いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

迷惑な酔っぱらいと「安全保障関連法案」の話

 先日、長男を習い事に連れていったあと、バスターミナルのベンチに座って一休みしていたときのこと。

 その席に座る前に、その男のことは、気になっていたのだ。
 どうもかなり酔っぱらっているらしく、意味不明のことをぶつぶつつぶやいたり、わめいたり。
 おかげで、周囲のベンチには腰掛ける人もなく。
 僕も、どうしようかな……と思いつつ、ちょっと離れた場所に座ることにした。
 その日は、もうすぐ1歳になる次男も一緒に連れてきて抱っこしている状況で、かなり腕も足もくたびれていたのだ。
 抱っこひもを用意しておくべきだったか……


 そうして一息ついていると、後ろで、ガーン、ガーン、という大きな音がする。
 さっきの酔っぱらいが、ベンチを蹴り飛ばして、何かをまくしたてているのだ。
 僕たちのことを怒っているわけではなさそうだけれども、正直、カッとした。
 そもそも、社会は酔っぱらいに対して寛容すぎるのではないか、といつも感じているのだ。
 何やってんだ!蹴ったものが子供に当たったりしたら、どうするつもりなんだ!と言ってやろうかと思ったのだが、子供のことを考えると、やはり、こんな酔っぱらいとトラブルになるのは「百害あって一利なし」としか言いようがなく、僕は黙ってその場を離れた。
 近くに座っていたおばさんが、その酔っぱらいをたしなめていたようだったけれど、そいつは、クダを巻くばかり。


 駅前では、安全保障法案に反対する人たちが、大勢集まって、雨に打たれながら、声をあげていた。

「この、戦争法案で、わたしたちの子供が、戦場に送られるかもしれないのです! 有識者と呼ばれる人たちは、いまの世の中で徴兵制なんて成り立たないというけれど、いま、アメリカで起きているような、貧困や学資を稼ぐために軍隊に入るしかない、という状況は、『間接的な徴兵制』と言えるのではないでしょうか!」

 ああ、たしかにそうかもしれないなあ、というか、堤未香さんの本とか読んでるんだろうなあ。


 僕はあの「安全保障関連法案」には反対だったのだけれど、「戦争法案!」とか連呼しているのを聞いて、なんだかちょっとモヤモヤしていたのだ。
 彼らの目的が「とにかくこの安全保障法案を成立させないこと」であるのならばともかく、「自分たちの子供を戦場に送らないこと」であるのならば、あの法案を成立させようとしていた人たちと、目指しているものは似たようなものではないのか。
 あの法案は「アメリカ側につくことによって、他のところ(というか、北朝鮮とか中国を想定しているのだろう)は、日本に手を出しにくくなるだろう」すなわち、「大きな戦争をやらなくてもすむはずだ」ということなのだろうと思うから。
 それに、「日本だけ血を流さなければ、それで良いのか?」と問われたら、「そうだ」とは言いがたい。
 でも、自分や子供たち、身近な人たちが戦場に行くのは、やっぱり厭だというか、なんとかして防ぎたい。
 身勝手だけれど、それが本音だ。


 「日本が戦争で多くの犠牲を出さないために」というのが共通の目的であるのならば、お互いに妥協の余地はあるような気がする。
 「戦争法案だ!」「腐れサヨクが!」と、レッテルを貼りあって、断絶するよりも、もっとまともなやりとりができる可能性は、あったのではなかろうか。


 ……というようなことを考えていたところに、あの「酔っぱらいベンチ蹴り」で、僕はなんだかぐったりしてしまって。
 僕はこの酔っぱらいオヤジに、どう対応すべきだったのだろうか?
 その場から、そそくさと立ち去るのではなく、「酔っぱらってベンチを蹴ったりするな!」とたしなめるべきだったのか?
 誰かがそうしなければ、あのオッサンは、同じことを繰り返すのではないか。
 もちろん、赤ん坊を抱えて喧嘩なんて、するべきじゃない。
 しかしながら、今ここで「事なかれ主義」を貫けば、将来、この酔っぱらいの被害を受ける人が、出てくるかもしれない。
 それは、「そいつの運が悪かった」で良いのか?

 でも、もし相手が、強面の暴力団風の男だったら、同じことを考えるだろうか?
 そんなくだらない正義感みたいなものは、心の奥深いところに沈めて、さっさと逃げ出すのが「得策」だと判断したにきまっている。
 このオッサンだったら、万が一喧嘩になっても、負けることはあるまい、という「計算」もあったのだ。


 事を荒立てないのが「正解」なのか?
 ヒトラーの侵略行為に対して、フランスやイギリスが「このくらいで満足してくれるのなら、まあよかろう、俺たちも戦争イヤだし」と、譲歩を繰り返した結果、第二次世界大戦は勃発した。
 もちろん、譲歩しなかったら戦争にならなかったとは限らないのだが。
 ただ、もうちょっと「小さな戦争」で済ますことは、できたかもしれない。


 僕のあの場の行動は、たぶん、いち個人の処世術として、間違ってはいなかったと思う。
 1歳児を抱っこしながら酔っぱらいと立ち回りをやるような奴は、よっぽどの英雄か大バカで、たぶん後者だ。
 ただ、「とりあえずまともに取り合わず、かわしておけばいいや」という対応をしているうちに、逃げ場がなくなってしまう、ということもあるのだよね。


 「話せばわかる」を捨ててはならないのだということはわかっている、つもりだった。
 でも、「すべての人や状況で、話が通じる」とも思えない。
 相手がどんなに横暴だったり、理不尽だったりして、こちらが無罪でも、殴られれば痛いし、撃たれれば死ぬ。
 ある夕暮れに僕が体験した、ささいな災難でさえこんなに悩ましいのだから、国単位での「選択」の難しさなんて、想像もつかない。


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