いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

「他人に軽んじられる苦しさ」について


anond.hatelabo.jp


 なんだかとても身につまされる話だなあ、と思いつつ読みました。
 僕も長年「影が薄い」というか、「他人に軽んじられやすい」と感じながら生きてきたのです。

fujipon.hatenablog.com


 大きな声を出して自分の存在をアピールしたり、不当な扱いを受けたときに断固として抗議したりするのが苦手で、その場でじっと状況が変わるのを待つのだけれど、結局、それが奏功することはほとんどない。
 そして、「なんで自分だけこんな目に遭うのだろう、何かが欠けているからではないのか」と自問自答する。
 
 実際は、けっこうみんないろんな場所でスルーされかけていて、そこで「すみませーん!」って店員さんに声をかけることができるか、診察の順番が回ってこなかったら、「だいぶ待っているんですけど」と受付の人に言えるか、という違いだけのような気もします。
 僕の場合は、店に入るなり、周りと目を合わせないようにして、持参の文庫本を読み始めていたので、今から考えてみると、そりゃ向こうも声をかけづらかったというか、もう注文した後なんだろうか、と勘違いされやすかったのかもしれません。
 

 こういうときこそ、先日書いた、このエントリが役に立つのではないか、と思うのです。
fujipon.hatenablog.com

 なんで自分ばかりが……と、思考のネガティブ・スパイラルにハマってしまう前に、自分から一歩踏み出して、「ここにいるよ」「けっこう待たされているよ」とアピールすることができれば、たぶん、そこまでこじれないはず。
 他の人がなぜ「自分のようなひどい扱い」を受けていないのか、よく観察してみると、単純に、イライラしすぎないうちに相手に声をかけているだけ、ということが多いのです。
 正直、存在感の濃淡というのはあると思いますし、僕もきわめて「薄い」人間なのですが、あらためて考えてみると、自分自身で「あまり他人に注目されたくない、目立ちたくない、クレーマーだと思われたくない」という振る舞いをしているのも事実です。


fujipon.hatenablog.com

 こういうときに「ズル」したくない、って思うじゃないですか。
 でも、「特別扱いされるのは嫌だけど、軽んじられるのはもっと嫌」なんですよね。
 そう考えると、「自分はそれでもガマンして待ち続ける人間なんだ、それが俺の人生なんだ」というスタンスを貫くか、それが無理なら、どこかでアピールなり抗議なりしなければなりません。
 そして、どうせアピールするのならば、何時間も待って恨みつらみや自己嫌悪がフルゲージになっている状況よりも、少し待ち時間が長いな、というくらいのときのほうが、自分も傷つかずにすみますし、相手も対応しやすいのです。
 たしかに世の中には、「クレーマー気質」という人もいて、世の中のある一定の確率で起こる事象、それも、あまりたいした被害もないような出来事に対して、強く抗議されることもあるんですよね。
 そういう事例をみていて感じるのは、その事象に対する怒りというよりは、「自分が軽んじられている」ということに憤っている人が多い、ということなのです。
 自分をモンスタークレーマーにしないためには、問題点の早期発見、早期治療が望ましい。自意識が強い人は、なおさら。


 こういうときに、スムースに自分の要求を伝えたり、SOSを発したりするというのは、そんなに簡単なことではありません。
 僕も長年、「アピールするくらいなら、ガマンしてしまう人生」だったのです。
 それなりに適切なタイミング、ちょうどいいくらいの強さで相手に伝えられるようになったな、と思えたのは、子どもと一緒に行動するようになって、しばらくしてからでした。
 自分のこととなると、「めんどくさい」とか「嫌われたらどうしよう」とかいう気持ちが強くて、自分だけが世界中のメテオを一身に食らっているような気分になっていたのだけれど、子どもがいると、「子どもにとって、どうするのが一番良いのか」を考えますし、気乗りしなくても、アピールしなければならない場面も出てきます。
 そうしているうちに、「これは、いろんなことがこじれないうちに、ちゃんと伝えておいたほうがお互いにラクになる」ことが、わかってきました。
 子どもなんていないし……という人もいるはずです。
 そのときには、「自分という弱い存在を守ってあげるには、どうするのが最も良い方法なのか」と考えてみてください。
 最後に自分を守ってあげられるのは、自分自身なのだから。

 オッサンになってみてようやくわかったのですが、人と人の日常の関係なんて、そんなにちゃんとしたものではありません。
 相手の話を聞き流していることばかりだし(それでも「とりあえず相槌をうつ」だけで十分なのです)、厚かましいお願いをしてくる人も多いし、イヤミをいちいち気にしていたらはじまりません(やっぱり、気になることもあるけど)。
 みんなに好かれる必要はない。でも、赤の他人に対してでも、あえて嫌われるリスクを背負うのは馬鹿馬鹿しい。
 なんのかんの言っても、助けてもらうことだってあるし、自分が他人を裏切ったり、ないがしろにしてしまった、と後で後悔することもあるのです。

 僕自身の経験からいうと、「影の薄い人間」というのは、それはそれで聞き役として重宝されたり、自分の内面を掘り下げることに熟練していて、そういったものを文章にするのが好きになったりするんですよね。
 それはそれで、特性とか個性だと言えなくもない。


fujipon.hatenablog.com

……まあ、こうしてネットで偉そうに書くのは簡単なんですけどね。
実際に「助けて、と声をあげる」「ドアをノックする」っていうのは、大人になればなるほど難しくもなるし。
本当は、子どもの頃から、「そういうトレーニング」を親がさせる、あるいは、学生時代に自分で意識してやっておくべきなのかもしれません。
そういえば、僕も試験前に「資料コピーさせて」って頼むのがけっこうつらかったなあ。
ただ、なんとかそれができるくらいには「適応」できていた、とも言えるのか。

その年齢になってようやく気づいたのかよ、と言われることは百も承知で書きますが、世の中の大概の問題に対しては、何らかの救済の手段があるのです。
人間はミスをする生き物だし、困っている人を助けてあげたい、という「善性」みたいなものを持っている人は少なくない。社会も、そういう人がいるのは了解していて、サポートするためのシステムもある。もちろん、万全ではないかもしれないけれど。

でも、自分から「助けて!」と声をあげない人には、向こうから手を差し伸べてはくれない。
それは、不親切だからではなくて、シンプルに「外観だけではわからないし、全員をスクリーニングする余裕もないから」です。
「世の中そんなに甘くない」と言うけれど、「世の中は甘くない」という先入観が、自分自身をがんじがらめにしてしまっているところもあるのだと思います。
100人いて、そのうちの1人が手を差し伸べてくれるくらいでも、生きるのには十分なんですよ。
どうしても、「否定してくる10人」を恐れてしまいがちだけれど。
(たぶん、90人くらいは「無関心」です)

 みんなにちゃんと愛されよう、敬意を持とう、持たれよう、と思うと、きついよ。


 冒頭の増田さんのエントリをもう一度読み返していて、僕は昔、部活で弓道をやっていたときのことを思い出しました。
 どんなに練習しても、的に当たらない、結果が出ない。悩んでいた僕に、先輩が教えてくれたのです。

「お前の矢がなんで的に当たらないのか、わかる?」
「いえ、わかりません。こんなに練習しているし、自分で引いている感じは悪くないのに……」
「お前の矢は、ちゃんとお前が狙ったところに飛んでいるよ。自分では気づいていないだろうけど、お前は的の外の同じ場所をずっと狙っているんだ」

 バカみたいな話なのですが、こういうことに、自分ではなかなか気づくことができないものなのです。
 他人に過剰に期待するより、自分の思い込みをリセットしてみるほうが、たぶん、正解に近づきやすいはず。


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