いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

「人を殺してはいけない理由」について考えるための8冊の本


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ああ、こういうのって、何年かに一度、ホットエントリに入ってくるんだよなあ、こういう「ネットの日暮巡査」みたいな話って、いくつかありますよね。日暮巡査は、2020年にまた現れるのだろうか?


この件に関しては、以前、こんなエントリを書いたことがあります。
fujipon.hatenablog.com
ここで紹介している、内田樹先生やさいとう・たかを先生の話には考えさせられます。
結局のところ「人を殺してはいけない、という万人が納得する理由」なんて、無いのかもしれません。そこにはただ、「人を殺した人間は、その責任をとらなければならない」という原則があるだけで。


とりあえず、僕が思いついた「人が人を殺すことについて書かれた本」をいくつか挙げてみます。
これらの本を読んでみると、よほどの極限状態や精神的に何かが壊れている状態でないと、人を殺すことはできても、人を殺してしまったことに平然としているのは難しいのではないかと思われます。



(1)死刑でいいです
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 この本を読んでいると、「なんかもう、こういう『反省する機能が生まれつき装備されていない人間』に対しては、もうどうしようもないんじゃないか? いっそのこと、(なんとかこの社会に適応していっている)僕たちの安全のために、『隔離』してしまったほうが良いのではないか?」というようなことも、つい、頭に浮かんでしまうのです。



(2)「少年A」被害者遺族の慟哭
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 人の命という、どうやっても償えるものではないものを、なんとか少しでも償わせようとし、わずかながらも期待しては加害者の反応に裏切られる、そんな被害者家族の絶望感が伝わってくるのです。
 そもそも、どういう状態になれば、「償ったことになる」のか、そのゴールは、誰にも決められない。
「墓参りにも、謝りにも来ない」ことに憤り、謝罪に訪れても「態度が悪い」「一度しか来なかった」と責めてしまう。
 それは「当然の反応」なのだけれど、加害者側からすると、「何をやっても償ったことにならない」と、投げやりになってしまうところもあるのかもしれません。
 僕だって、「もし自分や家族が、そういうことをやってしまったら……」と想像することもあるのです。
 絶対しない、と信じているけれど、万が一そんなことがあっても、現実を正視し続けられるだろうか?



(3)人を、殺してみたかった 名古屋大学女子学生・殺人事件の真相
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 ときどき、考えることがあるんですよね。
 お金に困って、とか、痴情のもつれで衝動的に人を殺してしまうことと、「自分の内なる衝動や性癖に抗えずに」人を殺してしまうこと、どちらが「悪質」なんだろう?って。
 人は、自分が理解困難なことに対しては、厳しく対処してしまいがち。
 「なんでそんなヤツのターゲットにされなければならなかったのか」と被害者やその周囲の人が憤るのも、よくわかるのだけれど。



(4)キリスト教と戦争
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 このなかでは、ちょっと毛色が違う本なのですが、「そもそも、人は戦争のときには、殺人を正当化するじゃないか」というのは、避けては通れない「問い」だと思うんですよ。

 結局のところ、宗教としての理想は理想として、現実世界で「字義通りの愛の実践」をやるのは難しいのです。
 著者は問いかけています。


「もし本当に何をされても『赦す』ような宗教があったとしたら、それが世界中に広まることが可能だと思いますか?」


 まあ、難しいですよねそれは。
 徹底した「不害」を説くジャイナ教が、世界で多くの信者を得られなかったように。


 この本のなかでは、「テロとの戦い」を容認したカトリックや、「農民たちを殺し尽くせ」と言い放ったマルティン=ルターのエピソードなど、古今の「神の名のもとに戦争を行ってきた人々のレトリック」の数々が紹介されています。
 でも、こうしてみると、「嘘つき!」というよりは、「人間が人間であるかぎり、戦争というのは、避けては通れないものなのかな」とも思えてくるのです。


こんな話が紹介されています。

 戦争や争いにはさまざまな原因が考えられてきたが、その一方で、何らかの目標のために戦争をするという発想そのものを疑う研究者もいる。例えば、イスラエルの戦争研究者マーチン・ファン・クレフェルトは、『戦争の変遷』(原書房)のなかで、戦争が目的を達成するための一つの手段に過ぎないというのは正しくないとし、実際はその逆で、「人々はしばしば戦うために目標をつくりだす」という。
 クレフェルトの戦争論についてはあらためて詳細な検討が必要だが、この「人々はしばしば戦うために目標をつくりだす」という指摘は、宗教的な戦争やテロを考えるうえでも重要な視点だと思われる。彼の「戦争は宗教を継続する行為である」という議論も、一つの見方として興味深い。


 僕は正直なところ「戦争も殺人も存在しない世界」が、少なくとも僕が世界を認識できている間に実現するとは思えない。「そういうこと」は、どうしても起こるものだよな、と感じています。
 でも、それに自分や親しい人が関与することは「絶対にあってはならないこと」だと考えているのです。
 ものすごく矛盾しているのはわかっているのですが。



(5)介護殺人:追いつめられた家族の告白
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 国は、基本的に「お金がないし、人もいないから、家族に在宅介護を求めている」のです。
 それが「核家族化、少子化が進んでいるいまの世の中の流れに逆行している」のは承知のうえで。
 介護殺人の報道を耳にするたびに「ずっと介護してきた人」は有罪で、介護に関わらなかった人は罪に問われることはない、ということについて、考えてしまうのですよね。
 介護はもう、「触らぬ神に祟り無し」みたいなものではないのか。
 どんな場合でも、人は人を殺してはいけない、と言い切れるのは、幸運な人生を歩んできた人だけではないのか、などと、この介護殺人の事例を読むと、考えずにはいられなくなるのです。



(6)息子が人を殺しました 加害者家族の真実
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 加害者の家族に「責任」はあるのか?
 「全くない」と言い切る自信も僕にはありません。
 それを直接相手にぶつけるかどうかは別として。
 刑務所の中にいる加害者本人には嫌がらせは届かないのに、社会の中で生活している家族は、抗議や嫌がらせから逃れることはできないのです。
 
 ただ、こう書きながらも、「それでも、被害者やその家族のことを考えると……」という気持ちになってしまうのだよなあ。



(7)帰還兵はなぜ自殺するのか
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 この本によると、アメリカからイラクアフガニスタンに派遣された200万人のアメリカの帰還兵のうち、20〜30%にあたる人々が、心的外傷後ストレス障害(PTSD)や、外傷性脳損傷(TBI)を負っているそうです。自殺者は、毎年250人を超えています。


 読んでいると、彼らは派兵される前は「普通の人」あるいは「良き夫、良き父親」であり(この本には、女性帰還兵の話は出てこないので)、戦場でも、頼りになる勇敢な仲間、だったのです。
「心が弱いから、戦場に耐えられなかったんだ」というようなことではないことがわかります。
 というか、どんな人でも、戦場に行けば、そうなってしまう可能性がある、ということなのです。


 いたたまれなかったのは、この帰還兵たちのPTSDが、しばしば、自傷行為や、妻や子供といった身近な人への暴力として表出されるということでした。
 家族は、彼をそんなふうにしてしまったのが、戦場でのつらい体験であったことを知っている。
 だからこそ、彼を責めてはいけない、と自分に言い聞かせる。
 でも、理由や過程はどうあれ、自分に降りかかってくるのは、それまでずっと「愛する夫や父親」だった人からの、いわれのない言葉や肉体への暴力なのです。
 そのPTSDの理由が、本人のせいではなく、さらには「英雄的なもの」であるからこそ、そう簡単に見捨てるわけにもいかない。
 そして、家族も、壊れていく。


 戦争という大義名分があっても、それが「英雄的行為」だとされていても、人は、その体験のあと、元には戻れなくなるのです。



(8)それでも人生にイエスと言う
fujipon.hatenadiary.com


 タイトルにもあるように、V・E・フランクルさんは、この講演のなかで、「生きることを肯定する」という立場を貫いておられます。
 強制収容所という「絶望」のなかで過ごし、奥様をはじめとする多くの家族を失ってもなお、「生きること」の素晴らしさを訴えかける人がいる。
 それだけでも、僕などは圧倒されてしまいます。
 この本のタイトルが、単に『人生にイエスと言う』ではなく、「それでも」という言葉がついていること、そしてこの「それでも」の「それ」が指すものは、とても「重い」のです。

 あるとき、生きることに疲れた二人の人が、たまたま同時に、私の前に座っていました。それは男性と女性でした。二人は、声をそろえていいました、自分の人生には意味がない、「人生にもうなにも期待できないから」。二人のいうところはある意味では正しかったのです。けれども、すぐに、二人のほうには期待するものがなにもなくても、二人を待っているものがあることがわかりました。その男性を待っていたのは、未完のままになっている学問上の著作です。その女性を待っていたのは、子どもです。彼女の子どもは、当時遠く離れた外国で暮らしていましたが、ひたすら母親を待ちこがれていたのです。そこで大切だったのは、カントにならっていうと「コペルニクス的」ともいえる転換を遂行することでした。それは、ものごとの考えかたを180度転換することです。その転換を遂行してからはもう、「私は人生にまだ何を期待できるか」と問うことはありません。いまではもう、「人生は私になにを期待しているか」と問うだけです。人生のどのような仕事が私を待っているかと問うだけなのです。


 ここでまたおわかりいただけたでしょう。私たちが「生きる意味があるか」と問うのは、はじめから誤っているのです。つまり、私たちは、生きる意味を問うてはならないのです。人生こそが問いを出し私たちに問いを提起しているからです。私たちは問われている存在なのです。私たちは、人生がたえずそのときそのときに出す問い、「人生の問い」に答えなければならない、答を出さなければならない存在なのです。生きること自体、問われていることにほかなりません。私たちが生きていくことは答えることにほかなりません。そしてそれは、生きていることに責任を担うことです。


ちなみに、「自殺はなぜ無意味か?」という問いに対して、フランクルさんは次のような話をされています。

 ここでもう一度、チェスの勝負をたとえに使う必要があります。ここでわかっていただきたいのは、人生が出す問題を自殺によって「解決」しようとするのは、まったくばかげているということです。
 まあちょっと、考えてもみてください。あるチェスの選手が、チェスの問題に直面して、解答がわからず、盤の石をひっくり返すとします。なんということをするんでしょうか。そんなことをして、チェスの問題の解決になるのでしょうか。もちろんそんなことはありません。けれども、自殺する人はまさにそのとおりの行動をしているのです。自分の人生をほうり出しておいて、解けないように思われた人生の問題をそれで解決したと思っているのです。自殺することで人生のルールに違反しているとは思わないのです。さっきのたとえのチェスの選手が、チェスの勝負のルールを無視したのとおなじです。チェスの問題は、ルールの範囲内で、けいま飛びとか、王と塔の位置を入れ換えたり、なにか知らないですがそういったことで、いずれにしてもなんらかのチェスの手で解かなければならないのです。盤の石をひっくり返して解くというようなことがあってはけっしてならないのです。自殺する人も、人生のルールに違反しています。人生のルールは私たちに、どんなことをしても勝つということを求めていませんが、けっして戦いを放棄しないことは求めているはずです。


 これを読みながら、僕は、この「解答」の美しさに「なるほど」と感じながらも、「しかし、自殺する人というのは、それが『答え』だと思っているわけではなくて、チェスの次の一手がどうしても思い浮かばず、苦しくてしょうがないから、盤をひっくり返してリセットしてしまうのではないか?」とも考えてしまうのです。
 自殺というのは、「人生の問題を解決するため」ではなく、「苦しさに耐えかねて、人生の問題から逃亡すること」なんですよね。
 それはたぶん、「間違っている」のだと僕は思います。
 しかしながら、そういう状況に陥っている人が、「それはルール違反だから」という理由で納得し、もう一度人生に立ち向かっていけるのかどうか?




 「なぜ人を殺してはいけないのか?」という問いに対して、直接言葉で理由を説明するのは、ものすごく難しいことだと思うのです。
 だからこそ、こうして何年かおきに、こういう話がネットで盛り上がるのでしょうし。
 あらためて考えてみると、「なぜ人を殺してはいけないのか?」なんて一歩引いて考えられる人というのは、たぶん、人を殺さなくても済む状況にあるのだろうし、よほどのことがなければ、他者を殺めるなんてことはできない人が大部分ではあるのでしょう。


 「なぜ人を殺してはいけないのか?」への問いへの答えというのは、「なぜ地雷を踏んではいけないのか?」への答えに近いのではないか、とも僕は考えているのです。


 「あなたが目の前にあるそれをどうしても踏んでみたい、というのであれば、自由を奪わないかぎり、絶対に踏ませないようにはできない。でも、そんなことを興味本位でやっても、どんな結果になるか、想像はつくよね?」


 それでも踏んでみたい、自分の身体はバラバラになってもいいから、という人が稀にいるのも、事実なのですが……


それでも人生にイエスと言う

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