いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

「現場」を知らずに、理想論や誰かを責めるための「正義」を語るだけの人たちへ


chikirin.hatenablog.com


 問いかけだけあって、筆者の考えや結論がないエントリなのですが、僕はこれを読んで、最近Twitterで見かけた、あるtweetに対するプチ炎上を思い出したのです。


 これに対して、「土日は休みに決まってるだろ!」「昔はこうだったのに、とか言う『老害』が若者を追い詰めているんだ」という返信がけっこうあったんですよ。
 僕も世代的に、研修医時代には「アイツは日曜日は一度も病院に来ない」とか言われるのが怖くて、日曜日もアリバイ作り程度に病院に出ていたのですが(患者さんの状態的に、土日だからと休んでいられないこともありましたし)、内心、「日曜日は休みじゃないのかよ……」とは思っていました。
 ただ、今の研修医に関しては「基本的に土日や時間外は働かせてはいけない」ということになってはいるんですよね。
 僕が研修医だった、20数年前は、「土日に休むようなヤツは研修医失格」で、「俺は研修医時代、1年365日、病院に来なかった日は一日もなかった」という先輩や上司が大勢いました。
 それを考えれば、本当に「休める時代」になったな、という感慨はあります。
 そして、無理してつぶれるくらいなら、マイペースで長く、精神的にも安定した状態で仕事を続けたほうがいい、とも思うんですよ。
 僕自身は偉くもなれず、仕事で人に誇れることは何一つない人間ですが、とりあえずここまでやってこられたのは自分なりにうまく手を抜いてきたからではないか、という気がします。
 ただ、それはそれで、あのとき、あの人に対して、もっと自分に実力があるか、熱心にやっていれば、助かったのではないか、と後悔していることも、少なからずあるのです。
 そして、指導医として、あるいは先輩としていろんな病院で、いろんな若い医者をみてきて痛感するのは、やっぱり、休みの日も熱心に病院に出てきて患者さんと話をしたり、急患を一緒に診たりする若手のほうが、同じ年数でも、実力をつけて、傍からみても頼れる医者になっていることが多い、ということなんですよ。僕自身が「隙あれば帰って『ダビスタ』をやっていたい」タイプだっただけに、医者という仕事に情熱を燃やしている人たちへのコンプレックスもありました。でも、コンプレックスがあるから頑張って追いつこうとする、というわけでもなかったのだよなあ。

 病院という場所では、予想外のトラブルや患者さんの急変が、土日でも容赦なく起こるのです。
 もちろん、24時間365日、主治医がそれに対応しろ、というのは無理がある。昔はそういうときもまず主治医が呼ばれる病院が多かったのですが、今は電話で確認をして、当直医が対応してくれるケースも少なくありません。
 それはそれで、医者の生活の質を上げるためには、良いことだと思います。というか、電話がいつかかってくるかわからないだけでも、けっこうつらいんだけどさ。

 ただ、現実問題として、救急車がどんどん来て、患者さんを治すために24時間体制でガンガンやっているような病院では、当直医がすべてに対応する、というのは、難しいところがほとんどだと思います。
 当直医が急患を診て、さらに、病棟の急変や、状態の悪い患者さんを確認していくのは時間的にも体力的にも無理なわけです。しかも、そういう病院では、当直医の大部分は当直明けにも朝から夕方まで睡眠時間1時間とかで仕事をしなくてはならない。
 では、当直医を増やしたら良いのか、というと、それで当直の回数が増えるのもつらい。
 そもそも、初見の重症の患者さん、しかも病歴がけっこう入りくんだ人をカルテを見ただけで把握するのは難しいし、そのために主治医にちゃんと「何が起こってもわかるように準備をしておけ」となると、主治医はさらに眠れなくなってしまう。
 
 結局のところ、「研修医が土日は休めるようになった」というのは、「その分の仕事を中堅や『老害』と責められている人たちがやらなければならなくなっただけ」なのです。
 本当は、もっと医療者側に人的余裕があって、「当直医は翌日休み」とかが徹底されれば、まだマシなのかもしれませんが……
 自分たちが研修医の頃は「土日はお前らが出てきて状態を確認しておけ」と言われ、中堅になれば「いまの若手は土日に働かせるな、お前らがやれ」って言われたら、「俺たちが何をしたって言うんだ……」ってボヤキたくもなりますよ。
 ほとんど眠れない当直なんて、誰もやりたくはないし、そういう状況になってしまうのは「いまの社会の救急医療システムのエラー」なのだけれども、だからといって、現場の人間がみんな「システムが間違っているのだから、当直なんてやりません!」と宣言し、実行すれば、救急医療は崩壊してしまう。そこで、「誰かがやらなければならないから(まあ、それなりに給料も貰っているし)」と、いうことで、みんながなんとか耐え忍んで、この間違ったシステムを支え続けているのです。いままでは「医者とはそういうものだ」という「常識」が、このムチャな状況をなんとか維持させてきたのだけれど、それももう限界に近い。もともと、「その分給料から引かれてもいいから、きつい当直なんてしたくない」という人は少なからずいましたし(僕もそうでした)。

 患者さんや家族の側も、土日であっても、「なんで主治医は来ないんですか!」とか、「土日しか仕事が休めないので、日曜日に病状説明してください」とか言ってくるわけです。
 もちろん、お断りすることもあるのですが、「それでも医者か!」的な反応をされることもあります(昔よりはだいぶ少なくなりました。働き方改革は、ゆっくりとですが、進んでいるとは思います。

 
 正直、僕は「若手は土日休ませるのが当然だ。きちんと休ませろ」という意見に対しては、「まあ、そりゃそうだよな。休日のはずの日にも義務的に働かされてはかなわん」と共感する気持ちと、「だが、これからのキャリアを考えたら、なんのかんの言ってもそこで頑張って自分から仕事を見つけるヤツに差をつけられてつらい思いをすることになるぞ」と言っておきたい気持ちの両方があるのです。

 今ちょうど、プロ野球のキャンプが行われていますよね。
 そこで、売り出し中の若手選手が、休日返上で練習をしているのをみて、「なんで休日に、ちゃんと休まないのか。球団も休ませろよ」と、思うでしょうか?
 僕は「ああ、頑張ってるなあ。ケガしないように気をつけてね」と、その努力を肯定してしまいます。
 いやそれは、プロ野球とかオリンピックを目指す選手とかは「特別な人間」だから、別枠だろう、と言いたいのもわかる。

 医者という仕事は、従事している人が多いから「珍しい仕事」でもなんでもないのだけれど、それなりに責任は重いし、周囲からは「けっこう給料も貰っているはずだから、ちゃんとした医者じゃないと困る」とみなされている。
 でも、内側からみれば、医療はいろんな人と協力しなければならないけれど、医者どうしには「競争」もあるし、「実力差」もあるのです。
 技術や知識がものをいう、職人の世界でもあります。

 僕は「そんなにがんばれなかった人間」として、言っておきたい。
 命にかかわるような無理をしろとか、上司や患者さんの理不尽な扱いに耐えろ、とは言わない。
 それでも、この世界で、認められるような実力をつけたいと思っているのであれば、頑張れる人は、頑張れるときに、頑張っておいたほうがいい。
 40代とか50代、いや、30代になってから何かに目覚めて努力しても、行き着くのが難しい世界というのはある。この仕事の世界では、人生の航路を決めるターニングポイントは、20代のうちに来ることがほとんどです。
 インターネットでは、他者を「老害」とか責めるために、「休日に働くのはおかしい」とか言う人が多いけれど、少なくとも、僕がみてきた、そして打ちのめされた医者・医学の世界は、そこにある病気やそこにいる患者さんは、そんなに甘いものではなかった。
 
 いや、こんなことを書きながら、僕自身も「みんな休日にはちゃんと休ませてあげたいよね」という気持ちと、「さりとて、休日にみんながちゃんと休むと、現状では人の命に対して十分な手当てをするのが難しい」という現実がせめぎあっているのです。
 そして、僕のように、うまくいろんなことをやり過ごしてきたからこそ、なんとか生きてこられた人間でさえ、「なぜ自分は、もう少し、頑張らなかったのだろうか?」という後悔が澱のように心に沈んでいるのです。

 僕なりの遺言みたいなものとして聞いてもらいたいのだけれども、医者というのは、まあ、なんとか免許を取って、それなりに働いていれば、焼肉屋で会計を気にしないで済む程度には食えるんですよ。
 「頑張らなくてはならない」と昔、すごくつらくて、プレッシャーに感じていました。
 ただ、この年になってあらためて考えてみると、「頑張ることによって、自分の能力を高め、自分ができることの範囲を広げ、それが、人の命を救うことにつながる」という環境は、すごく、恵まれていたのだと思う。
 そんなふうに、正しく報われる仕事って、あんまりないから。
 それを、若いころの僕が生かせなかっただけで。
 だから、頑張れる人は、頑張ったほうがいいよ、絶対に。
 
 まあ、頑張る人っていうのは、こんなの読まなくても頑張るのだろうし、向き、不向きっていうのもあるからね。
 僕は僕で、「頑張って最先端の医療や研究をしている人たちが、その仕事に集中できるように、彼らではなくてもできる医療の末端を担って食べていく」ことで、今は納得しています。

 冒頭のちきりんさんのエントリに「回答」が無いのは、「責任のある仕事を任されていて、目の前に困っている人がいる状況であっても、残業や休日出勤はすべきではない」と言い切るのは難しいし、さりとて、「状況が落ちつくまで、不眠不休が当たり前」とは思えない、からなのだと思います。

 東日本大震災のとき、福島原発で作業をしてくれた人たちがいました。
 その人たち自身のことを思えば、そんな危険なことはすべきではないし、ものすごい報酬を得られたわけでもなかった。
 でも、僕はあのとき、テレビに映る原発をみながら、「もう自分の財産とははどうでもいいから、なんとか僕と家族を、そして、あの災害に遭っている人たちを生かしてほしい」と願っていました。
 結局のところ、誰かの(あるいは、もしかしたら自分自身の)善意に頼るしかない状況というのが、人間には存在するのです。

 そんな僕も、すでに、「ケイティブレイブなんて買えるかボケ!」とか、わずかな喪失にも耐えられない日常に戻っていますが。
 
 冒頭のエントリに関しては、正直、ほとんどの災害復旧などに関しては、「なるべく早く修繕してほしいけれど、不眠不休でやるよりも、交代制などにして、休養をとりながら頑張ってほしい」というくらいが僕の感覚です。不眠不休での作業なんて、危なくてしょうがない。ただ、緊急時、非常時には、ふだんより仕事がハードになることがある、というのは、致し方ない面はあると考えています。
 というか、「不眠不休」か、「普段通りに有給OK、定時帰宅」か、なんて二者択一にして、「ほら、お前らは『不眠不休でやれ』って言うんだろう?」っていう問いかけかたは、煽情的だけれど、合理的ではない。
 東日本大震災のときに「枝野寝ろ」って、みんなtweetしていたじゃないですか。不眠不休で頑張っている人を目の当たりにしたら、そう言いたくなる人が多いのではなかろうか。
 いまの社会は、「非常時の『公』に対する責任」と「それに従事する人の『私』としての幸福の尊重」が天秤にかけられていて、どのくらいのバランスがいちばん「最大多数の最大幸福」につながるのか、試行錯誤している最中なのだと僕は感じています。
 

 僕はちきりんさん(の中の人)の著書のなかで、すごく印象に残っているところがあるのです。

fujipon.hatenadiary.com

 日本では、大きなプロジェクトが行われることになると、すぐに「誰がリーダーになるのか(なるべきか)と話題になります。大事故が起こって深刻な問題の解決が必要になった際にも、難局を乗り切るために強いリーダーシップの必要性が叫ばれます。このように日本人にとってのリーダーシップとは、特殊な出来事が起こった時に必要なものという認識が強く、「日常的に誰もが発揮するもの」とは考えられていません。
 そしてそういった重要なプロジェクトのリーダーになるのは、有名人であったり第一人者と呼ばれる専門家であったりと、傑出した人ばかりであるため、「一般の人はリーダーになる機会などない。リーダーシップは一般人には無関係なスキルである」、といった誤った受け止め方が定着しています。
 しかし本来リーダーシップとは、そういった特殊なイベントを前提としない概念です。それは普通の人によって日常的に発揮される、ごく身近なスキルなのです。
 たとえば、マンションの管理組合の会合にお菓子の持ち寄りがあったとしましょう。会合が終わり、帰り際になってもテーブルの上にはお菓子や果物が残っています。貸し会議室なので残していくわけにもいきません。お菓子の数は全員分には足りないので、ひとつずつ分けるのも不可能です。みんながそれをすごく欲しがっているわけでもありません。
 この時、「このお菓子、持って帰りたい人はいますか。お子さんがいらっしゃる方、どうぞお持ち帰りくださいな」と声を上げる人が、リーダーシップのある人です。


 僕は、この「管理組合の会合のお菓子の話」に、とても感銘を受けました。
 ああ、こういうふうに言われれば、わかりやすいなあ、って。
 日常で、こういう場面に出くわしたことがない人は、まずいないはずです。
 でも、僕を含めて、大部分の日本人は「誰かが仕切ってくれないかな、何かあったときに自分のせいになるのはめんどくさいから」と、考えてしまいがちです。
 たかがお菓子、そんなことで悩んでいるのは時間がもったいない。
 誰かが決断してくれれば、誰も文句は言わないことなのに。
(とは言ったものの、このあと、声を上げた人が、ご近所さんから、「あの人は仕切りたがりだから」なんて陰口を叩かれている様子も、なんとなく想像できるのが悲しいところです)


 著者の伊賀さんは、「リーダーシップを持つことは、自分の人生のハンドルを自分で握ることなのだ」と繰り返し述べています。
 責任は重いし、大変だけれども、自分で行きたいところに行けて、他者に感謝される人生を望ましく感じる人は、少なくないはずだ、とも。

 
 公務員だということで、不眠不休で無理やり働かされている、という状況は想像しやすいかもしれないけれど、世の中には、そういう「責任」を負って、他者をサポートすることにやりがいを感じる人もけっこういると僕は感じています。残念ながら、僕自身はそうじゃないけど。
 だから、お互いを責めるのではなくて、「不眠不休」でも、「ずっと定時」でもないところで、折り合いをつけていけばいいと思うし、現場では、ほとんどの場合、そうしているはずです。
 大震災とか戦争とか、そういうときはもう、やれるだけやるしかない、のかもしれないけれど。

 ネットでは、何事にも、極端な人ばかりがクローズアップされやすいんですよ。そして、多くの場合、関係ない人たちが、極論ばかり述べたり、なんとか協力しあっていこうとする人たちの対立を煽ろうとしている。
 ここで紹介した研修医についてのtweetへの反応をみていて痛感したのですが、第三者のリアクションって、本当に「現場」を知らずに理想論や誰かを責めるための「正義」を語るだけのものが多い。たぶん僕自身も、多くの物事に対して、そういう反応をしているのだろうな、と怖くなりました。

 最後にひとつ。これだけは覚えておいて。
 なんだか、みんながんばれ、みたいな話を書いてしまいましたが、自分で「もう無理」あるいは「これが続くのであれば消えてなくなってしまいたい」という精神状態になれば、すぐさま、上司、家族、あるいは傍にいる人に、SOSを発信してください。それは、あなた自身のためでもあるし、あなたを失って後悔する人を生まないためでもあります。


採用基準

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ネットは社会を分断しない (角川新書)

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人間使い捨て国家 (角川新書)

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