いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

「老い」と「害」


老害」か……


僕自身も、自分が10代、20代の頃までは、「あの偉い人たちは、現場のことがわかってないなあ、昔の自分はキツイなか頑張ってきたって話ばかりしているけど、訴訟リスクも少なくて、覚えなきゃいけない医学知識も少ない時代だったはずなのに。接待とかもバンバンされてたんだろうし」なんて、心のなかで悪態をついていたものです。

まあでも、こうしてまもなく50代を迎えようとしていると、大河ドラマ明智光秀パワハラをしてしまう信長の気持ちもわかる。ああいうのって、「男の更年期」なのかもしれないよね。年を重ねると分別がついて、人間が丸くなるなんて大噓だ。

しかも、人間、年取って地位が上がってくると、周りは何も言わない(言えない)ことが多くなるのです。

理不尽な怒りをあらわにしたり、問題発言をしたりしても責められないのは、正論だからじゃなくて、その人が偉くて何も言えないか、言ってもムダだと匙を投げられているか、なんですよね。

正直、40代終盤の僕でさえ、僕が子どもの頃の家族観と昨今の世の中の風潮の違いには、いまだに戸惑っているところがあるのです。
人は、自分が経験してきたことを、そう簡単には捨てられない。

自分ではそれなりに勉強して、世の中に合わせてアップデートしているつもりでも、世界の進歩のスピードには、ついていけない。

森喜朗さんは、あの立場での発言なので全世界から大批判を浴びていますが、正直、いまの80代くらいの男性の感覚、まさに僕の亡くなった父親の世代って、ああいうものだと思うのです。

もちろん、それは今の時代には「正しくない」のだけれど、森さん自身の責任よりも、森さんにやってもらうことを決めた人々の判断力に問題があったような気もします。
80代の人に、しかも、一度は首相にまでなった人に、世界観を変えてくれ、というのはなかなか難しいのではなかろうか。

「時代遅れ」であろうが、「老害」であろうが、近所の同世代の友人と公園で「最近の若いものは……」なんて愚痴っている程度なら、「あんまりイライラすると、血圧上がりますよ」とか言って放っておけばよいのだろうけれど。


fujipon.hatenadiary.com


この本は、2019年8月に、47歳の若さで亡くなられた瀧本哲史さんが、2012年に東京大学で行った講義を書籍化したものです。
このときの瀧本さんは40歳で、今の僕よりもずっと若かったのに、「次の世代」のことをこんなに考えていたのか、と驚かされます。

 みなさん、パラダイムシフトって言葉、聞いたことありますよね?
 パラダイムチェンジとも言うかもしれませんが、要は、それまでの常識が大きく覆って、まったく新しい常識に切り替わることです。
 最近では、スマホが登場してガラケーに取って代わったことなんかは、典型的なパラダイムシフトでしょう。
 一般的な用語として広まっていますが、でもこれ、もともとは科学ジャンルの言葉で、トーマス・クーンという科学史の学者が『科学革命の構造』という著書の中で使い始めたものなんですね。
 たとえば、超有名な天動説から地動説への大転換があるじゃないですか。ガリレオ・ガリレイとかの。
 あれって、どうやって起きたと思います?
 どういうふうに、みんなの考え方がガラリと変わったんだと思います?
 じゃあ、そこの方。はい。


生徒1「学会とかで議論して、認められた?」


 なるほどなるほど、非常に良い答えですね。ありがとうございます。
 他にいますか? はい、あなた。


生徒2「古い学者がみんな死んじゃって……」


 そう、そう。そうなんですよ。
 クーンはですね、地動説の他に、ニュートン力学ダーウィンの進化論など、科学の歴史上で起きたいろんな科学革命を調査・研究した結果、たいへん身も蓋もない結論に達してしまったんですね。
 ふつうに考えれば、天動説を超えるような人に対して、地動説の人が「こうこう、こういう理由で天動説は観察データから見るとおかしいから、地動説ですね」って言ったら、天動説の人が「なるほどー、言われてみるとたしかにそうだ。俺が間違ってた。ごめんなさい!」っていうふうに考えを改めて地動説になったかと思うじゃないですか。
 でも、クーンが調べてみたら、ぜんぜん違ったんですよ。
 天動説から地動説に変わった理由というのは、説得でも論破でもなくて、じつは「世代交代」でしかなかったんです。
 つまり、パラダイムシフトは世代交代だということなんです。


 つまり、「天動説の権威たちが亡くなったり、引退したりしてはじめて、地動説が優位に立った」ということなんですね。
 こういう話を聞くと、僕などは、「それじゃあ、既成の権力の前では、どんなに正しいことを言ってもやっても無駄なんじゃない?」って思うんですよ。
 でも、瀧本さんは、若者たちに、この身も蓋もない話をしたあと、こんなふうに述べているのです。

 でもこれ、逆に考えると、めちゃくちゃ希望だと思いませんか?
「世の中を変えたい」と考える人はいつの時代も多いですけど、なかなか世の中って思うようには変わらないですよね。選挙に行って一票を投じても変わった実感はぜんぜん得られないし、努力して上の世代の考え方を変えようとしても、徒労に終わるばかりです。
 で、そこで「やっぱり世の中は変わらない」って諦めちゃう若い人も多いんですが、みなさんが新しくて正しい考え方と選べば、最初は少数派ですが、何十年も経って世代が交代さえすれば、必ずパラダイムシフトは起こせるってことなんですね。
 つまり、世の中が変わるかどうかっていうのは、若者であるみなさんとみなさんに続く世代が、これからどういう選択をするか、どういう「学派」をつくっていくか、で決まるんですよ。
 たしかに時間はかかりますけど、下の世代が正しい選択をしていけば、いつか必ず世の中は変わるんです。
 だから僕は、おじさん、おばさんたちではなく、わざわざ次世代に向けて、メッセージを送っているわけです。


 つまり、「天動説の権威たちが亡くなったり、引退したりしてはじめて、地動説が優位に立った」ということなんですね。
 こういう話を聞くと、僕などは、「それじゃあ、既成の権力の前では、どんなに正しいことを言ってもやっても無駄なんじゃない?」って思うんですよ。
 でも、瀧本さんは、若者たちに、この身も蓋もない話をしたあと、こんなふうに述べているのです。

 でもこれ、逆に考えると、めちゃくちゃ希望だと思いませんか?
「世の中を変えたい」と考える人はいつの時代も多いですけど、なかなか世の中って思うようには変わらないですよね。選挙に行って一票を投じても変わった実感はぜんぜん得られないし、努力して上の世代の考え方を変えようとしても、徒労に終わるばかりです。
 で、そこで「やっぱり世の中は変わらない」って諦めちゃう若い人も多いんですが、みなさんが新しくて正しい考え方と選べば、最初は少数派ですが、何十年も経って世代が交代さえすれば、必ずパラダイムシフトは起こせるってことなんですね。
 つまり、世の中が変わるかどうかっていうのは、若者であるみなさんとみなさんに続く世代が、これからどういう選択をするか、どういう「学派」をつくっていくか、で決まるんですよ。
 たしかに時間はかかりますけど、下の世代が正しい選択をしていけば、いつか必ず世の中は変わるんです。
 だから僕は、おじさん、おばさんたちではなく、わざわざ次世代に向けて、メッセージを送っているわけです。

 ただ、瀧本さんは、この講義のなかで、「これが正しいことだ」という話をされているわけではないのです。
 むしろ、他者が「正しいこと」として押し付けてくることに対して、疑問を持ち、流されない姿勢を持ち続けてほしい、そして、自分の意見を聞いてもらうための交渉術を身に着けろ、と繰り返しているのです。

 いま、ネットで「正論」で森喜朗さんを批判している人たちの言葉や立場も、30年、50年後の人間(人類が生き延びていれば、ね)にとっては、「時代遅れの妄言」になってしまっているかもしれません。


 外来や病棟で、日々、どこまでが性格で、どこからが認知能力の低下によるものなのかわからない高齢者に大勢接していると、こういう人たちを『逃げ恥』の感覚で問い詰めていっても、お互いにつらいだけじゃないか、とも思うんですよ。
 そもそも、「老害」になるかどうか、というのは、その人が「発言力・影響力がある偉い人かどうか」が大きくて、そこらへんにいる高齢者なら、「まあ、年も年だからね……」で終わってしまう。


 本人は、ずっと自分が時代についていっているつもりだし、ちゃんと勉強もしているつもり、なんだけれど、現実と時代の流れは厳しい。
 僕はマイコンやテレビゲームを小学校高学年のときに体験して衝撃を受け、ずっとその進化とともに生きてきたつもりだったのですが、パソコンのシミュレーションゲーム(『Hearts of Iron IV』という作品)で画面に表示される膨大な情報を猛スピードで処理していく小6の長男をみて、「これはもう、いまの子供たちとはCPUが違うのだ」と痛感しました。
 僕の処理能力がファミコンなら、向こうはPS5とかなんだよね……ついてこい、と言われても無理だから、僕は僕が好きなゲームで遊ぶ。


 世の中がインターネット社会になっていちばん変わったことは、いろんなつながりが、媒介者なしで可能になったことではないかと思います。
 たとえば、これまで「書いたものを読んでもらう」ためには、公募の文学賞で認められるとか、『ハガキ職人』として、編集者に採用してもらうとか、お金をかけて自費出版をして、ほとんどの人が見向きもしない書店の棚に少部数なんとか並べてもらうくらいしかなかった(路上で詩を売る、とかもありますね)。アーティストも、なんらかの「権威」のお墨付きがないと、認めてもらって、仕事にしていくのは難しかった。
 ところが、ネットでは、誰でも直接自分の作品をアップロードして、消費者、あるいは観客にアピールすることができるわけです。
 もちろん、その大部分は砂漠の砂粒みたいにスルーされてしまうのですが。


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 この本のなかで、川上量生さんは、こう仰っています。

 旧世界の代名詞としての”リアル”と新世界の代名詞としての”ネット”。リアルとネットという言い回しには、ネットはリアル=現実世界とは通用する常識が異なる別世界であるというニュアンスがあると冒頭で書きました。
 なぜ、ネットがリアルと異なる別世界にならなければならなかったのか。それはインターネットでビジネスをしようとする人が、インターネットはリアルの世界が進化した新しい世界だというような説明をしたほうが、都合がよかったからでしょう。
 インターネットは資本市場と結びつくことで、バーチャルなビジネスプランから現実のお金を集める装置として機能するということは説明してきました。
 その際に、リアルの世界と鏡像関係にあるような未来のネット社会、という単純なモデルは他人に説明するビジネスプランをつくるときに、とても使いやすいのです。
 新聞、雑誌などのオールドメディアに対するネットメディアという図式。広告代理店に対するネット広告代理店。証券会社に対するネット証券。銀行に対するネット銀行。ネット生保にネット電話にネットスーパーと、なんでもネットをつければ新しいビジネスモデルができるのです。
 現実に存在しているビジネスのネット版という分かったような分からないような単純なアナロジーで、ビジネスモデルが簡単につくれる。そしてバーチャルなビジネスモデルができればリアルなお金が集ってしまう。
 ベンチャービジネスの中でも特にITベンチャーにお金が集中してITバブルが起こった背景には、ネットとつければとにかく簡単にネタになる新しいビジネスモデルがつくれてしまう、そういう構造があったのです。
 なんでもネットをつければビジネスプランができてしまう現実は、どういう根拠によって支えられていたのかというと、それはインターネットにまつわるビジネスというものは、ほとんどすべて本質的には安売り商法だからです。
 インターネットを利用することにより、あらゆるサービスや商品を安く、あるいは無料で提供する。そして安かったり無料だったりするからお客が集る、というあまりにも単純であるが故にあまりにも万能なモデルです。


 ネットの影響で、中間マージンで商売をする卸売業は、どんどん苦境に陥っています。
 そして、人間と人間のつながりにおいても、「顔が広い人」「人脈がある人」が仲介者、紹介者として介在する余地は、どんどん無くなってきているのです。
 とはいえ、2021年の日本では、地域のお願いなどは、地元出身の議員に「陳情」したほうが早いし効果的、ではあるのでしょうけど。

 高齢化社会でどんどん高齢者の割合は増えてきていて、それを支える若者たちの負担は大きくなっている。
 「先人の知恵」を尋ねるよりも、Googleで検索したほうが、めんどくさくない。
 「人生経験や人脈」で、重宝される高齢者はほとんどいない。

 ある意味、森喜朗さんは、現代では稀有な「人脈」とかで重宝されている高齢者であり、うまく機能すれば「老害」どころか「老宝」になりえたのかもしれません。いまさらそんなことを言っても、後の祭りではありますが。
 
 正直、いまの森さんの仕事って、「どうやって東京オリンピックの再延期、あるいは中止を軟着陸させるか」ってことですよね。
 その観点でいえば、「あの老害のせいで、オリンピックやれなくなったじゃないか!」と自身が責任と汚名を一身にかぶって退場して、他の人を助けよう、という深慮遠謀なのではないか、とさえ思えてきます。森さんは、ビュコック提督だったのか!(ビュコック提督に謝れ!って声が聞こえてくる……)

 オリンピックをやらないのだとしたら、オリンピックに期待し、投資してきた人たち(アスリートや関係者)にも、それなりの補償や配慮をするべきだと僕は思います。
 情勢をみると、「オリンピック中止やむなし」だけれど、もともとオリンピックに反対していた人たちが、水を得た魚のように「オリンピックなんかやめちまえ!」と叫んでいるのをみると、「人は、自分が嫌いなものが苦境に陥っているときは、『正義』を錦の御旗にして『不寛容』になり、他者への想像力を失ってしまうものだな」と感じるんですよ。

 新型コロナで困っているサービス業やイベント関連業者への補償が必要だとあれだけ叫んでいるのだから、同じくコロナで収入が減るであろう、オリンピックで恩恵を期待し、準備してきたはずの人たちにも、もう少し想像力があってしかるべきではないのか。

 人間、自分が嫌いなものが、みんなに叩かれていると、つい、尻馬に乗って「ざまーみろ!」ってやっちゃうんですよ。僕もそうです。嫌いなチームの選手や芸能人、ブロガーが不祥事を起こして叩かれていると、袋叩きの輪に加わってしまう。でも、森さんは立場上批判されるのは当然だとしても、一生懸命オリンピックをやろうとしてきた人たちに罪はない。僕がオリンピックに出られるアスリートだったら、やっぱり、「なんとかやりたい、やってほしい」と思うのではなかろうか。人生の目標はオリンピックだけではない、って、他人事だったら言えるけれど。

 そもそも、「老害」っていう言葉は「老い」=「害」だと受け取られがちで、僕は嫌いです。
 年齢がいくつであろうが、問題のある人はいるし、森さんなんて、「老害」どころか、何十年も前から問題発言ばかりだったじゃないですか。
 それでも、森さんは多くの人に「支持」されてきたし、面倒見のよさとか親しみやすさとかで、身近な人にとっては「価値ある人」だとみなされてきたわけです。
 だからといって、諸外国に、あんな発言が話題になっているときに「でも、森さんは本当はいい人なんです!」なんて言っても通用するわけもないし、「いい人」だから女性蔑視発言をしても許されるわけでもないんですけどね。


 僕も『はてなブログ』では、すっかり「老害枠」に入ってしまったので、そろそろ引退を考えています。
 たまに『はてな匿名ダイアリー』とかに書いて、「あっ!」とか言われたら……と想像するとワクワクするけれど、それが許されるのはコンビニ店長ただ一人だけなんだよなあ。
 そして、ほとんどの人が、「そろそろ潮時かな……」と思いつつも、もう少しくらい、あと1年くらいはやれそう……を繰り返して、どんどん「老害」になっていくんですよね……
 ある意味、「老害っぷりを見せるのも、年長者の役割」なのだろうか。


fujipon.hatenablog.com
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老人の取扱説明書 (SB新書)

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