いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

創作物の「適正な対価」の話


www.msn.com


『ブルシット・ジョブ』を読んだばかりだったので、この訃報には驚くのと同時に、すごく残念な気持ちになりました。
『ブルシット・ジョブ』は、邦訳が出たのが最近なだけで、英語版は2018年の5月に出ているのですが。


 仕事の内容と報酬の乖離、というのは、僕にとっても、長年のわだかまりが詰まったテーマではあるのです。
 研修医時代には「なんでこんなに働き詰めなのに、この安月給なの?」と思っていましたし、最近は「このくらいの仕事で、こんなにもらっても良いのだろうか?」なんて考えることが増えています。だから多い分は返却するとか寄付する、というわけでもないんですけどね。


blog.tinect.jp


 最近、『はてなブログ』のトップページで紹介されていた、この記事を読みました。
www.from-estonia-with-love.net

 まあ、内容に関しては「これを『ニューズウィーク日本版ウェブサイト』に載せるのは難しいだろうし、著者もそれはわかっていて書いたのだろうな」と思いました。編集者っていうのも大変だよなあ、とも。

 僕にとっていちばんインパクトがあったのが、この『ニューズウィーク日本版ウェブサイト』からの依頼の「金銭的な条件」だったんですよ。

お願いしたい投稿の頻度は1ヵ月に2本以上。報酬は月に1万円となります。


 えっ、そんなに安いの? 天下の『ニューズウィーク』なのに?
 下世話な話なんですが、仮に5万円、せめて3万円くらいだったら、別の原稿が送られてきたのではないか……とか、ちょっと考えてしまいました(このブログの人は、そういう「金額で転ぶ」タイプではない気はしますが)。

 こちら側からすれば、有名なメディアなのだから、もうちょっと原稿料を出すべきではないか、と思うのですが、メディア側には「うちに書かせてやるんだから、報酬が安くでもいいだろ」という意識もあるのかもしれません。
 
 僕自身も、たまにWEBメディアに「寄稿」という形式で書かせていただくことがあります。
 僕は「これは安すぎるだろ……」という条件提示を受けたことは一度もないのですが(というか、実力以上に頂けることが多い気がするので感謝しております)、マイナーWEBライターとしては、「報酬」とともに「これは、自分の将来にとって、プラスになる仕事だろうか」というのも意識するわけです。
 基本、よほど偏向したメディアに書くようなことがなければ、マイナスの仕事というのは無いのですが、多くの人の目に触れやすい大手メディアに露出することは、「原稿料は安くても、それがきっかけで仕事が増えれば将来の大きなプラスにつながる」と判断するわけです。
 大手メディア側も、書き手のそういう計算を承知のうえで、若手や無名の人の仕事を「買い叩く」場合があるのでしょう。

 こういうのは、創作の仕事に限りません。
 研修医は、今の給料が安くても、この有名病院で修行を積んで実力をつければ、仕事に自信が持てるようになり、生涯収入もアップするはず、と考えて、きつい研修病院にマッチングするわけですし、大企業でインターンシップに参加する人たちも、そこでは無給でも、将来的にはプラスになる、という判断をしているはずです。
 ただし、創作物の一時的な安売りには、研修医やインターンシップほどの将来への投資としての確実性はなく、発注側が創作者の淡い期待や「社会的な役割という名目」を利用してコストダウンしている、とも言えそうです。

 
blog.tinect.jp

 
 僕はこのエントリを読んで、「材料費はかかっていないだろう」と創作物を値切る人には嫌悪感を抱きました。
 創作物には、それなりの「目に見えないコスト」がかかっており、「適正な対価」みたいなものがあるのだから、相手が無名だからとか、友達だから、というような理由で、タダで当然という態度を示したり、値切ったりする行為は、ものの「価値」がわかっていない。

 ……そう言いつつも、僕自身は、ものの価値というのは、その場でもらえるお金の多寡だけではない、とも思っているのです。
 いや、たぶんほとんどの人が、そうなのではなかろうか。
 
 研究者であれば、世の中の役に立つはずの論文を、査読を受けたうえで、自分で「掲載費」的なものを出して載せてもらう、ということが少なくありません。
 大手新聞社やテレビ局などは、作家や有識者に「無料、あるいはものすごく安い金額で」コメントを求めることが多いのです。
 僕だって、自分が書いたものがヤフーニュースのトップページとか、朝日新聞とかに載る、と言われれば、タダでもホイホイ書いてしまいそうな気がします。
 非常にイビツな状況ではありますが「大きなメディアだから、大勢に読まれるから、タダでいいよね」という合意が発注側、受注側に成り立ってしまうことがあるのです。
 「ちゃんと対価を要求する創作者」も大勢いるのですが、同じくらいの能力があって、「きちんと対価を要求する人」と「タダでもいいからやりたい人」がいたら、まず、後者のほうが優先順位が高くなります。よほど「この人でなければ」という立場でないかぎり。
 本当は「大手こそ、お手本になるように、ちゃんと報酬を支払うべき」ではないかと思うのですが、世の中の大メディアも大企業も、「減らせるコストは可能なかぎり減らす」ようにしているのが現実です。


 創作アクセサリーだって、一般人の顧客には「材料費はそんなにかかってないんだから、1000円は高い、500円にして」と言われたら「こっちの努力や技術も知らないで」と反発する人でも、「メディアでこれを紹介したいんですが」と言われたら、「タダで結構です」と提供することは多いはず。
 そういうのに甘えたメディアが「たかり」みたいな行為をするのは論外としても、売る側にも「価格」に関しては、戦略はあるのです。

 プロの技術や知識をタダで使おうとするな、という話もネットではよく見かけます。
 僕も、医療相談をしてくる、よく知らない人に対して憤るのですが、相手が友人や身内であれば、「できるかぎり力になるし、カネよこせ、なんて思わない」というのも事実です。「あえてお金の話はしない」のが、親密さを証明するための武器になることもある。相手がちゃんとした友達なら、お金をもらってしまうと、「雇用者と雇われた人」になってしまって、堅苦しくなることもある(だから、結婚披露宴で友人のプロに演奏してもらう場合には「お車代」みたいな感じで、気まずくならないようなお金のやりとりをする場合もあるわけです)。


 僕は昔、内田樹先生の「もし仕事の評価と報酬がきっちり比例する世の中だったら、生きるのはすごくつらくなるだろう」というようなことが書いてあるエッセイを読んで、「なるほどなあ」と思ったのです。「なんで俺はこんなに働いているのに、給料が安いんだ!」と愚痴を言うことができない世界、自分の「実力」が野ざらしにされている状況というのは、たしかにきつそうです。
 でも、『ブルシット・ジョブ』に書かれているような、プロテスタント的な背景に基づく「人に役立つ仕事ができるのだから、それだけで幸せだろ?高い報酬を求めるなんておこがましい」みたいな無言のプレッシャーにも耐えられそうにない。
 というか、やっぱり貰えるものならお金は欲しい。あって困るものじゃないし。あんまりたくさんあると、かえって注目されて怖いだろうけど。

 
 正直、今の世の中だと「創作物に報酬を求めない」というのも、「創作物には対価が必要。お金ほしい!」というのも、善悪やどちらが正しいというよりは、プロレスのベビーフェイスとヒールの違いみたいなものだな、という気もするのです。自己演出上の立ち位置の違いがあるだけで、どちらもリングの上で「表現」をしている存在であることには変わりない。


 結局、ものの正しい価格は「市場」が決める、というのが正解なのかもしれません。
 いくら、「天下の『ニューズウィーク』が、そんな報酬で書かせるなんて!」と外野から憤っても、それでも書く、自分にとってはチャンスだ、という人は少なからずいるのでしょうし。


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