いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

『タクティクスオウガ リボーン』と「ゲームが心に残す爪痕」


タクティクスオウガ リボーン』が発売されました。
 このゲームがスーパーファミコンで発売されたのは1995年。もう27年も前になります。
 1995年というのは、阪神・淡路大震災オウム真理教による「地下鉄サリン事件」が起こった年でもありました。
 あれからもう27年か……とも思います。

fujipon.hatenablog.com


 正直、このゲームのリメイクが発表されたときには、「今さら『タクティクスオウガ』かよ、名作というのはわかるけれど、どうせだったら新作をやればいいのに」と感じていたのです。
 
 同じスクウェア・エニックスからは、2022年3月に『トライアングル・ストラテジー』というタクティクスRPG(個人的には『ファイアーエムブレム』みたいなゲーム、と呼んでいる)が発売され、僕は自宅療養中にひたすらプレイしていたのですが、これは『タクティクス・オウガ』を遊びやすくしたような感じのゲームでした。
「より多数の人の犠牲を避けるため」という理由であれば、目の前の人や地域を見捨てる、ことは許されるのか、あるいは、正義のためなら、世話になった人を裏切るのは「善」なのか、と問われ、僕は「ああ、『タクティクスオウガ』だ……」と当時ゲームをやりながら考えていたことと、あの頃の自分を思い出さずにはいられなかったのです。
 

www.jp.square-enix.com


 「原爆投下のおかげで戦争終結が早まって、(戦争全体としては)犠牲者が減ったはずだ。だから、原爆投下は『善』なのだ」という考え方に対して、「広島に住んでいた子ども」だった僕は、「だからといって、原爆のような無差別殺人が許されるわけないだろう!」と反駁していました。でも、向こう側からすれば、「多少、敵側の一般市民が犠牲になるとしても、自分の子どもや友達、友軍が死なずに還ってきてくれるほうがいい」というのは本音ですよね。そして、僕もまた、誰かに対して、そんな「向こう側」に何度も立ちながらこれまで生きてきたのです。

 けっこう面白かったけれど、たぶん、開発側が期待していたほどには売れなかったのではないかと思うんですけどね、『トライアングル・ストラテジー』。もし『タクティクス・オウガ』をやってみて「ゲームとしては好きだけど、めんどくさい」という人がいれば、こちらをおすすめしてみたい。

 
 今回、『タクティクス・オウガ』が『リボーン』として発売されるというのを知って、思い出したのが、この話だったのです。

fujipon.hatenablog.com


ユリイカ 詩と批評』(青土社)2009年4月号の「総特集・RPGの冒険」より。


(特集のなかの「鼎談・われらの道(RPG)はどこにある」の一部です。鼎談の参加者はブルボン小林さん、飯田和敏さん、米光一成さん)

米光一成物語とかを提示してみせるのではなく場としての世界を提出すること、つまり、今のゲームが何でもできるようなある種の「世界」を作るっていう方向に行っているのは、やっぱりゲームならではの語り口なのかもね。


ブルボン小林それで思い出したけど、知り合いのデザイナー……というか、『ユリイカ』の表紙を装丁している名久井さんだけど、彼女が『タクティクスオウガ』を最近また買って遊んでるらしいんだけど、あれってシナリオが「ロウ(law)」「カオス(chaos)」「ニュートラル(neutral)」って大きく三つに分岐していくんだって。名久井さんは以前に「カオス」で解いたことがあって、当時は他のシナリオは遊びきれなかったから、今回はどっぷりと「ロウ」か「ニュートラル」を選んで遊ぼうと思ったんだって。でもその分岐する場面の会話で「そのようなことは到底、肯んぜられない!!」っていう感じになっちゃって(笑)、結局また「カオス」の道を選んじゃったらしい(一同爆笑)。メモリーの中にある別のシナリオが見たくてやり直したはずなのに(笑)。「カオス」がいちばん熱血漢で「ロウ」は従順でその場に流される人の物語なんだって。その分岐点は仲間の裏切りみたいな場面でそれを見てみぬふりをしろ的な、なんかすごい提案をされるらしい。「あの村人たちをみんな焼き殺してそれを他人がやったことにして儲けはわれわれでもらおうぜ」くらいの。名久井さんは「はい」を選べなかった。二度目で今度は従順な「ロウ」の人のプレイをしようとしたのに、「そんな提案はのめん!」って(笑)。ゲームが多様なのに人間の気持ちが同じになるって、それがすごくおかしくてさ。


米光:それはある意味でそのキャラが他人じゃなくなってるってことだよね。でもその感情移入具合はいいな(笑)。


ブルボン:だよね。このエピソードひとつだけで『タクティクスオウガ』というゲームがすばらしいものなんだろうということがわかる。
 でも、そうして結局見ないままになってしまった『タクティクスオウガ』のソフトのなかのメモリーだって物語なわけだし、昔はやっぱりそういう風なメモリーの全部をみたかったはずなんだよね。だってスーパーファミコンのソフトって8900円とかしたんだもん。でも難しかったりして、『かまいたちの夜』とかでも「ピンクのしおり」とかを全部見るのは困難だった。でも今は難しかったゲームが攻略法がいっぱいネットに出てるじゃないですか。それで『かまいたちの夜』を全部解けるようになったわけだけど、でもそれでいざ見たらたいした筋書きでもないのよ。すでに遊んだ本筋のミステリーのところがやっぱりいちばんノリノリでさ。「メモリーを全部見られるようになったけど、それは別に楽しくなかったよ」って思ったな。だからゲーム内の選択肢として「はい/いいえ」を選ばさせられて、で結局「はい」を選ぶなんていうのはさ、なんかやらされてる感みたいなものも感じたりするんだけど、でも「いいえ」のあとに無数に世界は用意されてあってもさ、やっぱり「はい」を人間の側で選ぶかもしれない。


米光:『ゲーム化会議』でやっていていつも困るのが、「我慢する」って感じとか「仲間が死んだつらさ」みたいなものをゲームシステム的には表現できないってことなんだよ。「この人は恋愛狂で恋愛なしではいてもたってもいられない」っていうのはどうシステムで表現していいのかはわからない。プレイヤーがそう動いてくれないと困るんだけど、そうは動かない可能性ももちろんあるわけで。選択肢はあるけど、もはや「はい」を選ばない人間はいないだろうってところまで感情をわしづかみにできればいいんだけど。でもそれはシステムだけではやっぱりなかなか表現できなくて。


ブルボン:ある意味、やっぱり人間の側がさっきのデザイナーみたいな人であればいいわけだね(笑)。ゲームである以上、やっぱりある程度は人間にゆだねられるわけだし。


米光:結局はもっと冷めた人だと、「こっちをみたいから」っていうことで意に沿わない選択だってするわけだものね。


ブルボン:でも、『ドラクエ5』とかでも、たいていの人はビアンカと結婚したって聞くよ。ストーリー上の必然としてフローラは選べないよ、ということらしい。みんな人情があってさ(笑)、よっぽどの天邪鬼じゃないかぎりビアンカを選ぶらしいんですよね。


米光:それは実際にその本人に人情があるかとは別かもしれないけどね。人情がある世界という規範のなかで役を演じているのかも。


飯田和敏たしかに『ドラクエ5』ではビアンカと結婚する人も、私生活でどうかはわからない。物語だからこそ、ってところは勿論あるだろうし。


ブルボン:まあ単純化されてるわけだしね。いずれにせよ、中世とかファンタジーを舞台にしたものに限らず、RPGってとにかく、ゲーム内の他のジャンルと比べてもなんとなく血気盛んなほうに感情移入しやすい媒体なのかもしれないね。たしかに『スーパーマリオ』をやって「おのれクッパ!!」みたいな感じにはならないもんね。


 この対談の時点で、『タクティクス・オウガ』発売から14年が経っていて、この対談からさらに13年経っています。
 これを読んだとき、僕は名久井さんにものすごく共感したのです。
 みんなそんなに「爆笑」するなんて失礼な!
 『タクティクス・オウガ』は、僕も大好きなゲームなのですけど、僕も「カオス」でなんとかクリアしたあと、他のルートが気になりながらもあの大作を「選択」の場面からやり直す時間も気力もないまま、かなりの歳月が経ってしまいました。
 でも、もう一度やったとしても、たぶん僕も「カオス」を選んじゃうんじゃないかと思います。「他のルートを見てみるためにやってみた」としても、あの場面で「ロウ」に行くことができるだろうか?


 PSPでリメイクされた際の『タクティクス・オウガ』は、途中からやり直して別ルートに行きやすい仕様になっているのですが、そこで「ゲームとして全ルートを見ておきたい」か、「自分の最初の選択以外のルートは、なんだか作業感が強くてモチベーションが上がらない」か。
 僕も大昔のゲームの選択肢そのものが少ない時代には、「オマケ要素もクリア後のおまけも全クリア」を目指していたこともあったのですが、最近は、そこまでやり込むくらいなら、次のゲームで遊びたい、と思ってしまいます。人生で遊べるゲームが、あといくつあるだろう、とか、つい考えてしまいますし。
 『トライアングル・ストラテジー』も、僕が選んだルートは「なんか引っかかるグッドエンド」みたいなやつで、真エンドもあるみたいなのですが、そこまで行くのはあまりにも大変そうだし、「結局、最初に選んだルートが『自分の選択肢』であり、このスッキリしないエンディングのほうが味わい深いのではないか」と自分に言い聞かせて、真エンドを目指すのはやめてしまいました。
 
 それも手間と満足度の兼ね合いがあって、『シュタインズ・ゲート』は「これは真エンドを見ないと終われん!」という感じだったんですけどね(もちろん攻略サイトのお世話にはなりました)。


www.famitsu.com


 ネットで太田光さんのインタビューも、なんだかすごく「同世代感」がありました。
 「ゲームが心に残す爪痕」みたいな点において、『タクティクス・オウガ』は画期的な作品だったのです。


 2時間で観終わる映画や小説では「アンハッピーエンド」でも、それはそれで「ひとつの経験」になるとしても、クリアするまでに何十時間もかかるテレビゲームで、ようやくエンディングに辿り着いたけどモヤモヤしまくる結末、というのは、やっぱり「金返せ!」みたいな気分になることもあるのです。

 昔のマイコンゲーム『アスピック』のエンディングとか、いまだにトラウマレベルですし。
(って、たぶん『アスピック』のことを知らない人のほうが大多数だと思いますので、いちおうその内容に関するリンクを紹介しておきます。これからこのゲームをやろうとする人はあまりいないでしょうけど、こうして「結果だけ読む」のと「何十時間も苦労してようやく迎えたエンディングでこんなことになる」のは、体感として全く異なるんですよね。テレビ放映時から『エヴァンゲリオン』を観てきた人が『シン・エヴァンゲリオン』を観終えたときの感慨と、テレビシリーズを知らずに、『シン・エヴァ』の公開を機にAmazonプライムビデオで「一気見」した人の感想が(たぶん)異なるように。


www.retro-game.net
fujipon.hatenadiary.com


 というわけで、僕も本当に久しぶりに『タクティクス・オウガ』をSwitchでやるつもりなのです。
 あの場面で、四半世紀の経験を踏まえて、自分がどんな選択をするのか、ちょっと楽しみでもあります。
 あの頃は「人生をあの場面からやり直せたらいいのに」と思うセーブ(すべき)ポイントをたくさん思いついたのだけれど、50年生きてみると、「結局、自分にはこの生き方しかできなかったのかな……」と受け入れてきてもいるんですよね。

 『タクティクスオウガ リボーン』やりたいけど、『スプラトゥーン3』は下手だし(『ドラゴンクエスト10オフライン』をずっとやっていて、子どもたちに遅れをとりまくり)、今週末は『ポケモン』の新作も出るんだよなあ……思い出は思い出のままにしておくほうが良いのだろうか……


jp.ign.com
fujipon.hatenadiary.com

アクセスカウンター