いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

「風呂場で涙した66歳男性」と「他人に自分の価値観を押し付けない」ことの難しさ


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 昨夜、これを読んで、ずっと考えていたのです。
 この66歳の男性は、自分の20年後の姿ではなかろうか、でも、僕は自己肯定感が低いので、そんなに自分の価値観を他者に押し付けてはいないはず……とか思っているのは自分だけで、周りからみれば、やっぱり、「お前は煙たい」とか、「兄弟のなかで、贔屓されていた」のかもしれない……

 鴻上さんの回答のすばらしさは、最初に「よく勇気を出して相談してくれましたね」と相談者を持ち上げているところだと思います。
 そして、「あなたはこれからでも変わることができる」と励ますのと同時に、「いままで積み重ねてきた既存の人間関係を改善するのは難しい」という、かなり残酷かつ冷静な状況判断をきちんとしているのです。
 身内だから、長年の付き合いだから、自分で「心を入れ替えた」としても、うまく伝わらないことはありますよね。
 相手からすれば、それくらいのことで、今までの「借り」を返したつもりになるな、という感情もあるでしょうし。

「他人に自分の価値観を押し付けない」というのは、すごく難しいのです。
 僕はわりと「できないことはできない」と割り切って生きてきたつもりで、大人になって体育の授業とかに出ずに済むようになったことがうれしくてしょうがないのですが、現実に「できないと言ってやらない人」を温かい目で見守る、というのが正解なのかどうか、いまだによくわかりません。
 そうか、できないのなら、しょうがないね、で済む話なら良いのだけれど、世の中には、けっこう理不尽に感じられる「できない」もある。
 仕事はできないけれど、遊びには行ける、という「新型うつ」って、最近ほとんど耳にしなくなりましたが、結局、うつの一形態として認知されたのでしょうか、それとも、「やっぱりそれは違うだろう」ということになっているのだろうか。


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 先日、知り合いの劇画原作者に聞いた話なのですが、小学生の子どもが「学校に行きたくない」と言い出したそうです。
 その理由が「掃除当番のときに、虫がいるところを掃除するのが怖いから」というもので、果たしてそれは、どう解決すべきなのか、すごく困った、と。
 「虫なんて怖くないし、そんなの学校に行かない理由にはならないよ」というのは「こちらの価値観の押し付け」ですよね。
 当事者にとっては、切実な問題なのだから。
 では、掃除当番の場所を変わってもらえば、と話したところ、それも「先生にそんなこと言えないし、友達にも迷惑がかかるから」という返事だったのです。子どもには、子どもなりのプライドや事情もある。
 こういうのは、どうすればよいのか。相手は虫だけに、「出てくるな」と説得しようもないし、親が介入して、「掃除の場所を変えてやってくれ」と申し出るべきなのか。あるいは、殺虫剤を持って乗り込んでいくべきなのか。
 虫を見たらショック死する、というレベルの症状ではなく、「怖い」という感情で、クラスの一員としての役割を拒否することができるのか。そういう子に「嫌いでも、怖くてもがんばれ、克服できる」と言うべきなのか。

 そういえば、僕も昔、通学路に蛇がいたのを見て、そこを通るのが怖くてしかたがなかったことがありました。
 しばらく、おそるおそる通学していた記憶があります。
 でも、「学校には行くのが当然だ」という価値観を刷り込まれていたので、それを理由に学校に行かない、ということはありませんでした。
 というか、それを理由にするのは許されない、と自分のなかで判断していたのです。

 そういう判断基準は、人それぞれの中にあるものだし、今の時代はとくに、その人固有の悩みや他者と違うところを認め、解決法を探っていく、ということが重視されます。
 
 とはいえ、「できないものはできない」を「じゃあしょうがないね」と全て受け入れられるかというと、なかなか難しい。
「できない」と「やりたくない」の境界って、よくわからないですよね。「やってもできない」ならしょうがなくて、「やればできるのにどうしてもやりたくないからできない」は悪なのか?

 「上から目線をやめる」「対等な人間関係をつくる」というのも難しい面はあります。
 この66歳男性は、「無意識に」自分の価値観で周りにマウンティングしているわけですが、経済的に恵まれているとか、社会的地位が高いというような人は、「相手と対等な立場であろうと努力している」と、「内心では俺のことをバカにしているのに、憐れみをかけやがって!」みたいな受け止められ方をされることも少なくありません。
 それで、同じような収入とか環境の「仲間」で小さな世界をつくってしまう。
 だから相手のほうが悪い、とか、そういう話じゃなくて、人間関係って、どうしようもないというか、自分なりにできることをやっていても、うまくいかないことが多いのです。
 世の中には「仕切り屋」的な存在でも、周囲に人が絶えないというタイプも大勢います。
 
 ネットでの反応をみていると、この66歳男性を「老害」と切り捨てる人も少なくないのですが、この人もある意味「コミュニケーション弱者」ではないか、と僕は感じています。
 そういう「マウンティング的なコミュニケーションしかとれない人生をおくってきた」のは、この人が悪いから、というより、そういう生き方しかできなかったからではなかろうか。

 鴻上さんのアドバイスは、ものすごく的確なのですが、僕がこれを読みながら考えていたのは、この人は「人は孤独では生きられない」というのを実感しているのか、それとも、自分のなかで思い描いていた「家族や友人に囲まれて過ごす、幸せな老後という理想の崩壊」に絶望しているのか、ということだったのです。
 人生を「変える」ことは、66歳からでも、できるかもしれない。
 でも、その年齢になって、「世の中の『老後の幸せとは、こういうものだ』という価値観」に合わせようとすることは、本当に幸せなのだろうか。
 既成のロールモデルにとらわれすぎているのではないか。

 僕にとっては、66歳というのは、生きていれば20年後くらいの話なのですが、年齢とともに、「うまく説明しようもない寂しさや虚しさ」とか「他人に合わせるのがつらい感じ」は増してくるように感じます。
 でも、僕自身は、友達がいなくても、ネットと本とゲームくらいあれば、それなりに生きていけるだろうし、そういう老後で良いというか、そのほうがラクなんじゃないか、と思っています。というか、そういう覚悟をしておこう、と決めています。
 今は、そういう生き方、死に方ができる時代になったのだし。
 病気をしたらどうする、とか、孤独死したら、なんて心配する人もいますが、家族に過剰な負担をかけて「大事に介護してもらう」よりは、他人にお金を払って仕事としてやってもらったほうが気楽だし、死ぬときは人間みんなひとりです。あまり処分するのが面倒な遺体にならないようにしたい、とは思うけれど。
 まあ、これも「価値観の押し付け」ではありますが。


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孤独と不安のレッスン (だいわ文庫)

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日本の「老後」の正体 (幻冬舎新書)

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