いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

「自分の子どもをどうしても愛せない、あるいは、虐待してしまう親は、どうすれば良いのだろうか?」

zuisho.hatenadiary.jp


 あの事件のことを僕も考えていました。
fujipon.hatenadiary.jp


 そうなのだ、僕もあのニュースで女の子がノートに書いた言葉を知って、「親も同じ目に遭わせてやればいい」と激高せずにはいられませんでした。
 でも、そのあと、また考え込まずにはいられなかったのです。

「自分の子どもをどうしても愛せない、あるいは、虐待してしまう親は、どうすれば良いのだろうか?」

 先日、スティーブ・ジョブズの伝記映画を観ました。
 ジョブズは若い頃に一時期つきあっていた女性との間に、リサという娘がいたのです。
 だが、ジョブズは彼女を自分の血のつながった娘だと認めようとせず(DNA鑑定までしたのに)、ジョブズはリサについて、「アメリカ男性の28%が父親の可能性がある」という発言までしていました。
 ジョブズが自分のつくったパソコンに「リサ」の名前をつけたことで、「本当はリサのことを愛していたのだ」というような美談風にまとめられることが多いのですが、正直、「そんなまわりくどい愛情表現なんて意味ないだろ」としか僕には思えませんでした。
 ジョブズは、「リサ」という自分の娘が地球上のどこかにいる、という概念は愛していたのかもしれないけれど、現実に目の前にいる女の子には戸惑いしか感じなかったのではないだろうか。
 これは、僕の勝手な想像なのですが。


 世の中の多数派の人たちは、「親子だから、兄弟だから強い愛情を持つのが当然だ」と、テレビの画面の向こうにいる「子どもを虐待する親」を責めるけれど、現実問題としては、仲の悪い親子なんて星の数ほどいるし、兄弟の関係だって、コンビ芸人とそんなに変わらないのではないでしょうか。
 お互いに「自分の世界や役割」を持つようになると、疎遠になったり、ときには邪魔になったりすることもある。
 
 
 それにしても、「子どもができてしまう行為」と「できてしまった子どもに愛情を持てる才能や責任感」の間には、あまりにも深い溝がありすぎる。もちろん、それを意識して連結している人のほうが多いのでしょうが、快楽目的でやっても、子どもを育てることに向いていなくても、できるときはできるし、人は親になってしまう。本人たちが望んでいない場合にも。
 親が育児に向いている場合にだけ子どもができるような仕組みになっていれば良かったのかもしれないけれど、残念ながら、そうはなっていない。


 大部分の人は「親は子どもを愛せるものだ、愛せるのが普通なのだ」と信じています。
 まあでも、それは悪いことばかりではないのでしょう。
 そういう「社会的なプレッシャー」がなければ、赤ちゃんポストを全国各地のコンビニにつくらざるをえなくなりそうだし。
 生活保護と同じで、「実際は必要としている人がたくさんいる」のだけれど、「そういう人たちが全員もらってしまうと制度がパンクしてしまう」という物事は、世の中に少なからず存在しています。


「家族だからといって、お互いを愛し、尊重しあえるとはかぎらない」のです。
 それは、とても不都合な現実なのだけれども。


 ああいう「子どもを虐待する親」をみると、心底「ひどい、親の資格がない」と思うよ。
 でも、僕はそこで、考え込んでしまう。
 僕はつねに、「完璧な親」なのだろうか?
 

fujipon.hatenadiary.com



 ……いや、考え込むまでもなく、完璧でもなんでもないし、忙しいときには、子どもの話を真剣に聞かなかったり、声を荒げたりすることもあるのです。怒ることだってある。


fujipon.hatenablog.com


 上記で紹介している本には、さまざまな「歪んだ親子の形」が描かれています。
 今回のような「暴力やネグレクト(育児放棄)を伴うような虐待」だとわかりやすいのだけれど、実際には、「子どもに大きな期待をかけてプレッシャーを与え続け、自由を奪ってしまう」というケースもあるわけです。
 これで結果的に東大に子どもが入れば「育児に成功した親の本」の出来上がりです。


 『強父論』で、阿川弘之さんについて、娘である佐和子さんがこんな話をされています。

 父の愛は常に条件つきだった。そのことに、私はかなり幼い頃から本能的に気づいていた。広島から連れ戻された日のことがトラウマになっていたかどうかはわからないが、とにかく父のそばにいると、得も言われぬ緊張感に教われた。いつ𠮟られるかわからない。いつ父が豹変するかわからない。だからなるべく兄や母の陰に隠れているほうが安全だ。そうとわかっていても、生来がおとなしい性格ではなかったから、ときどき油断して大失敗を犯す。
 夕食どきのことである。父と兄と私が食卓につき、母やたぶん、台所と食卓を行き来しながら料理をつくっていたと思う。
「今日ね、幼稚園でね」
 私は喋り始めた。
「いっこちゃんがね、けいちゃんもいたんだけどね、そのとき先生が来て、早くお帰りの支度をしなさいって言われてね、でも佐和子はまだ支度ができていなくてね……」
 内容はさておき、まあ、そんな具合に話し始めたのであろう。するとまもなく、
「なにが言いたいんだ、お前は。さっぱりわからん。結論から言え、結論から!」
 父が突然、私を怒鳴りつけた。私はなにが起こったのか理解できず、結論ってものがなんだかもわからず、泣き出した。すると今度は、
「食事中に泣くな。黙ってご飯を食べなさい」
 私は嗚咽しながら無理やり食べ物を口に運んだ。怖くて悲しくて吐きそうになった。あの恐怖の夕餉事件のことはいまだに忘れられない。


 この親子の場合、弘之さんのやり方が正しかったのか、娘が長じて「阿川佐和子」として成功者になったから、正しい(あるいは、そんなに間違っていなかった)ことになっているのか、僕にはわかりません。
 「結果論」というか、送りバントに失敗して2ストライクになったけれど、ヒッティングに切り替えたらホームランを打った、みたいな話のような気もします。
「特定のカルト宗教にハマってしまった親」なんていうケースもありますし……
 そういうのも、親に「悪気」はないのですよね。


 僕も含めて、親というのは、ほとんどが多かれ少なかれ「毒親」的な要素を持っているし、子どもというのは、親が完璧ではなくても、大概は、それなりに育つものではないか、と。
 そのくらいに考えておかないと、あまりのプレッシャーに、逃げ出したくなるのです。


 「親は子どもを愛するのが当然」とはいっても、「愛しているから自由に遊ばせてあげる」という人もいれば、「愛しているから将来困らないように塾に通わせ、習い事をきちんとさせる」という人もいるわけですよ。
 まあ、「愛するとはどういうことか」の定義に比べたら、虐待やネグレクトなどの「絶対にやってはいけないこと」は考えやすいとは思います。


 少なくとも「それなりの愛情は持てるし、『絶対にやってはいけないこと』はしない」という条件を満たしていれば、あとはもう運、みたいなものでしょう。

 ただ、そこで「どうしても子どもを愛せない」あるいは「子どもがいるのはわかっていても、『○○ちゃんの親』ではなく、ひとりの人間として、自分の人生を愉しむことを優先したい」という人はいるわけです。
 彼らは困った存在ではあるのですが、だからといって、そういうタイプの人に「親は子どもを愛するのが当たり前だから愛しなさい」って言ったら、愛せるようになるってわけじゃないですよね。

 「愛することの強要」は、大人同士だって不可能です。
 愛していたはずなのに、ズレが生じてきて、気持ちが変わってしまうこともある。
 それでも、大人の場合は「別々に生きていく」こともできる。

 しかしながら、子どもの場合は、「じゃあ、お互いにひとりで生きていこう」というわけにはいかない。
 誰かが、守って、支えていかなくてはならない。それが、難しい。
 なんのかんの言っても「親がそれをやってくれるのが最優先」ではあります。


 それでも、これからは「自分の子どもを愛せないことをカミングアウトできる世の中」に変えていかざるをえないと思うのです。
 「子どもをどうしても愛せないのであれば、彼らの子どもを育てたいと望み、その能力がありそうな人に任せられるシステム」をつくり、そういう選択をする親たちが責められないように。
 親たちは自分自身を責めずにはいられないかもしれないけれども。


 虐待やネグレクトに関する本をいくつか読んでみて感じるのは、それが起こるのは、往々にして、その家族が社会から「孤立」している状況下である、ということなんですよ。
 
 今回の報道で、憤り、やりきれない気持ちになった人たちが大勢いるはずです。
 そして、「うちの虐待がバレたらどうしよう」と戦々恐々としている人たちも。

 方法は、現状でも無いわけじゃない。
 緊急避難的には「赤ちゃんポスト」だってあるし、児童養護施設も、養子縁組制度も日本にはあるのです。精神科での専門治療が望ましい状態の親だっている。
 「そういうことをする親」への風当たりが強いというのには、「安易にそういう仕組みに頼るのを防ぐ効果」とともに「親が苦しんでいても、世間体を考えると子どもから離れるわけにもいかず、その結果として虐待やネグレクトが密室化し、隠蔽されていく傾向」にもつながります。
 さらに孤立が深まり、虐待も酷くなっていきがちです。
 そうすると「傷を見られてしまうから、外には出せないし、病院にも連れていけない」という悪循環に陥ります。


 「こうすれば、人は、愛すべき人を絶対に愛せるようになる」というライフハックは、残念ながらどこにもないのです。「愛しているフリ」ならできるかもしれないけれど。
 「子どもを愛することができない(あるいは、愛しているつもりなのに、虐待してしまう)親がいて、それは、その親自身にとってもつらいことなのだ」
 まずは、それを認めるところからはじめないと仕方がない。


子どもの脳を傷つける親たち NHK出版新書

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強父論 (文春e-book)

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