いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

「優れたコンテンツを生み出す原資として収益は不可欠なもの」なのだろうか?


staff.hatenablog.com


 そうか……というか、いままで個人営利利用が許されていなかったから、『はてな』では、いわゆる「いかがでしたかサイト」「勝手サイト」が目立たなかったのだな、と思い至ったのです。


fujipon.hatenablog.com


 まあでも、これも時代の流れ、なのかな……
 
 冒頭の『はてな』からのリリースで気になったのは、この部分です。

 近年ではアフィリエイト広告掲載の意義が広く認知され、個人が収益を意識してブログを運営することは一般的なものとして浸透しており、優れたコンテンツを生み出す原資として収益は不可欠なものとも考えられるようになっています。


 これに関しては、半分賛成、半分反対、という感じなんですよ。
 僕はけっこう長い間ブログをやっていて、Google AdsenseAmazonである程度の収入を得ています。
 そこで実感しているのは、「人は、一度定期的に収入を得てしまうと、それを失うことのストレスが大きい」ということなんですよ。
 以前は、イヤなことがあるたびに、ブログを休んだりプライベートモードにしたりしていたのですが、最近はそういうときでも、「しかし、更新しないまでも、公開しておくだけで、少しは稼げるのだよなあ」と、「プチ消え去りたい衝動」みたいなものを抑えて、しばらくSwitchで『ファイヤーエムブレム』をやることにしています。しかしこのFE、面白いんだけど、「僕がやりたいFEはこういうのじゃないのに……もっと戦わせてくれ……」って思いますね。

 率直なところ、個人ブログレベルで、面白いコンテンツを生み出すには、お金よりも感情の動き、とくに「怒り」や「悲しみ」が大きいのではないでしょうか。
 noteとか『はてな匿名ダイアリー』とかで人気になっているのも「暴露もの」「告白もの」が多いですし。
 
 優れたコンテンツを生み出すのには「原資」が必要、というのは、企業サイトにはあてはまるとしても、個人サイトにとってのお金は「劇薬」ではなかろうか。
 ネットでお金が稼げるようになるということは、「燃えかすのようになってもまだ書き続ける動機」になるとしても、本当に優れたコンテンツを生み出すことにつながるかどうか、僕は疑問なのです。
 なまじっか「稼げる」「これまでの収入を失いたくない」ために、検索順位だけは高い、クリックした人をムカつかせるコンテンツが粗製乱造されていく。

 アンディ・ウォーホルは、1968年に「未来には、誰でも15 分間は世界的な有名人になれるだろう」と言っていますが、人間として生きていれば、「誰でも一生にひとつくらいはバズる(って言葉、僕は大嫌いなので基本的には使わないんですけどね。流行るとか、たくさんの人に注目される、という意味です)エントリを書くことができる」と僕は感じています。蜂の一刺し、みたいなものですね。

 受け手の立場から考えると、「そういう、一生に一度の晴れ舞台みたいなエントリ」を消化していくだけでも十分なのではないか」という気もするんですよ。世の中には、人間がこんなにたくさんいますし。

 多くの人が発信者になれる時代だからこそ、コンテンツ間の競争は激しくなる。50年前も今も、一日は24時間しかない。
 僕が子どもだった40年前くらいは、夜に本当になにもすることがなくて、心底ヒマで、「死んだらどうなるんだろう……」とか「布団から足を出して寝ると平家の落ち武者に足を奪われるらしい……」とか、暗い天井をみながら考えて
いる時間がありました。
 今は、向かってくる情報を消化するだけで、一日はあわただしく過ぎていく。
 けっこう長い間ネットのコンテンツをみてきての結論は、ある発信者が長いあいだ稼ぐためには、「(他人を)叩かせるのが上手い」か、「(自分が)叩かれるのが上手」かしかないのです。

 そして、発信者は「信者をつくってコンテンツが枯れても稼ごうとする人」と「一発屋」に、二極化しているのです。

 ブログでセミナーとかをやっている人は大勢いるけれど、僕は寡聞にして、セミナーのおかげで大成功した、という人
を知りません。あれはあれで、仲間づくりのサークルとして楽しければ良いのではないかとは思いますが、全員がそういう割り切り方をしているわけではないでしょう。

 
 最近のnoteを眺めていると、なんだか大学のサークルの勧誘会を講堂でみているような気がしてきます。
 たぶん、普通のテキストもたくさんあるのだろうけど、それは見えにくくなってしまっている。
 
 僕自身も実感せざるをえないのですが「お金になる(かもしれない)」というのは、かなり強い影響があって、「何を書くか」という際に「お金になりそうなほう」「PV(ページビュー:閲覧数)を稼げそうなほう」に引き寄せられてしまいがちです。
 ましてや、商用サイトでは、なおさら、そうならざるをえないでしょう。
 褒めて薦めるか罵倒して話題にならないとお金にならないから、提灯持ちと強い批判の記事だけが増えていく。
 松屋のバターチキンカレーって、そんなに絶賛するほど旨いかなあ(ゴロゴロチキンカレーはけっこう美味しいと思うけど)。


 一部の「本当にそれを仕事としてやり遂げられる人」を除けば、「自由に生きられるくらい、ブログでお金を稼ぐ」のは至難の業です。それで生き続けようと思うのであれば、常に自分のブログが検索譲位で価値ある情報でなければならないのだから。

 ちょっとしたお小遣いにでもなれば、という範囲であれば、現実的な選択ではあるけれど、正直、「稼ぐ」効率からいうと、内職のほうが確実で時間あたりの平均収入は高いと思います。


 ブログを書くのが好きで好きで、書ければ死んでもいい、という人か、なんとか自宅で稼ぎたい、という人でもないと(後者には、もっと向いている仕事もあると思う)、「書いて稼ぎ続ける」のは難しい。
 
 ただ、これだけは言っておきたいのです。
 ブログやSNSが起こした、いちばん大きな「革命」というのは「それでお金が稼げるようになったこと」ではなくて、「お金にならない個人の言葉や文章が、多くの人に読まれる可能性ができたこと」なんですよ。
 インターネット以前は、マイクを持って駅前で演説するとか、同人誌にお金を払って載せてもらうとか、新聞に投書するとか、ラジオやジャンプ放送局ハガキ職人になるしかなかったのに。
 
 書いたものがお金にならない、というと、なんだか悔しく感じるかもしれませんが、「お金にならないような、無名の人の作品やニッチなジャンルのものでも、多くの人に見てもらえるチャンスができた」と思えば、けっこう良い時代なんですよ。
 僕はインターネットがない時代だったら、本好きのオッサンとして生きて、いまわのきわに「何か自分でも書いてみればよかったなあ」とか、ぼんやりと後悔して死んでいた。
 駅前で自分の詩集を売る勇気はないし。

 でも、こうして、誰かに読んでもらえているというのは、とても不思議で幸せなことだと思うし、こうして自分のつまらない人生や思考がブログに蓄積されていることに、なんだかけっこう喜びも感じているのです。
 まあ、長すぎる遺書、みたいなものです。

 
 もちろん、お金になればラッキーではありますが、僕がなんとか「お金になる仕事」を現実で続けていられるのは、こういう場所があるからなのです。


 こういう時代だからこそ、「お金のためじゃないブログ」は、けっこう楽しい。


note.mu 
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