東京オリンピック、予定では2021年7月23日に開会となっています。
あと2ヵ月あまりに迫っているのだけれど、新型コロナウイルスの感染拡大はまだまだ予断を許さない状況です。というか、こちらが慣れてしまっただけで、人数だけでいえば、連日、去年の同じ時期の10倍くらいの感染者が出ているのです。
ワクチン接種がはじまってはいますが、まだ医療関係者と高齢者を優先的に接種している段階で、ある程度日本中に行き渡るには時間がかかりそう。
正直、「今年やるんだったら、去年やったほうがまだマシだったのではないか」と思うくらいなのですが(初動が大事、なんだけどね)、オリンピックの開催への賛否の意見をみるたびに、結局のところ、人の「意見」とか「賛否」って、ポジショントークであることを避けられないんだよな、とも痛感しています。
冒頭のエントリに対しては、かなり厳しいブックマークコメントが並んでいますし、それは致し方ないとは思う。
現状、緊急事態宣言も出て、国民の生活に制限が加えられているにもかかわらず、あえて感染のリスクを高めるような国際的大イベントを開催する、というのは「正気か?」と疑ってしまうレベルです。
医療従事者である、という僕の立場からすれば、なおさらそう思います。
ただ、今のオリンピック開催についての議論は、賛成派と反対派が、かみ合っていないな、とも感じるんですよ。
だいたいこの「絆」って言葉が出てくると、ヤバいな、と僕の妖怪レーダーが反応するのです。
えっ、「大切な人だからこそ(コロナ感染を予防するために)キープディスタンス」って言ってませんでした?
いや、丸川さんだって、つらいと思うんですよ。「人の命と健康が最優先」「絆もまずはお互いの生命の安全が大前提」という立場であれば、オリンピックをやるとは言えないだろうし。「ここまで準備してきたコストや中止した場合に、見込んでいた経済的効果が消滅することを考えると、いまさらやめられない」という「本音」は出せないし。
反対派は「命をより多く守るためには、現状でのオリンピック開催はリスクが高すぎる」と主張しているわけです。そんなことは日本政府だって十分承知しているはず。
本当に「国民の安全と安心を第一に考えていく」のに、2カ月後にオリンピックをやろうというのなら、正気か?としか言いようがありません。
僕は東日本大震災のときに、「電気よりも命」と発言した人が、「電気がなくては、人の命を守れない」と、大バッシングを受けたことを思い出しました。
「絆」VS「命」みたいな話になる(せざるをえない)から、政府がやっていることは茶番にしか思えないけれど、実際のところは、いまオリンピックを開催するかどうかというのは「国の経済」と「国民の健康」の綱引きなのです。
池江璃花子の件って、アスリートが言ってきた「スポーツを通じて勇気/希望/感動を与える」ってクリシェの欺瞞性を白日の下に晒したように思う。近年、災害等の苦難にあった人々の力となることがスポーツの存在意義になっていたけど、今回はスポーツが苦難を広げる要因になるかもしれない事態になった。
— てつさん (@noball0917) 2021年5月9日
この一連のツイートが話題になって、ブックマークコメントには、けっこう辛辣な言葉が並んでいます。
僕は、難病がとりあえず寛解して、ハードな練習の末にオリンピックの出場権を獲得した20歳そこそこのひとりのアスリートに、どこまで重い荷物を背負わせるんだよ……と暗澹とせずにはいられませんでした。
電通と契約しているだけで、「電通の手先」とか言われるけど、僕が同じ立場だったら、そりゃどこかの事務所とか広告代理店と契約するよ。
ネットで「労働やコンテンツには正当な対価を!」と叫んでいる人は大勢いるのに、相手が有名アスリートだと「嫌儲」全開になるのはなぜなんだ。
僕の個人的な感情(感傷)としては、池江さんをオリンピックに出してあげたいなあ、なんですよ。でも、それを理由に「じゃあ池江さんのためにオリンピックをやろう」とまでは考えられない。オリンピックをやめたら、当然、池江さんが出場することもできない。
個々の選手に対しては「せっかくここまで頑張ってきたのだから、オリンピックに出してあげたい」という「情」はある。
僕自身は、もう1年延期できないものか、と思っているのだけれど、それでも、アスリートの調子のピークというのはずっと続くものではないでしょうし。
ワクチンがうまく効果を発揮してくれれば、2年後くらいにはやれる、のではないかなあ……
もう次のオリンピックですね。
というか、一度こういう経験を多くの人類がしてしまった以上、「さまざまな国の人が一か所に大勢集まるビッグイベント」というのが、以前のように開催されるようになるのだろうか?
居酒屋の店主が「酒を売りたい」と思うのも、卒業旅行に行きたかったと学生たちが嘆くのも、「ポジショントーク」なわけですよ。
医療従事者が「これ以上負担を増やさないでほしい」とアピールするのも、ポジショントークです。
「ポジショントーク」って、悪い意味で受け取られることが多いけれど、人にはみんなそれぞれ自分が置かれた「立場」があって、そこから全く縛られずに「中立」にはなれない。いや、なれる人もいるのかもしれないけれど、僕には無理です。
自分の立場からアピールしないと、他者の都合を押しつけられて、潰れてしまうかもしれない。
冒頭の文章を書いた人が「スポーツライター」だということで、「自分の仕事がなくなるからこんなことを言うんだろう」と批判する人もいるのだけれど、「スポーツライターという立場からは、現状がこう見えている」というのを伝えるのは、とても大事なことだと思うのです。
スポーツライターは、オリンピックが中止になっても、助成金とか協力金が出るわけじゃないだろうし、まさに死活問題なのかもしれません。
オリンピックに出る予定だったアスリートたちにしても、もしオリンピックが中止になったら、人生の大きな目標を失ってしまうことになります。
せめて、給付金くらいは出すのがスジでしょう。
だいたい、この世界情勢で、「オリンピックを開催しなければ違約金を求める」なんて、国際オリンピック委員会が本当に言っているのであれば、その理不尽さを世界に訴え、違約金とか踏み倒しても良いのではないかとさえ思います。
暴論かもしれませんが、オリンピックの開催への賛否を考えるには「絆」対「命」という、同じ天秤に載せられないものをお互いの陣営がアピールするのではなく、「オリンピックにはどのくらいの経済効果と新型コロナ感染拡大のリスクがあって、要するに、やるのとやらないのとでは、どちらのほうが『人が死ぬ』のか?」を比較するべきではなかろうか。
もし、開催しなければ感染者は増えないが、経済的困窮で命を落とす人が大勢出て、結果的に犠牲者が多くなる、ということであれば、「感染拡大を覚悟して決行する」というのもひとつの考えでしょう。
ポジショントークといえば、僕は生まれてからずっと「運動音痴」なんですよ。
昔、『ちびまる子ちゃん』で、マラソン嫌いのまる子が、マラソン大会の前日に「今年のマラソン大会が終わっても、1年後にはまたマラソン大会がある……」と落ち込んでいるのをみて、「僕もこんなふうに思っていたなあ」と共感しまくったものです。
学校の運動会・体育祭も、前日の天気予報で少しでも雨予報であれば、「なんとか中止になってくれないかな……」と祈っていました。延期になるのもそれはそれでイヤなんですけどね。
強行しそうなくらいの小雨でも、「これは中止だ、絶対に中止にしてくれ……」と期待したものです。
オリンピック中止を強くアピールしている人の中には、もともとスポーツが嫌いでオリンピック招致に反対だった、とか、日本政府や菅政権が大嫌いだった人もいます。
「新型コロナ」「人の命」という誰も言い返せないような「大義」を手にして、「オリンピックの開催の是非について、まともに議論しようとせずに、日頃の鬱憤を晴らしている」ように感じる人もいます。
そうやって「人の命がいちばん」「感染対策が不十分」と言っている人たちは、自身の日常で、1年前の5月のような「不要不急の外出は避け、人との接触はせずになるべく家にいる」という「感染予防対策」をきちんと続けているのだろうか?
そう感じるのも、僕自身に「スポーツはそんなに好きじゃないし、オリンピックなんてやらなくてもいいや。これ以上医療現場の負担が増えてはたまらないし」という「自分のポジション」があるのを自覚せずにはいられないからなんですよ。
選手やスポーツライターが「(リスクがあっても)オリンピックをやりたい」のは当たり前だし、それを責めるのは筋違いです。そういうポジションの人がいることを受け入れた上で、なるべくバランスがとれた着地点を目指すしかない。
みんなもう、新型コロナに「慣れて」いる。あるいは「倦んで」いる。
オリンピックは感染のリスクを確実に高めると思います。でも、ひとりひとりの感染予防への自覚が薄れているのに、自分にとって都合のいいときだけ「コロナ禍」を持ち出すのでは、感染はなかなか収束しないでしょう。
いや、僕だって、おかげで薬のメーカーの人のめんどくさい訪問や多すぎる会議、職場の付き合いの飲み会が減っていることが、けっこう心地よくもあるんです。コロナが収まってほしいのはやまやまだけれど、正直、「コロナ以前」の生活に戻りたくないな、とも思っています。
僕自身は、開催するのであれば、あと1年は延期すべき、だと思いますし、中止するのであれば、それで仕事やチャンスを失った人たちには、税金からきちんと補償することが必要、というスタンスです。
今回のオリンピック開催についてのやりとりをみていると、『銀河英雄伝説』のヤン・ウェンリーの言葉を思い出さずにはいられないのです。
私は少しだけ歴史を学んだ。
それで知ったのだが、人類の社会には
思想の潮流の二つあるんだ。生命以上の価値がある、という説と
生命に勝るものはない、という説とだ。人は戦いを始めるとき前者を口実にし、
戦いをやめるとき後者を理由にする。それを何百年、何千年と続けてきた……
まあ、ヤン提督なら、あっさりオリンピックは中止にしてしまいそうですけどね。
自分の年齢を考えると、自国開催のオリンピックというのも、これで人生最後かな、なんて思うこともあるのです。スポーツに思い入れがない僕でさえ。
でも、こういう「世界からたくさんの人が集まるオリンピック」という形式そのものが、もう時代に合わなくなっているのかもしれません。
コロナ禍の前までは、LCC(ローコストキャリア:格安航空会社)の普及で、世界は狭くなったと思っていたのだけどなあ。
アフターコロナにやってくるのは「三密回避」への「反動」なのか、それとも「順応」なのだろうか……