これをはじめて読んだときには「確かに、人が何かを信じたり、誰かを応援したりするって、基本的には自由だよな」と思ったのです。
その信じる相手がどんなに酷いことをしたとしても、情として、見捨てられない、「好き」という感情を止めることができない、ということはある。
たとえば、自分の親兄弟や子どもが、殺人者やテロリストになってしまった、という状況下で「あいつはあんなことをやったから、もう自分とは関係ありません」なんて言い切れる人って、あまりいないはずです。
「被害者には申し訳ないけれど、身内を信じたいし、更生が許されるのならサポートしたい」という感情のほうが、僕には想像しやすい。
逆に、ある人がオウム真理教に帰依していて、信仰のためなら、誘拐や殺人、サリンを撒くことも辞さない、という場合は、周囲が強制してでも、その信仰を止めさせるべきでしょう。
それを信仰し、教義を実践することは、現代の考え方として「自己責任」の範囲を逸脱しているから。
では、「好きなアーティストの不祥事」に対しては、どのように対処すべきなのか?
人と、その人が創ったものを切り離して味わう、というのは、けっこう難しい。
佐村河内さんのさまざまなスキャンダルが暴かれたことによって、彼が作曲したとされる曲を平常心で聴くことは難しくなりました。
そこで流れている音楽そのものは、以前とまったく同じものなのに。
「物語」に支えられているコンテンツというのは、その物語が崩壊してしまうと、価値が変わってしまうのです。
ファンキー加藤さんは人間性というかキャラクターと曲が一体化している(と多くの人は考えていた)アーティストだったので、「純愛」を歌っていたはずの人が、W不倫をやっていたということには意外性がありました。
僕のなかには「あんなキレイゴトばっかり言ってるヤツにかぎって、一皮むけばこんなものさ」というような「黒い満足感」みたいなものもあるのです。
応援ソングとか純愛とか苦手だからさ、基本的に。
本人がバッシングされるのは、致し方ないでしょう。
「純愛キャラ」で商売をしていたのだから、失望されたファンも多かったはず。
ただ、「それでも彼を応援する」という人にまで、「バカ」とか「あんな酷い人間をよく応援できますね」なんて罵声を浴びせるのが正しいことなのかどうか。
個人的には「他者に迷惑をかけない範囲であれば、好きでいたいのなら勝手にすればいい」と思うだけです。
人間って、正しいものを信じるとは限らなくて、好きなもの、信じたいものを信じるものだから。
『サブイボマスク』を観に行く人がいれば、映画の関係者も喜ぶでしょうし。
商業音楽も映画も、加藤さんひとりで作っているわけでもないし、加藤さん一人の懐にすべてが入るわけでもない。
それでも、ひとつのプロジェクトの「顔」としての責任はあるし、今回の件では「自分の価値を暴落させた」と言わざるをえない。
でも、加藤さんは自分がどういうふうに周囲にみられているか、よくわかっていたと思うし、こんな「不倫」が発覚したらどうなるかも想像できていたはずです。
それでもやらずにはいられなかったということに、人間の業というか、「不倫への誘惑」というのは、ここまで抗い難いものなのか、と、考え込んでしまうところもあるのです。
又吉直樹さんが『夜を乗り越える』という新書のなかで、こんなことを書いておられます。
『火花』の中で「共感至上主義の奴等って気持ち悪いやん?」と書きました。本の話題になると、「私は共感できなかった」という人がけっこういます。いや、あなたの世界が完成形であって、そこからはみ出したものは全部許せないというそのスタンスってなんだろうと思うんです。あなたも僕も途上だし、未完成の人間でしょう。それをなぜ「共感できない」というキラーワードで決めつけてしまうのか。「共感できない」という言葉でその作品を規定しない方がいいと思うんです。むしろわからないことの方が、自分の幅を広げる可能性があります。
それに加えて、主人公の人格がすごく重要視されることが多いように思います。主人公がちゃんとした人物でないといけない、おかしいやつは許さないという。小説の主人公自体も世の中の共感至上主義に侵されなければならないのでしょうか。
たしかにこの「共感」というキラーワードが、あまりにも便利に使われ過ぎているのかもしれない、と僕も思うのです。
フィクションである小説や映画の登場人物だからこそ、「共感を持てないような人間の存在を実害を受けずに知ることができる」のだし。
芸能人、というのは、その「フィクション」と「身近にいる人」のちょうど中間くらいに位置している存在で、僕が子どもの頃、30年前くらいは、「まあ、芸能人だからね」ということで、「庶民と違うこと」が大目にみられたり、憧れられたりしていたのです。
今はどちらかというと「共感」を生む存在となることが「利益」につながりやすい。
ファンキー加藤さんというのは、熱烈なファンに「共感される」ことによって、売れてきた人なんですよね。
そのいちばんの商品が「偽装」だったことがバレてしまったのだから、「お前ら、騙されてるよ」って、まだその商品を買おうとしている人に言いたくなる気持ちも、わからなくはない。
正直僕も、「あんな不倫とかしながら『純愛』を歌っている人を、まだ信じられるのか?まだ期待しているのか?」って思いますよ、「頑張れって、不倫を?」とかさ。
ファンに面と向かって言おうとは思わないけど。
世の中には、「こうしてみんなに見捨てられている時期だらこそ、私が助けなきゃ!」って考える人っていうのも、少なからずいるんですよね。
信仰というのは、弾圧されるほど強くなる、という面もあります。
「それでも応援する」というファンに、元ファンだった人が「もうファンはやめたほうがいいよ」って言いたくなるのは理解できます。
そして、ファンキー加藤なんてどうでもいい、と思っていた人が、この機に乗じて「正義」を振りかざして、傷ついているファンに罵声を浴びせることには賛成しかねます。
少なくとも、ファンは「共犯者」ではない。
あんなことがあっても応援し続けられるなんて、「おめでたいな」とは思うけれど、おめでたいことは、罪ではない。
いまの世の中って、何も信じていない人が強いのかもしれない。
状況をみて、勝ち馬に乗って、水に落ちた犬を叩いてさえいればいいのかもしれない。
でもね、又吉さんも仰っていますが、「共感できるものばかりの世界」って、けっこう怖いんですよね。
あまりに清潔すぎる世界に生きていると、「共感を武器に近づいてきて、何かを致命的に損ねようとしているもの」がやって来たときに、それを感知する力が衰えてしまうのではなかろうか。
不倫って、本当にろくでもないことだし、僕も縁がないほうが良いと思っていますが、結局のところ「不倫が存在しない世界」というのは、記録に残されているかぎり、人類にとって経験したことがないのです。
「免疫力を高めるために、どんどん不倫しろ」とかいうわけにもいかないけれど。
何かを信じすぎている人は怖い。
でも、何も信じられない人は、生きづらいだろうな、と思う。
みんなに信じられている人も、きついよね、きっと。
もしかしたら、ファンキー加藤さんは「教祖」でいることが辛くなっていたのではなかろうか、そんなことを、僕はふと想像してしまうのです。
怒られるかもしれないけれど、僕は、あんな不倫をしてしまった加藤さんに、少しだけ「共感」しています。
ずっと、ああいう「応援」「純愛」系のアーティストって、大の苦手だったのに。
- 作者: 又吉直樹
- 出版社/メーカー: 小学館
- 発売日: 2016/06/01
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