いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

ある「産休」と大島渚監督の言葉

colopon.hateblo.jp


僕は周りで見ていた経験しかないので実際のところはよくわからないのだけれど、妊娠中のつわりの時期って、かなりキツいのだろうな、ということは感じていました。
うちの場合は、共働きでしたが、妻が仕事をやめてもしばらくは食べてはいけそうだったので、「無理しないで仕事休んだら」と言っていたのだけれど、「でも、じっとしていたらラクとも限らないし、子供が生まれたら、しばらく仕事もできなくなるから」と、出産数カ月前まで働いていた記憶があります。
基本的に、医者というのは、ひとりいなくなったら、すぐに代わりを探す、というのが難しいということもあり、責任感、みたいなものもあったのでしょう。
大きな組織では、ひとりいなくなってもしわ寄せは来ないけれど、医者が3人の科で、1人いなくなると、それぞれの人の仕事は1.5倍になるわけですし。


もう20年前くらいの話になるので、書いても時効だと思うのですが、あの頃は結婚している女性医師が医局から他の病院に派遣されるとき、「女医さんは心配なんだよね。先生は、うちで働いている間に、妊娠する予定はないよね。妊娠されたら、医者がいなくなって困るから」と、派遣先の病院の偉い人に言われた、というのを何度か耳にしました。
僕にその話をしていた女性医師たちは、憤慨していたり、諦め顔で「こういう仕事、ですからね……さ、回診回診」と、その場を去っていったりしたものです。


そのときの僕は、「なんなんだよその病院!気にしないほうがいいよ」というようなことを言っていた記憶があります。
子供って、つくろうと思えばいつでもできるものではないのだから、その「チャンス」を制限するようなことを言われるなんて、しかも、あなた(その病院の院長)は医者だろう?って。


だが、実際に同僚の「産休」を経験したときは、大変でした。
ただでさえキツいところに受け持ち患者の数も、行う検査の数も増え、僕のヒットポイントはいつも真っ赤になっていました。
ラクで稼げるアルバイト先も、その産休中の先生が行くことになり、僕に回ってきたのは、キツくて安い、「ブラック当直」だったのです。
いや、これは仕方がない。子供が生まれるんだ、めでたいことなのだ。
……と自分に言い聞かせていたのですが、「なんでこんなしわ寄せが……」という想いは、心のなかにずっと澱んでいました。
仕事は増えても、ギャラは同じ(どころか、バイト代が減った分、かえって収入は少なくなった)。
妻は、「妊娠するかもしれないから」と、放射線を浴びるリスクのある検査に近づかなかった後輩のことを嘆いていました。
気持ちはわからなくはないのだけれど、いま妊娠している、というわけじゃないし、そもそも、仕事が回らなくなってしまう。


それは、社会がおかしい、システムがおかしい。
僕だってそう思います。
医者がひとり産休でいなくなったら、すぐに代わりがどこからかやってきて、滞り無く日常が続くような世の中であってほしい。
でも、現実は、なかなかそうはいかない。


当時の僕は、雲の上から第三者的にみた「社会」とか「産休」と、目の前にある「降ってわいたようなハードな状況」の板挟みになっていました。
他人事としてなら、「妊娠中は休むのが当たり前だし、社会や周囲はサポートしてあげなきゃ!」と簡単に言えるけれど、実際にそのサポートする立場になってみると、自分を納得させるのは、難しかったのです。
いや、たぶん納得できなかったから、こうして覚えているのでしょう。
「社会」を語るとき、その「社会」に自分を入れ忘れている人は、けっこう多い。
僕も、そうでした。


ただ、僕の場合は、その後、自分の妻の妊娠・出産というのがあって、その結果、僕のような影響を受けた人もいることは想像できるので、こういうのは巡りあわせというか、部活で先輩が後輩におごるようなもんだよな、というふうに「消化」できてはいると思います。
結婚しない人や出産しない人にとっては、理性ではともかく、感情的に「なんでこんな目に……」というのが、澱のように漂っているのかもしれません。


「みんなに迷惑をかけないように」なんて考えていると、妊娠・出産なんて、ずっとできなくなってしまうのです。
「人というのは、誰かに迷惑をかけないと、生きていけない存在なのだ、ということを、最近よく思います。
「あなたに迷惑をかけられた」と誰かに言われることをおそれていては、結局、身動きがとれなくなってしまう。
とはいえ、やっぱり、なるべく人に嫌われたくないしなあ、というのもあるんですよね。


先日、ある本のなかで、大島渚さんのこんな言葉を知りました。

(松竹退社から創造社旗揚げまでについて)

「人生は妥協の連続だが、周囲がどう言おうと自分の意志を貫くべき時機が数回訪れる。そのときはなりふりかまわず勝負しなくてはならない」


 僕はこれを読んで、「あの『我が道を切り開いて行く』タイプに見える大島渚監督にとっても、人生は『妥協の連続』だったのだな」と、ちょっと驚きました。
 そして、「自分の意志を貫く」というのは、普段から振りかざしていくべきものではなくて、いざというときに使うべき切り札なのだ、と理解したのです。
 日頃は、妥協することも、やむを得ない。
 ただし、ここぞという勝負のときには、本当に「なりふりかまわず」貫き通さなければならない。
 それほど「賭けて」いない状況で中途半端に自分の意志を主張したばかりに信用を失ったり、勝負すべきときに妥協してしまったりする人生って、少なくないはず。


 「妊娠・出産」って、多くの人生にとって、まさにこの「自分の意志を貫くべき時機」であって、だからこそ、周囲からどんなに白眼視されそうな気がしても、そのミッションを成功させることを最優先にしなければならない。
 日頃からワガママばかりでは、周囲の協力は得られないし、周囲に妥協してばかりでは、自分の人生がなくなってしまう。


 あの先生が産休中のとき、僕はとてもキツかったのだけれど、恨まれても、嫌われても、やるべきとき、やるべきことって、あるんだよね。
 誰が正しいとか間違っているとかじゃなくて、人が生きるというのは、そういうものなのだ。
 そもそも、そこであなたを嫌いになる人たちは、絶対に、あなたの人生に責任なんて取ってくれないのだから。


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