いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

「できない人」のための生存戦略

kyoumoe.hatenablog.com


ああ、なんだかここに書かれていること、僕にもあてはまるなあ、なんて思いながら読みました。
僕は物事の優先順位をつけるのが苦手で、「絶対にやるべき、締め切り間近の仕事」があるにもかかわらず、あまり急がなくてもいいような些事を「これを先に終わらせてしまわなければ!」という強迫観念にとらわれて先にやろうとしてしまうことが少なからずあります。
完璧主義のはずなのに、途中で自分のイメージする「完璧」から少し外れてしまうと、「もういいや」と全部投げ出してしまいたくなる。
100か0か。
実際は60で十分だったり、100じゃなくても、60より70や80を目指すべきなのに。
40歳を過ぎると、自分がそういう人間であるということに慣れてきて、自分自身の取り扱いマニュアルみたいなものができてはいるんですけどね。
少なくとも臨床の場で、あまり不安定な仕事をするわけにはいかないので。
でも、夜中の呼び出しのときなどは、緊急事態に立ち向かわなければならないことそのものがものすごくつらくて、「もう無視してこのまま眠ってしまおうか」と、ふと思うことがあります。
もし「ボイコット」すれば、どうなってしまうのだろう?


けっこう、ギリギリなんだよね、普通に仕事をしているように外からは見えても。
ギリギリで、20年くらいやってきた。
けっこう危ないときもあったのだけれど、支えてくれる人もいて、なんとか持ちこたえてきました。

俺の場合はダメって言ってもそのダメ判定がすでに狂ってて、やり始めたら途中離脱しちゃダメだみたいな強迫観念があったのよ。
途中でやめたらそれこそ「何寝ぼけたこと言ってんだ」「何やっても言い訳して逃げる」「努力しない言い訳」みたいなこと言われるから。
でその結果何年かして突然あっこれダメだってなって逃げるようにやめるようになる。


「中途半端に投げ出してしまう人」のなかには、「いいかげん」じゃなくて、「100か0か」みたいな強迫観念に支配されていて、100が無理だと思うと、「じゃあ、0点でいいや」になってしまう人がいる。
100点以外は、全部0点にしか思えない。
「100点は無理だから、60点くらいになるように適当にやっておくか」っていうのが難しい。


fujipon.hatenablog.com


これは2年前に書いたものなのですが、このなかに「追加注文が嫌いな料理人」の話が出てきます。

これを書いていて、ふと思い出したのが、子供のころ、よく行っていた中華料理店の店主のことです。
その店、なんだかけっこうモダンな感じの中華料理を出していたのですが、なかなか美味しかったんですよ。
でも、ある日、注文するときに、接客をしていた店主の奥さんが、こんなお願いをしてきたのです。


「お客様、大変申し訳ないのですが、お料理の追加注文はなるべく無いようにお願いできますか……」


子供の頃の僕は、「えっ、なんで?」と、疑問でした。
まあ、確かに追加注文って面倒なのかもしれないけれども、店にとっては、売上はアップするし、そもそも、お客に「追加注文しないでください」なんて言うだけでも、けっこう印象悪いじゃないですか。
材料が足りないとか、閉店間際ならともかく、そういう状況でもなさそうなのに。


僕たちが「なんで?」って顔をしているのが伝わったのか、他のお客さんから何度も尋ねられているのかはわかりませんが、奥さんのほうから、こう説明してくれました。


「すみません……追加注文が入ると、店主の機嫌がすごく悪くなってしまうんです……」


まあ、「説明」としては、わかったようなわからないような話だっったのですけど、奥様の申し訳なさそうな様子をみて、それ以上は僕たちも何も言いませんでした。
内心「注文されるのが嫌なら、店やらなきゃいいのに」と、思ったんですよね、僕は。


家族のなかで、僕の父親だけは、なんとなく理解していたようで、「料理を作る手順が最初に決めたのと変わってしまうのが、嫌なんじゃないか。職人さんには、そういう人っているからなあ」と言っていたのを覚えています。


その店、数年後に無くなってしまったのですが、美味しかったし、お客さんも入ってはいたみたいなんですよね。
ただ、無くなる前の半年くらい行っていなかったので、無くなった原因はわかりません。
移転も、していないようでしたし。


最近、ある有名な歌人が、対談で「わたしは、自分の予定や手順が狂うのがすごく苦手で、突発的に何かが起こることに、すごくストレスを感じてしまう。それはアスペルガー的な性格らしい」という話をしていたのを読みました。
もしかしたら、あの店主も、そうだったのかな、なんて思ったんですよね。
(註:この「アスペルガー」という言葉は、医学的に診断をつけているわけではありません。僕は精神科医ではなく、この分野の知識にも乏しいので)


 僕はこのとき、「この人、料理人としてはやっていくのが大変だろうなあ」と思ったんですよ。
 でも、あらためて考えてみると、「料理人」という選択は、そんなに悪くないのかもしれません。
 

fujipon.hatenadiary.com


この新書のなかに、「発達障害と仕事」について、こんな記述があるのです。

 アスペルガーの治療では、本人が自分の不得手なことに気づき、周囲の理解を求めて役割分担することが重要です。長所と短所、得手と不得手をリストアップして分担するのです。


 一般に発達障害者が不得手としているのは、

(a)対人スキル、他者との協調性、適切な会話などの社会性

(b)感情や衝動性などのセルフコントロール

(c)金銭、時間、食事、睡眠などの日常生活やライフスタイルの管理

 などです。


 これに対して得意としているのは、

(a)コンピュータ、情報機器、機械類などの操作

(b)陶芸、美術、音楽などの創作技能

(c)ある種の専門的な分野の技能

 などです。


 これらの得手・不得手を踏まえて、周囲がサポートしてくれるのが理想となります。

 発達障害者の場合、仕事上の問題の多くは「自分に合わない仕事」をしているために起きています。逆にいえば、「自分に合う仕事」に就けば、健常者と同じく、あるいは、それ以上に力を発揮することもめずらしくありません。表現者として類まれな才能を発揮したさかもとさんですが、たとえば金銭の管理、教育、あるいは介護といった職に就いていたら、大いに苦戦したであろうことは想像がつくでしょう。

 発達障害者には、不注意傾向や衝動性など、明らかなハンディがあります。したがって、次のような仕事を選ぶのは、明らかに無理があります。


・綿密な金銭の管理

・書類の管理

・人事管理

・対人援助職(教師、保育士、看護師、介護士など)

・些細な不注意でも大事故にあう可能性がある危険な仕事


 しかし実際には、こうしたハンディを十分に考慮することなく、それどころか本人も家族も発達障害に気づかないまま仕事を選んでいるケースがほとんどです。


 こういう「向き・不向き」で考えると「大きな厨房で働く下っ端料理人」としては、この中華料理店主は不向きだったかもしれませんが、マイペースで仕事ができるオーナーシェフという選択は、悪くなかったと思うのです。
 自分の店でも自分の好きにできるわけではない、というのもまた、サービス業ではあるのですけど。
 そういう意味では、医療職とか金融業とかは、こういう人には最も不向きですよね。


 そもそも、世の中には「マッチョ職業」というのが少なからずあると僕は考えています。
 要するに「できないヤツを最初はサポートする」という前提があるとしても、「ミスがあったら大変なことになるから、適応できなかったり、時間がかかりすぎる人は辞めてくれ」あるいは「すば抜けた力があるやつ以外は必要ない」と、どんどん不適格者を振り落としていくような職業です。
 予定外の仕事がどんなにイヤでも、(休日や時間外も含めて)受け持ち患者が急変しても対応しない(できない)医者は臨床医としては失格でしょうし、結果を出せないプロ野球選手も「あいつはいいヤツだから」という理由では、ずっと現役を続けさせてはもらえません。
 医者とか学校の先生とかお金を扱う人とかいうのは、ひとつのミスで大きな負の影響を与えることがあるので、「まあ、そういうキャラクターなんだから、大目にみてやろう」とは周囲も思ってくれません。
 もちろん、程度問題ではあるのだけれど。


 そう、この程度問題というのが重要なところなんですよ。
 冒頭の文章をみていると、世の中は「適性がある人、できる人」と「できない人」の2種類にキッチリ分かれているように思われるのですが、実際は「どうしてもできない人」と「意識しなくてもできてしまう人」という「白黒」のあいだに、さまざまなグラデーションのグレーゾーンが広がっているのです。
 僕はたぶん、「できない人」に近いところで、なんとか自分を騙し騙しやっている。
 黒に近いグレー、なんですよ。
 そういう人は、世の中には少なからずいて、「なんとか自分は制御できている、苦労してそれをやっている」からこそ、「お前は努力が足りない」なんて厳しくあたってしまうこともあるのかもしれません。
 その「実感的な近さ」は、かえって、「同じようなところにいるはずなのに、なんで俺は苦しみながら働いて、お前は生活保護でブログばっかり書いていやがるんだ」みたいな反感を生むこともある。
 下衆な話をすれば、僕があまりそういう気分にならないのは、そんなに生活に困っていないから、ではあるのです。


 万人にあてはまる話ではないのかもしれないのですが、id:kyoumoeさんには「ブログでお金を稼ぐ」ような仕事が向いているような気がします。
 それで食べていくのは難しいかもしれないけれど、自分自身の持っているものと折り合いをつけるという意味では。
 こういうことを「言語化」するのって、ものすごく難しいのに、ものすごくわかりやすく書かれていて、これは「才能」なんだろうな、と思う。
 「仕事」っていうと、会社勤めとか接客業とか建設業とかが「ふつう」とか「まとも」だと思われがちだけれど、プロブロガーのような仕事が「正解」の人もいるんじゃないかな。
 プロブロガーって、水素水デマを流したり、高額なセミナーをやったりしなければ、世の中に迷惑かけないし(……って、お金のために、そうなってしまう人が多いから、バッシングされているのだよね)。


 生きるのが難しそうな人ほど、若いうちにコンピュータとか専門的な技能とかを身につけておいたほうが、将来きつい思いをしなくても済むのではなかろうか。


それにね、「なんでもキチンとやっている人」のなかには、こういう例もあるんですよね。
fujipon.hatenadiary.com


逆説的な話になるのだけれども、「いちばんめんどくさくない方法は、先回りして、面倒になりそうなことの芽をこまめに潰していくこと」なのです。


世の中にはいろんなタイプのキャラクター、生き方があって、画一的に語るのは難しい。


最近いちばん印象深かったのが、このイチロー選手の記事なのです。
www.hochi.co.jp

―好奇の目でみられたメジャーデビューの頃と違って、今はボンズら一流選手にリスペクトされている。


イチロー「数字を残せば人はそうなってくれるだけのことですよ。偉大な数字を残した人はたくさんいますけど、その人が偉大だとは限らない。むしろ反対の方が多いケースがあると思うし、だからモリターだったり、一緒にやったジーターだったり、すごいなと思います。ちょっと狂気に満ちたところがないとできない世界でもあるので。人格者であったらできないというところもあると思うんですよね。だから、そういう種類の人たちにこの記録を抜いていってほしいと思いますよ」


 イチローは「プロのトップレベルというのは、狂気に満ちたところがある世界なのだ」と言っているのです。
 暗に「自分も狂気のようなものを抱えているのだ」と告白しているのです。
 自分の興味と世の中のニーズが合致した「狂気の人々」が社会の「頂点」みたいなところに少数存在していて、それ以外の多数の「狂気の人々」は、社会そのものに適応していくのが難しい。
 それって、ある種の運でしかないのかもしれない。


 ただ、そういう現実のなかで、少しでも「自分が生きやすい場所」を摸索することって、けっこう大事なのではないかと僕は考えています。
 努力はもちろんできるに越したことはないけれど、自分ができる努力で報われやすいところを探すことのほうが、効率的ではなかろうか。
 明らかに不向きなところに突っ込んでいって、「なんでわかってくれないんだ」と言うのは、お互いにとって不幸だから。


 「朝起きられない人もいる」のは事実だと思う。
 ただ、目覚ましもかけずに「起きられないものは起きられない」って主張しても認めてはもらえないだろうし、それでも無理なら「朝起きなくても良い仕事」を探してみたほうが良いんじゃないかな。


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