いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

「ファミコンの父」上村雅之さんと「ファミコンが生まれた時代」の話


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ファミコンの父」上村雅之さん逝去。
近年は、僕が子どもの頃にお世話になった、というか、生きていく支えでもあったテレビゲームをつくってきた人たちの訃報に接することが多くなりました。つい先日、三遊亭円丈さんのことを書いたばかりだったのに。


fujipon.hatenablog.com


2018年に、上村さんについての、こんな記事がありました。
bunshun.jp


ゲーム業界では、宮本茂さんや横井軍平さんという「ゲームをつくってくれたソフト開発側の人たち」のほうがユーザー、プレイヤーに注目されがちなのですが、上村さんは、僕たちが熱中したゲームを生み出す「器」であったハード(『ファミリーコンピュータ』という機械)を生み出した人だったのです。


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 これは2013年に上梓された、上村さんも著者のひとりとして名を連ねている本なのですが、僕は発売時にこの本を読んで、ずいぶん「硬い」内容だなあ、学術書みたいだなあ、と思ったものです。
 そして、この記事を書くために、この本についてのエントリを読み返していて、1983年、ファミコン発売当時の記憶が、時間とともにかなり改変されていたことに気づきました。
 当時は、エポック社カセットビジョンがそこそこ売れていたけれどキャラクターはカクカクしていて、「ドット絵」というより「ブロック絵」みたいでしたし(それでも『ギャラクシアン』はけっこう面白かった)、『ぴゅう太』の『スクランブル』に憧れていたけれど子どもには高価で、とても買ってもらえるようなものではなかったのです。
 そんななかで、1万5000円と「なんとか親にねだれるくらいの価格」で、『ドンキーコング』や『マリオブラザーズ』(スーパーじゃないほう)、3Dの『ベースボール』ができるファミコンは、革命的なテレビゲーム機で、すごいインパクトがあった記憶があります。
 それでも当時は、なかなか買ってもらえなくて、デパートの玩具売り場のデモ機はいつも子どもたちでにぎわっていました。
 今から考えると、「あれだけ安価で高性能な家庭用ゲーム機が売れたのは当たり前」だと思うのですが、発売当初は、必ずしも「勝ち確」という商品ではなかったのです。


 遊ぶ側からすれば、「テレビゲームの真打ち登場!これが最先端の遊びだ!」だったのですが、前述の『ファミコンとその時代』を読むと、開発側は、必ずしもファミコンを「最先端」だとは考えていなかったようです。
 ファミコン発売当時(1983年)、アメリカでは「アタリショック」の影響が続いていて、「ゲームしかできない『ゲーム専用機』は終わった」と考えている人が多く、IBMやアップルのパソコンが順調に売れていました。
 日本国内ではワープロが爆発的に普及してきた時期でもあります。


 『ファミコンとその時代』には、こう書かれています。

 ファミコンにも英数字キーボードを搭載すべきか、またBASICのようなプログラム開発言語を搭載すべきか、というたいへん頭の痛い問題も、結局コスト重視の方針から決着がつけられた。ビデオゲームを家庭で楽しむこと、そしてその中心は子どもであることがファミコンの設計の基本方針である。また、ビデオゲームは簡単な操作で奥深い遊びを遊べるということが開発の指針にされていることを考えると、当面英数字キーボードは必要としない。また、BASICのようなプログラム機能を搭載するためには作成されたプログラムを保存するためにRAMや外部記憶装置が必要になり、下手をするとファミコン本体のコストより高くつく、ということで英数字キーボードやBASICを当初から搭載することは断念した。
 しかし、前述のような世の中の流れの中で、ゲームしか遊べない仕様で、販売を担当する流通を説得できるのだろうか。また、新聞やテレビ局といったメディアがゲームしかできないファミコンの発売に注目してくれるのであろうか、という点が改めて問題となった。そこで、ファミコンの発売後に英数字キーボードやBASIC機能を搭載した専用のカセットを別に発売することをアナウンスするという決定がなされた。
 現実にファミコンの発売を新聞社や雑誌社に発表した時には、なぜ初めから搭載せずに別売りなのかという質問が多く寄せられた。テレビでゲームを遊ぶ時代はすでに終わっている、と多くのメディア関係者が考えていたことを実感した記憶が現在もハッキリと残っている。


 僕が「やっと『ゲームセンターと同じテレビゲーム』を家で遊べるようになった!」と喜んでいた時期、開発者やメディアは、「ゲームしかできないコンピュータは、もう『時代遅れ』ではないか?」と考えていたのです。
 いまから考えると、「ファミリーベーシック」を標準装備にしなかったのは「妥当な判断」だと思われるのですが、当時は「かなり悩ましい決断」だったのですね。
 
 開発側としては、ファミコンは発売後2〜3年で人気のピークを越え、他の玩具に取って替わられていくだろう、とも考えていたようです。

 思い返してみると、1983年にはマイコン(パソコン)、ワープロもかなり普及しはじめていましたし、アタリの一過性の成功からの大転落もあり、ファミコンは「ゲーム向けに機能を集約することによって、安く売ることを実現したコンピュータ」でもあるのです。
 開発者にとっては、とにかくいろんな要素や可能性を「削った」ハードであり、何をどこまで削るか、というのが上村さんに課せられたミッションでした。

 この記事を書き始める前までは、「僕の子供の頃に彗星のように現れた『ファミリーコンピュータ』に感謝!」みたいな内容を想定していたのですが、『ファミコン』を生んだのは、それまでのコンピュータ開発で蓄積された技術があればこそ、だったのです。
 そして、みんなが「なんでもできるマイコン(パソコン)」に期待しているなかで、「ゲームに特化した」からこそ、1万5000円で売ることができた。
 あの時代の技術者・開発者としては「いろんなことができるコンピュータ」の可能性を捨てるというのは、けっこう思い切りが必要だったのではなかろうか。


www.famitsu.com


 上村さんのキャリアを振り返ってみると、ファミコンスーパーファミコンという超特大ヒットを放っている一方で、評価としては微妙なファミコンディスクシステムや、サテラビューの開発にも関わっておられます。
 これほどの人でも、10割打者というわけではなかった、というのは、僕には少し勇気づけられるところでもあるのです。
 あの横井軍平さんも、『バーチャルボーイ』での挫折を経験しています。
 
 晩年の上村さんが、大学で教鞭を取り、「ゲーム研究センター」で仕事を続けておられたのは、「ファミコンは『突然変異』ではない」「技術というのは、それまでの蓄積の上に進歩していく」という考えがあったのではないか、と僕は思うのです。

 「ファミコンの父」となると、僕にとっては「大親友のお父さん」みたいなものですし、「あの時代を自分の言葉で語れる貴重な証言者」が、またひとり失われてしまったのが、残念でなりません。


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