いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

76年目の『広島原爆の日』に読んでみてほしい5つの本と映画。そして、「若者の戦争体験談離れ」について

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 新型コロナウイルスの爆発的な感染拡大や東京オリンピックが大きく報じられるなか、76年目の8月6日、『広島原爆の日』がやってきました。僕は小学校4年生まで広島に住んでいて(今でもカープファンなのは、あのときの「200発打線」のカープとファンの熱狂をあの場でみていたからだと思います)、当時は、8月6日は毎年登校日になっていました。

 広島の暑い夏のなかで学校に嫌々ながらやってきて、講堂で校長先生のお話と被爆者の体験談を聞くのですが、「夏休み中なのにめんどくさいなあ」というざわざわした雰囲気だったのが、被爆者の体験談を聞いているうちに、周りが静まりかえり、話が終わるころには、涙を流している同級生もいました。そんなつらい死に方や地獄のような光景があり、それを再現するための兵器が、世界中にまだたくさんある。世界は核戦争で滅ぶかもしれない。たぶん、40年前の小学生が感じていた核戦争の恐怖というのは、いまの子どもには、実感がわかないでしょう。もちろん、そうなったのは、悪いことではないのだけれど。

 今から考えると、40年前は、原爆投下から36年後ですから、2021年から比べると、まだ語り部が大勢いたし、人々にとっての生々しい記憶だったのです。当時は、「もう30年以上も昔の話だろ」と小学生心に思っていたのですが。

 僕もあれから40年が経ちました。原爆についても、「戦争で犠牲になるというのは、人が死ぬというのは、それぞれつらかったり悲惨だったり、あるいは惨酷だったり崇高だったりするものであり、あの戦争のなかで、原爆の犠牲者だけが特別視されるのはおかしいのではないか」と考えることもあるのです。あと、人の「運命」とかを考えるときに、「因果応報」とか「結局、自分がやったことが自分に返ってくる」という思想を耳にするたびに、いつも「じゃあ、1945年の8月6日に広島で被爆した人たちは、それまでの人生で、そんなに悪いことをした人ばかりなのか?」と言い返したくなります。『夜と霧』のなかで、ナチスの収容所から生還したヴィクトール・E・フランクルさんは、こう書いておられます。

 収容所暮らしが何年も続き、あちこちたらい回しにされたあげく1ダースもの収容所で過ごしてきた被収容者はおおむね、生存競争のなかで良心を失い、暴力も仲間から物を盗むことも平気になってしまっていた。そういう者だけが命をつなぐことができたのだ。何千もの幸運な偶然によって、あるいはお望みなら神の奇跡によってと言ってもいいが、とにかく生きて帰ったわたしたちは、みなそのことを知っている。わたしたちはためらわずに言うことができる。いい人は帰ってこなかった、と。


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 僕自身も記憶が薄れがちな「広島の原爆」について描かれた本、映画について、いくつか御紹介しておきます。
 近い将来、僕の子どもたちは、「記憶」ではなく「記録」あるいは「記憶の記録」でしか、「広島、長崎で1945年の8月に起こったこと」を知ることができなくなるし、もっと先の人類にとっては、中国の戦国時代に秦の武将が敵兵数万人を「穴埋め」にした、という記述にいまの僕が感じるのと同じくらいの「歴史上の出来事」になっていくのでしょう(映像や写真があれば、また違うのだろうか。あるいは、その時代には、もっと他の記憶伝達装置が生まれているのだろうか)。



(1)広島第二県女二年西組―原爆で死んだ級友たち
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この『広島第二県女二年西組』は、1985年2月に上梓されたものです。
 原爆が投下されてから、40年経った時期です。
 著者は当時、広島第二県女二年西組のひとりだったのですが、あの日、1945年8月6日に、二年西組は爆心から南へ1.1キロメートルの広島市雑魚場町の市役所裏に動員され、建物疎開作業をしていました。
 動員された39人の生徒のうち、38人が同年の8月6日から20日までに死亡し、一人生き残った坂本節子さんは、37歳の若さで、胃がんで亡くなられています。
 坂本さんはみんなと同じように作業をしていて、物陰にいたわけでもないのに、ひとりだけ比較的軽症だったのですが、そのことで、「なぜ自分だけ生き残ってしまったのか」と苦しんでいたそうです。
 引率の先生3人も全員死亡。ただし、先生といっても、最年長の教頭先生が37歳で、もっとも若い先生は20歳でした。
 そして、この日の動員に欠席して生き残った生徒が7人。
 著者はそのうちのひとりでした。


 生き残った者たちは、この日に原爆が落ちるなどということは全く知らず、体調が悪かったり、家庭の事情があったりで、偶然欠席していたのです。
 それでも、彼女たちも「級友たちがみんな死に、あの日に動員に加わらなかった自分が生き残ってしまったこと」に自責の念、あるいは後悔を抱き続けています。
 そんなの、生き残った人の責任じゃないのに、と僕は読んでいて思うのだけれど、当事者は、そんなふうには割り切れない。



(2)綾瀬はるか「戦争」を聞く
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 綾瀬はるかさんがライフワークとして続けておられる「戦争を聞く」シリーズの書籍化。

 被曝した女性は、戦後、結婚、出産など、ことあるごとに、言われのない差別を受けてきたのです。


綾瀬「戦後も、本当にいろんな語りきれないほど、嫌な思いとか本当にあったんですよね、きっと」


耐子「ものすごい差別があって」


「そういうことがあったから、私も息子たちにあまり原爆のことを……」


耐子「言いませんね。私も話さないし。子供に背負わせてしまうものが多すぎる。私の中にあるものだから、私と一緒に死んでくれる」


綾瀬「……」


 被爆者「をもっとも差別してきたのは、同胞のはずの日本人である、というのは、東日本大震災原発事故の際にも繰り返されたことでした(もちろん、周りはほとんどが日本人のなかで生活していた、という面があるとしても)。



(3)この世界の片隅に
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 「当時の人たちは、みんな内心では戦争を嫌っていた」とか、「戦争が早く終わってくれないかと願っていた」というけれど、『この世界の片隅に』を観ていると、「そういうふうに、物事を俯瞰していた人は実際にはほとんどいなかったのではないか」という気がしてきます。
 戦場に送られた人以外にとっては、今日の配給の内容に一喜一憂し、空襲警報で防空壕にすぐに入ることに注意し、家族が無事でいることを願いつつ日常をおくるのに精一杯で、「戦争」というのは、なんだか日常のなかでドラマを演じさせられているようなものだったのかもしれません。


 戦争にあまり興味がなかった人でも、そのなかで、自分が何か(家族であるとか健康であるとか財産であるとか)を失ってしまうと、どんどん「敵国」への憎しみがつのっていく。
 「自分はこんなに大きなものを失ったのだから、取り返すか、すべてがぶっ壊れてリセットされてしまうまで、もう、この戦いをやめるわけにはいかない」という思いにとらわれてしまうのです。
 僕には、「おおらか」というか「ちょっと鈍い、戦争にもあまり熱意がなさそうな」すずさんが終戦玉音放送を聴いたあとにとった行動が、意外でした。
 すずさんのような人が、ああいうふうにせずにはいられなくなってしまうのが「戦争」なんだよね



(4)はだしのゲン わたしの遺書
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はだしのゲン』の絵、子どもの頃は、ただひたすら怖かった記憶しかないのですが、いま大人になってみてみると「いかにもマンガ」という感じにみえます。
それについて、著者は、こんなふうに述べています。

はだしのゲン』は、被曝のシーンがリアルだとよく言われますが、本当は、もっともっとリアルにかきたかったのです。だけど、回を追うごとに読者から「気持ち悪い」という声が出だし、ぼくは本当は心外なんだけど、読者にそっぽを向かれては意味がないと思い、かなり表現をゆるめ、極力残酷さを薄めるようにしてかきました。
 原爆の悲惨さを見てくれて、本当に感じてくれたら、作者冥利につきると思います。だから描写をゆるめてかくことは本当はしたくなかったのです。
 こんな甘い表現が真に迫っているだろうか。原爆というものは本当はああいうものじゃない。ものすごいんだと。そういう気持ちが離れないのです。
はだしのゲン』の連載が始まると、漫画家仲間からも、「おまえの漫画は邪道だ。子どもにああいう残酷なものを見せるな。情操によくない」と叱責されたことがありました。
 けれど、ぼくは、「原爆をあびると、こういう姿になる」という本当のことを、子どもたちに見せなくては意味がないと思っていました。原爆の残酷さを目にすることで、「こんなことは決して許してはならない」と思ってほしいのです。

著者の中沢啓治さんは生前『はだしのゲン』のコマがネットなどで「ネタ」として使われることに寛容だったそうです。
「どんなきっかけでもいいから、作品に触れて、原爆について知り、考えることにつながってくれれば」と。



(5)誰も戦争を教えてくれなかった
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僕にとっての日清・日露戦争第一次世界大戦が、現実に起こったことというよりは、「歴史上の物語のひとつ」であるかのように感じられるのと同じように、いまの若者たちにとってはの太平洋戦争は「物語」になってしまっているのかな、とも思うのです。
それが良いとか悪いとか不謹慎とかそういうのではなくて、人類は、そうやっていろんなことを忘却しながら続いてきたのだろうな、と。


とはいえ、それは「世代」だけの問題なのか?という疑問も、著者は呈しているのです。

 この本の冒頭で、若者たちの間で戦争体験が風化していると書いた。しかし若者に限らず日本人は、実はそもそも戦争についてあまり興味のない可能性がある。
 2000年にNHKが実施した嫌らしい世論調査がある。16歳以上の男女にアジア・太平洋戦争において「最も長く戦った相手国」「同盟関係にあった国」「真珠湾攻撃を行った日」「終戦を迎えた日」がいつかを答えてもらったのだ。
 結果、1959年生まれ以降の「戦無派」では69%が「最も長く戦った国」を知らず、53%が「同盟関係にあった国」を知らず、78%が「真珠湾攻撃を行った日」を知らず、「終戦を迎えた日」を知らない人も16%いた。全問正解した人はわずか10%だった。
 ここまではまあいいだろう。「戦争を知らない若者(と中年)ということで理解可能だ。しかし1939年から1958年に生まれた「戦後派」、それ以前に生まれた「戦中・戦前派」でも決して正答率は高くなかった。たとえば「最も長く戦った相手国」を知らない「戦中・戦前派」は57%、「真珠湾攻撃の日」を知らない「戦後派」は65%。
 実は序章で「広島に原爆が落とされた日を知っている若者はたった25%」と書いたが、全年齢平均でも数値は27%。長崎原爆の日にいたっては、若年層のほうが正解率が高く、60代以上は19%しか正解していない。
 若者だけじゃなくて、僕たちはみんな戦争に興味がなかったのである。


 若者の「戦争体験談」離れ、みたいなものは、確かにあるのかもしれません。
 というか、僕だって自分が子どもだった40年前は、「原爆の日」に暑いなか(広島の夏は、当時から本当に暑かったのです)、学校にやってきて、聞いていて怖くてつらくなる話を聴くのは嫌でしたし。
 だからこそ、いま、大人になってみて、8月6日くらいは、この日、原爆で命を落とした、突然人生を打ち切られた人たちのことを、少しでも考えてみても良いのではないか、と思うのです。

 人は、時間とともに、いろんなことを忘れていくし、忘れたり、どうでもよくなったりしていくからこそ、生きていける面もある。
 その一方で、形を少しずつ変えながら、同じような過ちを繰り返し続けてもいる。

 しかし、76年前っていうと、僕が10歳だった頃に、日露戦争について語られるようなものなのか……
 若い人たちが「太平洋戦争というのは、歴史年表に書いてある出来事で、実感がわかない」のも、致し方ないかな……今は当時より、日常的に入ってくる情報量そのものが圧倒的に多いしなあ。
 

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