつつも、やっぱり、嬉しく、誇らしくもあったんですよね。

 小山田圭吾さんが学生時代の障害者へのイジメを以前雑誌のインタビューで語っていたこと、小林賢太郎さんは、ナチスユダヤ人虐殺をネタにしていたことでオリンピック関係の仕事から降板していたのに続いて、『ドラゴンクエスト』などの作曲者である、すぎやま先生のこれまでの言動が発掘され、「なぜ、すぎやまこういちはOKなんだ?」「結局は、『何を差別したか』によって、責められる程度が変わっているのではないか?」という声も挙がっているようです。


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 前者の本には、すぎやま先生の「右寄りの思想」についても書かれていましたし、あの阿佐田哲也さんと遊び友達だった(すぎやま先生はお酒を飲めないそうなんですが)なんて話や、若かりし頃の「やんちゃ」エピソードも知っていたので、僕は「今さら、すぎやま先生の思想が問題視されて、『ドラゴンクエスト』の曲も責められるのか……」と、正直うんざりしました。
 
 あの杉田水脈さんと対談し、LGBTへの差別的な発言を肯定する素振りがあった、というのも、「あんな名曲をたくさん生み出してきた人が……しっかりしてくれよ……」という感じではあるのですが、そもそも、「そういう人が、あの『ドラクエ』や『ジーザス』の名曲を生み出してきた」のですよね。

 本人がやったことか、他人の発言に対する態度か、というのが違う。あの場にいて否定するのも難しい、と言いたいところですが、いまは「誰々の発言にフェイスブックで『イイネ!』をつけた」「ツイッターリツイートした」ということにも「責任」が問われる時代ではあります。
 すぎやま先生は、コンサート活動などはされているものの、普段はメディア積極的に「顔出し」してパフォーマンスをするわけではない作曲家である……とはいえ、「だから無罪」とも言い難い。

 でも、率直なところ、僕は「だから、『ドラクエ』の音楽を否定する」とか「オリンピックにはふさわしくない」とは思えないし、僕のゲーム人生を彩ってくれたすぎやま先生を嫌いにもなれないのです。

 小山田圭吾さんに関しては、あのイジメ自慢インタビュー以来「嫌い」であり続けています。
 小林賢太郎さんに対しては、たぶん、差別主義者、差別を肯定しているというよりは、「タブーに斬り込む」みたいな気負いがあった時期に、ラインを踏み越えてしまったんだろうな、という感じです。そもそも、あまり興味がない人でした。

 まあでも、小山田さんは学生時代の「イジメ」の罪をこのままずっとデジタルタトゥーとして背負っていかなければならないって、キツイよなあ、とは思うし、小林さんの「とにかく他人と違うことをやりたい」という芸人の焦燥感の暴走も想像はできるのだよなあ。


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 「だから許してあげようよ」ってわけじゃないし、正しい正しくない、よりも、「なんか感じ悪いよね」が優先されがちなのが、この世界ではあります。
 正しい正しくないで言うならば、あんなことをする人たちは正しくないけれど、一度罪を犯した人だからといって、ずっとそれで責め続けるのは正しくない、とも考えられる。
 
 この話へのたとえにはならないかもしれませんが、友人がSNSで自分の悪口を書いていたのを偶然発見してしまった場合のこちら側の感情は、どう処理していけばいいのか。僕はそんなことを考えてしまいます。
 親しい友人が、ネットで自分の悪口を「一部の友人のみに公開」で書いている。僕はそれを直接見ることはできない……はずだったのだけれど、それを見た人が転載したり、僕に「あいつ、こんなこと言ってるよ」と教えたりしてくれた。
 向こう側からすれば「見られないことを前提にして書いたもの」なんですよ。
 こちらとしても、人間には「裏面の感情」があることは百も承知だから、そういう暗黒面は「見なかったこと」にしたほうが、お互いの今後は平穏なものになるはず。
 でも、記憶を消す装置でもないかぎり、「あんなことを言われた」という記憶は、「無かったこと」には、やっぱりできない。
 もう、これまでと同じ関係でいるのは難しくなるのです。


 よくわからないことを延々と書いてしまいましたが、結局のところ、僕は現時点では、どんなに考えても、「小山田圭吾小林賢太郎両氏はダメ」だけれど、「すぎやまこういち先生は無罪」と言える合理的な根拠を見つけることはできませんでした。

 しかしながら、僕の感情は、「でも、すぎやま先生は許す」なんですよ。「許す」なんて偉そうですね。
 小山田さんや小林さんは、もともとあまり好きじゃない、あるいは興味がある人だから「許さない」けれど、すぎやま先生は、たくさんの作品で僕を幸せにしてくれた恩人であり、好きな人だから「許す」。
 「作品と作家とは無関係」とは言えないよねやっぱり。
 

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 すぎやま先生の場合には、作品から入って、のちにその人柄を知ったがゆえに、「あの音楽をつくった人なら無罪!」みたいな気持ちになるのかな、とも思うのです。
 あの時代、ほとんどの作曲家にとっては「まともな音楽」とみなされていなかったゲーム音楽に積極的に取り組んだのも、大のゲーム好き、遊び好きだったからでもあるし。
 いま90歳のすぎやま先生。太平洋戦争の時期に10代前半を過ごし、つくりあげてきた価値観が敗戦で全否定され、高度成長期の日本を生き抜いてきた人が、この年齢になってから、21世紀的な価値観を持っていないのはおかしい、と断罪するのは「正しい」のか?
 でも、それを言うなら、小山田さんだって、あのインタビューには「サブカル的な悪さ自慢を是とする時代の空気」が背景にあった。
 
 
 でも本当に、僕の場合、どんなに考えても、「すぎやま先生だから」「僕がずっと遊んできて、何度も幸せな時間を過ごさせてくれた『ドラゴンクエスト』の音楽だから許す、というか、許させてくれ、もういいじゃないか」という、感情的な結論にしかならないんですよ。好きだから、「ドラクエ無罪」!(実は、サイコパスの大量殺人鬼が作曲していました……とか言われると、さすがに受け入れがたいものがありますけど。その境界というか、「どこまでなら許せる」かって、想像では線引きできない……)


 これから先の時代は、いろんな過去の行状が「デジタルタトゥー」として記録され、出る杭になったら打たれる、という傾向がさらに強くなっていくはずです。
 そうなると、「どんなに過去を洗っても、埃一つない」なんて人間がいるのだろうか?

 それでも、一度「そういう過去の悪行」を聞いて、知ってしまうと、やはり、「知る前と同じ感情では向き合えない」のも事実なんですよね……どうすればいいのだろう……


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