いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

「他人に助けてもらうための技術」について


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これを読んで、何か「いいこと」を書こうと思ったのだが、全然書けない。
何を言っても「上から目線」になりそうだし。
ただ、直接は関係ないかもしれないけれど、読みながら、このエントリの出来事を思い出していた。


fujipon.hatenablog.com


大学とか人生のことと、図書館の本を汚してしまったときのこと。
「重み」は全く違うかもしれないけれど、たぶん、ベクトルは同じ方向なのではなかろうか。

僕は昔から、人に頼るのが苦手だった。
頼み事をするのも、電話をかけるのも、何かを相談したりされたりするのも苦手だった。
そもそも、他人に何かを相談したところで、自分自身で考えた以上の答えが出るなんて思えなかったのだ。
所詮、他人事ではあるし。


でも、40年以上も生きてきて、ようやくわかったことがあるのです。
世の中の大概の困ったことや状況には、抜け道というか、救済のための手段みたいなものがある、ということ。

先日、友人がこんな話をしてくれました。
彼はある資格試験を受ける予定だったのだが、うっかりして、その資格の申請のために必要な研修の受講をひとつだけ忘れていたのです。
試験前にもその研修の予定があるのですが、ホームページをみると、もう申し込みは締め切られていました。
ああ、これはもう来年また受け直すしかないのかな、と彼は落胆していましたが、ダメもとでその資格を審査しているところに連絡をしてみたそうです。
こういう事情で、試験を受けられそうにないのですが、なんとかならないでしょうか?

すると、担当者は「そういう事情でしたら、特例として研修を受講できるようにしますから、すぐ申し込みをしてください」と助け舟を出してくれたのです。

彼は言っていました。
もし、ホームページをみて諦めていたら、受験できなかった。とりあえず、訊ねてみるものだねえ、って。

もちろん、世の中のすべてに、こんな救済措置があるわけじゃない。
今回は運が良かった、そして、担当者が親切で融通が利く組織だった、ということもあるでしょう。
でも、「あたってみて、たとえダメだったとしても、今より状況が悪くなるわけじゃない」のだよね、こういうのって。
それでも、「そんなのダメに決まってるでしょ」と否定されたときに自分のプライドが傷つけられるという状況を想像して、二の足を踏んでしまう。
少なくとも、僕はそういうタイプの人間です。
若い頃は、(携帯電話など無かった時代だ)誰かの家に電話するときも「今は、ご飯を食べている時間じゃないかな……」とためらい、「人気のドラマを観ているんじゃないか」と迷い、そのうち、「こんな遅い時間にかけたら失礼かな……」という気分になって、結局、電話をかけられない。
それで本当に困るのは、自分自身と相手なのに。
そういう「小さな気配り」のつもりだったもので、「大きな迷惑」を生んでしまうことが少なからずありました。
人というのは、大きな理由で何もできなくなることよりも、「なんとなく今日じゃなくて明日に先送りしよう」としているうちに、いつまでも「明日」にならないで詰んでしまうことが、けっこうあるんじゃないかと思います。


fujipon.hatenadiary.com


この本のなかに、こんな話が出てきます。
著者は、取材対象の23歳の女性に、生活保護を受給することをすすめます。
そして、彼女と一緒に福祉事務所に行く約束をして、預金通帳の記録や給与明細、ハローワークから紹介された企業の面接を受けた記録、精神科から処方された薬の処方箋などを可能なかぎり、準備しておくようにメールしました。
ところが……

「でも〜、やっぱ無理だって。生活保護受けたら、やっぱり周囲の目だってあるし。いままで無収入で生きてきたことだって、普通に考えたら彼氏がいて養ってもらっているって思われるに決まってるじゃん。そうじゃないことを、どう説明するのかわからない。出会い系でどうのこうのとか話すとか、絶対無理だし、言うぐらいなら死ぬ。この辺、本当に田舎だから」
 返答までに数十秒の間のある、きわめてスローな問答。救済の必要な人間に救済を説得するという、言いようのない不条理……。だが彼女が切々と訴えるのは、まずは生活保護や精神科を受診していることについての差別だった。

彼女は「資料はひとつも用意していなかった」そうです。
いままでの環境とか、受けてきた教育とかは、たしかにあるのでしょう。
でも、「自分で自分を救おうという最低限の努力」すら、放棄してしまった人に、他者は、何ができるのだろう?


目の前にドアがあって、その中には、たぶん、誰かがいる。
全力でそのドアをノックして、「助けてください!」と叫べば、なんとかしてくれるかもしれない。
大部分の人は、そのドアをノックすることをためらわないはずです。
中には、そんなに切迫した状況ではなさそうなのに、しょっちゅうドアをノックしてばかりで、うんざりされてしまう人もいます。


しかしながら、そのドアをノックするという「(多くの人にとって)あたりまえのこと」ができない人がいる。
「人に迷惑をかけたくない」とか「自分が苦しんでいるのを見せるのが恥ずかしい」とか、ノックする前に自分のなかで理由を探してしまって、その場に立ちすくんでしまう人がいる。
「人がいる」というか、僕もそういう人間で、それを自覚しながらもなかなかうまくノックできず、そんな自分に辟易したり、なんとか鼓舞したりを続けているのです。


実際にノックしてみると、拍子抜けするほどあっさりと、受け入れてもらえたり、助けてもらえたりするんですよ。
それでも、毎回、僕はそのドアの前でためらってしまう。
これはもう、そういう経験を積み重ねていくというか、「練習」したり、慣れたりしていくしかないのかもしれない。
「他人に助けてもらうための技術」は、人が「普通に」生きていくために必要なもので、それは「甘え」でも「みじめ」でもない。
みんな、お互いにそうやって補完しあって生きているだけのことなのだから。


……まあ、こうしてネットで偉そうに書くのは簡単なんですけどね。
実際に「助けて、と声をあげる」「ドアをノックする」っていうのは、大人になればなるほど難しくもなるし。
本当は、子どもの頃から、「そういうトレーニング」を親がさせる、あるいは、学生時代に自分で意識してやっておくべきなのかもしれません。
そういえば、僕も試験前に「資料コピーさせて」って頼むのがけっこうつらかったなあ。
ただ、なんとかそれができるくらいには「適応」できていた、とも言えるのか。


その年齢になってようやく気づいたのかよ、と言われることは百も承知で書きますが、世の中の大概の問題に対しては、何らかの救済の手段があるのです。
人間はミスをする生き物だし、困っている人を助けてあげたい、という「善性」みたいなものを持っている人は少なくない。社会も、そういう人がいるのは了解していて、サポートするためのシステムもある。もちろん、万全ではないかもしれないけれど。


でも、自分から「助けて!」と声をあげない人には、向こうから手を差し伸べてはくれない。
それは、不親切だからではなくて、シンプルに「外観だけではわからないし、全員をスクリーニングする余裕もないから」です。
「世の中そんなに甘くない」と言うけれど、「世の中は甘くない」という先入観が、自分自身をがんじがらめにしてしまっているところもあるのだと思います。
100人いて、そのうちの1人が手を差し伸べてくれるくらいでも、生きるのには十分なんですよ。
どうしても、「否定してくる10人」を恐れてしまいがちだけれど。
(たぶん、90人くらいは「無関心」です)


冒頭のエントリに関して言えば、こうして「言葉」にできたことで、少し前に進めたのではないか、という気がするんですよね。
でもさ、どうしたら良いのだろうね。まだ20代前半だったら、いくらでもやりようはあるとは思うけど。


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しかし、このエントリを読むと、他人に「プライドを捨てろ」とか「他人に頼れ」と言うのは簡単だけど、自分のこととなるとそれができる人は少ないのだ、ということもわかるような気がします。


「他人に迷惑をかけたくない」のは、よくわかる。
それでも、他人に迷惑をかけずに生きることなんて、誰にもできない。
だから、「迷惑をかけることがあっても、他のところで他人から受ける迷惑に寛容であること」で、おあいこ、くらいに考えていくしかない。
まあ、そう考えることが難しいというのが、問題なんだろうけど。
それに、「困っている人を助けるのが苦にならない人」もいるんですよ。それも少なからず。


ドアの前で何年間待っていても、それが向こうから開いてくれることは、滅多にありません。
イヤでも、みじめに思えても、相手に迷惑かけるんじゃないかと不安でも、ノックしてみるしか、変える方法は無いのです。
最初は、どんなに小さくて弱い音でも。


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