いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

「露出狂」として生きていくのは難しい

参考リンク:芸術家は露出狂 - (チェコ好き)の日記


「批評家の大部分は、創作側にまわりたかったけどかなわなかった人間」だというのは、身につまされる話だなあ、とか思いながら読みました。
地獄変』は僕も大好きな作品なのですが、そういえばけっこう昔、デビュー直後くらいの裕木奈江さん(みんな覚えてる?)が、『好きな文学作品は『地獄変』」とどこかで言っているのを聞いて、「えっ?」と一瞬フリーズしたのを思いだしました。
秋元康さんお気に入り(だと当時言われていた)アイドルさんが『地獄変』だあ?
本当に読んだことがあるのかねえ……なんて内心疑っていたのですが、その後の裕木奈江さんの人生行路を考えると、あれは本当だったんだろうな、と。


こうしてブログなどを書いていると、いろんな反応をいただくのですが、まあなんというか、創作というか「人前に自分がつくった何かをさらす」というのは、かなり恥ずかしいことではあるんですよね。
「こんな稚拙なものを!」ってバカにされるんじゃないか、って。
そして、ある程度「反応」めいたものをもらえるようになると、なんだか怖くなってきたりもするのです。
「自分は、自分自身や周囲の人のプライバシーを切り売りしているのではないか?」。
「まとめサイト」とかだったら、そんなに悩まなくても良いのかもしれませんが、「日記的なもの」を書いていると、自分のことだけではなく、家族のことにも触れたくなりがちなものだし。


創作と家族について、いちばん印象的だったのは、息子との交流を描いた椎名誠さんの名作『岳物語』に関するものでした。
この『岳物語』は、不器用な父親と息子との交流を描いた「すばらしい作品」です。
でも、椎名さんの息子さんは、こうして自分が「モデル」になった作品が世に出てしまったことに、ずっと反発していたそうです。


「おとう、もうおれのことを本に書くのは、やめてくれよう」


岳物語』には、悪口なんて、書いてないんですよ、本当に。
傍からみれば「ほほえましいエピソード」ばかり。
でも、当事者にとっては、とくに子どもであれば、自分のことが、自分の知らないところで「作品」にされて、多くの人の目に触れて、初対面の人に『あっ、あなたがあの岳くん!』とか言われるのは、たまらなく苦痛なんですよね。
僕だって、自分の父親が、大人の友人の前で、「うちの子は……」なんて話すだけでなんだかイヤだったし。
「バカだ」と言われたら腹が立つ、「できる」と言われても「他人の前でそんなこと言って、恥ずかしくないのかよ」と反発する。
自分が「売り物」にされて、世間の目にさらされているような気がする。


ましてや、大ベストセラー、ですからね……
あんな「いい話」でさえ、当事者にとっては「迷惑」なのだよなあ。
おそらく、西原理恵子さんや、さくらももこさんの子どもたちも、「なんだかなあ」と思っているのではないでしょうか。


こういう作品というのは「全国の親たちを励ましている、感動させている」一方で、「自分の子どもを傷つけている」面がある。


恋愛モノ、とくに不倫とかに関しては、私小説系の作家の周囲の人たちは「たまらない」だろうなあ、と思うのです。
モラルに反していない「子どもの微笑ましいエピソード」でさえ、こんな感じなのだから。
そして、「フィクション」でさえも、読者はモデルを探したり、「これは作家の実体験に基づくものだろう」と勘ぐったりもする。
「こんな非道徳的なものを書くなんて、許せん!」なんて批判されたりもする。


とはいえ、身近なところに題材を得ないで作品をつくるというのは、かなり難しい。


絵画とか映画に関しては、それほどじゃないとは思うのですけど、たとえば、画家が裸の女性を描いていたら、子どもが学校で「お前の父ちゃん、エッチな絵を描いてるな」とからかわれる可能性だってある。
映画でバイオレンスやセックスシーン(いやほんと、僕自身も「セックス」とかいう単語を書くときって、ちょっと心配なんですよ)を描いていて、その「作者」として紹介されれば、ご近所や親戚からイヤミのひとつだって言われないともかぎらない。



Twitterとかで、「幼女好き!」とか「セックスしたい!」とか堂々と書いている人、たまにいますよね。
ああいうのって、すごい勇気があるのか、無知なのかどっちかなのだろうな、と思います。
本人は「キャラ」を演じているつもりで、世間もそう思ってくれるはずだと信じているのかもしれないけれど、発信者はプロ(警察や興信所など)が本気で調べればすぐにわかります。
あの人たちが現実で関係している人たちは、「まあ、ネット上でのお遊びだから」と寛容に受け止めてくれるのかどうか。


ブログとかで、「プチ自己表現」みたいなものをやっていてさえ、「親として最低」とか「こんな人の子どもに生まれてこなくてよかった」とか言われますからね。
ブックマーカーのなかには「とにかくそのエントリを書いた人を傷つけるのが趣味」みたいな人もいます。
ベストセラー作家とか芸能人であれば、そういうバッシングが何十倍、何百倍になるわけですから、並の精神力では潰れてしまうのではなかろうか。
「別に……」とか言いたくなるのもわかる。


「表現者として生きていく」ためには、「才能」と同じくらい、「覚悟」とか「図太さ」みたいなものが必要なのではないか、と思うのです。
ネットとかで手軽に反応をみることができる世の中ならば、なおさら。


それでも、「自分が表現すること」にこだわることができるのが「表現者として生きるための条件」なのではないかなあ、と。
しかしながら、「覚悟」や「図太さ」はあっても、新しいものを創り出す才能が致命的に欠けている人、なんていうのもいるわけで(というか、そういう人のほうが、才能も覚悟も持っている人より、圧倒的に多い)。


ギャラがもらえるわけでもない一般人としては、子どもに見られたら、僕のブログ人生も終わりかな、と思ってはいるんですよね。
でもまあ、本当にやめられるかどうかは、僕自身もあまり自信がないのだよなあ。

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