すごく誠実な記事だなあ、と思いながら読みました。
たかがゲームの話じゃないか、と感じる人も多いのかもしれませんし、僕も「なんか当時の自分の記憶とは違うことが書いてあるけれど、懐かしいゲームが採りあげられているだけで、ちょっと嬉しい」のもあるんですよね。
『ドルアーガの塔』の宝箱についての情報が事実と違っているのは「メディアとしては恥ずべきこと」なのだろうけれど、じゃあこれに訂正記事を出さなければならないか、と言われると、まあ、昔の話だし、あまり「正確であること」が求められると、気軽に昔のゲームの話をネットでやりにくくなるのでは、という気持ちもあるのです。
でも、個人ブログのエントリならともかく、ヤフーのトップページに載るような記事だぞ、と言われれば確かにそうなんですけどね。読む人の数や影響力としては、大新聞の記事と遜色ないくらいだろうから。
テレビゲームというのは、「すべて味わって語る」のは難しいジャンルではあるのです。一応の基準を「クリアしてエンディング(ベストエンド)を見る」というところに置くとすれば、RPGなら20~30時間はかかるものがほとんどでしょう。映画であれば、観終えるのに2時間くらい。本でも、超大作でなければ、だいたい一冊読むのに2~3時間。だからといって、ゲームを語るコラムやエッセイ、レビューの単価が、その他のジャンルを語るものの10倍なわけではありません(たぶん、1つの文章の価格は同じくらいでしょう)。
僕自身は、世代的に、ゲームウォッチの誕生から、カセットビジョン、ぴゅう太、インテレビジョン、そしてファミコン発売の時代をリアルタイムで経験してきているのです。
「クソゲー」というものについても、子どもの頃、限られた小遣いで『バルトロン』や『ミシシッピー殺人事件』をほぼ定価で買ってしまってプレイしたときの「クソゲー買っちまった……」というやり場のない悲しみと、同じゲームを後年ワゴンセールで300円で買った人たちが、それを「あはは、クソゲーだな!」とネタとして消費しているのは、全然違う感覚だと思うんですよ。
『燃えろ!プロ野球』の「バントホームラン」なんて、今となってはネタだけれど、当時は「なんだこれは……」と困惑しかありませんでした。
それでも、けっこう遊んだんだよなあ。買うのに使ったお金がもったいない、という理由で。
なんのかんの言っても、そのとき、リアルタイムで体験していた人たちの反応や感情は、後世の人たちの都合によって、書き換えられてしまいがちなのです。
この間書いた、「ノストラダムスの大予言」もそうだった。
今の感覚では「恐るべきカルト教団」であるオウム真理教も、地下鉄サリン事件が起こるまでは、「変なことを大真面目にやっている浮世離れした大人たち」という感じで、みんなけっこうネタとして面白がっていた記憶があるのです。「オウムシスターズ」「ああ言えば上祐」。ところが、あれから時間が経つにつれ、そういう「オウムネタでワイドショーが盛り上がっていた事実」には触れられなくなり、あたかも出現当初からみんなが恐れおののいていたような扱いをされています。
そういうのって、テレビゲームに限った話ではないのです。
というか、テレビゲームの場合には、まだ、リアルタイムの証言者がたくさん生存しているし、「インターネット普及後」にアーカイブされている資料も少なくはない。僕のような無名の個人がブログやSNSに書き残した感想も、束ねれば、傾向は見いだせるはず。
この本のなかで、1953年に公開された、『ひめゆりの塔』(今井正監督)の脚本を書いた水木洋子さんが、「ひめゆり」の生き残りたちに取材した時のことが紹介されています。
「わたしが関心を抱いたのは、ひめゆり部隊の人たちが、どんな思いであの戦争の時代を生きていたのかということでした。
若い女のひとりとして、他人事とは思えませんでした。
薬も食料もなくなっていく前線、続々と運び込まれる負傷兵、傷つき倒れていく仲間たち──あの激戦の沖縄で、看護婦として動員されながら、彼女たちはいったい何を思って毎日暮らしていたのだろうか」
「ところが、彼女たちは意外なほど淡々としていました。悲惨な体験をしたような人にはとても見えないし、彼女ら自身、特別な体験をしたという意識がないらしいのです。
拍子抜けするほどでした。
でも、考えてみたら当然のことかもしれません。
わたしたちは皆、等しく戦争を体験しました。村でも町でも、生徒たちは動員され、働かされました。
たしかに、沖縄の事情は特殊ではありましたが、あの時期の沖縄にいた者は皆、多かれ少なかれ似たような境遇にいたのです。自分が特殊な体験の持ち主だという自覚がないのは、当たり前のことではないでしょうか。
そんなわけで、ことさらに特殊な描き方をしないというのが、脚本を書くうえでの方針になりました。あの時期のごくふつうの女学生の行動を描けばいいのだと思い至ったのです」(『クロニクル東映』)
リアルタイムでは、みんなそれが「当たり前のこと」だと思っていたのです。
それこそが、「戦争の悲劇性」とか「人間が戦争を繰り返している理由」のような気がします。
そして、「戦争」=「悲劇」「悪いこと」と思考停止してしまいがちな中で、「戦争」のなかにも人々の生活や娯楽もあった、ということも事実なのです。
この本の巻末には、『この世界の片隅で』の片渕須直監督と著者の対談が収められています。
春日太一:戦時中について、手触りがつかみにくかったのは、どのへんだったのでしょうか。
片渕須直:もうちょっと遡ると大正デモクラシーの時代じゃないですか。「わずかな時間で、そんなに人の意識は変わるものなのかな。なんであんなふうに唯々諾々ともんぺ姿になるとか、急に全然違う世の中になっていったんだろう」というのを手触りというか、気持ちの上で撫でてみたいというようなところがありました。
『この世界の片隅に』で助かったのは、こうの(史代)さんの原作は「何年何月」って、章ごとに全て時間を特定してサブタイトルに書いてますでしょ。「戦争中」であっても、「何年何月」と別の「何年何月」では「違う」っていう前提なんです。「戦争中」と一つ言葉でくくらない。
春日:なるほど。教科書だと「戦時中」の一言で済まされるところが、実はその中に段階というかグラデーションがあったということですね。
片渕:それが面白くて、たとえば、胸に「血液型A型」とか書いた札を縫いつけたり、窓に紙テープみたいなのを米印のような形に貼ったり、もんぺを穿くことだったり、そういうのを一つ一つ、「あれ、いつからやり始めたのかな」って全部調べていきました。
この対談のなかでは、『この世界の片隅に』の主人公「すず」について、片渕監督は、著者の春日太一さんに、こう仰っています。
春日:すずさんのキャラクターについてうかがいます。ずっとのんびりした感じで来たのが、晴美さんの死を経て、それから戦況の悪化につれて──僕の見方だと、ニヒルになっていってる感じに伝わりました。世の中に対して、引いた目線っていうんですかね。「これはうちらの戦いですけぇ」って言ったり、「そんな暴力に屈するもんかね」って言ったり、どこか強いことは言うんだけど、そこには無力感が漂う。
片渕:そうですね。水原哲(すずの幼なじみで水兵になった)に「お前だけは、最後まで普通のままでいてくれ」って言われた「普通」から逸脱していってるんですよね。逸脱していって──原作にはないんですよ、「なんでも使こうてくらし続けるのがうちらの戦いですけぇ」って。
春日:あの時の顔とセリフが凄くゾクッときました。
片渕:宣伝スタッフからは「『なんでも使こうてくらし続ける』っていうところが、すずさんの生活感を表してますね」って言われたのですが、「いや、違うんだ」って。あそこで「戦い」っていう言葉を言いだしているすずさんは、水原哲が言っている「普通」の世界からはみ出しちゃってるわけですよ。はみ出ちゃっているからこそ、自分がはみ出たことで泣くんだろうなと思うんですね。
春日:その前に、すずさんが「のんびりした女の子のままでいられれば」みたいなセリフを言っています。本人としても変わってしまったことを分かっているんですよね。
片渕:自分が、水原哲が言ってたような存在じゃなくなってしまっていることを分かっているわけですよね。
春日:日常を暮らしてはいるんだけれども、日常そのものがもう変わってしまっている。
片渕:「こんな『日常』っておかしいだろう」っていうことです。
春日:絶えず日常を生きてはいるわけですから、一見すると変わってないように見えるけれども、実はそれは戦争によって歪められてしまった。
片渕:あと肯定的な感想でも「そういうふうに思われちゃうのか」と思ったのはあります。「ああいう中で、ずっと自分を貫いて生きてるすずさん、強い」って。全然貫けてないんだよなぁと思うんですよ。
同じ場面をみても、受け手によって、さまざまな受け止め方があるのだよなあ、と考えずにはいられません。
結局のところ、「今を生きている人間」というのは「今の感覚」で過去の出来事を評価したり、断罪したりしがちなのですが、それも「今の価値基準による判断」でしかないのです。後世の人からすれば、2020年の人々の感覚も、「昔の人は、愚かだったのだなあ」と嘲笑されてしまうのかもしれません。
さまざまな生活上のつらさはあるとしても、あの時代に、みんなが「戦争反対」「こんな戦争は早く終わってほしい」と状況を俯瞰しながら思っていたわけではないし、当時の「戦争に負けたら皆殺しにされるかもしれない」という恐怖は、その後の日本を知っている僕には、実感することが困難です。
なぜ、大正デモクラシーを謳歌し、自由な空気があって、ちょっとした贅沢もできていた「幸福な日本人」が、あの戦争に向かっていったのか?
それを想像するために大事なのは、後世の価値基準による断罪ではなくて、当時の人は、どのように生きて、どのように考えていたのか、を丁寧に検証することではないでしょうか。
そういう意味では、インターネットで毎日記録されつづけている「私はどう思い、どう行動したか」は、将来、人類というものの全体像を知るための、貴重な資料になりそうです(それを分析するのは、いまの人類自身ではないかもしれないけれど)。
なんだか話が大きくなってしまって大変申し訳ないのですが、今のインターネットメディアの収益構造を考えると、ゲームメディアに適正化を求めるよりも、それぞれのプレイヤーが、自分自身のプレイレポートや感想を積み重ねて、お互いに検証していくほうが、結果的には「まともな資料」ができるのではないか、と僕は考えています。
今の世の中は、「ちょっとしたお金になる仕事」であることは誠実さと結びつきづらくて、かえって、「粗製乱造の原因」になりがちなのです。
それは、書いている個人の責任というよりは、そういう記事のつくりかたをしないと「食えない」システムができあがっているから。
「書きたい」「ちゃんと書ける」人ではなくて、「安く、それなりに書ける」人に仕事が発注されるから。
ニュースや芸能、人気スポーツなどの「最新の情報」に関しては、大手メディアの牙城がそう簡単に崩れるとは思えませんが、少し古かったり、マイナーだったりするエンターテインメントの記憶の保存については、「本当に愛着を持った人たちが、仕事の合間にコツコツと無償で積み重ねたコンテンツ」のほうが信頼できることが多い」時代になっていくのではないか、と僕は考えています。
- 作者:石井 ぜんじ
- 発売日: 2015/01/31
- メディア: 単行本