ぼくはお金を使わずに生きることにした ☆☆☆ - 琥珀色の戯言 (id:fujipon / @fujipon2) http://t.co/Xs7KU1fdDS 「ミニマリスト」について考えるための一冊。
— FUJIPON (@fujipon2) 2015, 7月 8
結局のところ、いまの「ミニマリズム」の主流って、単なる「節約生活」ではなくて、「お金を使うかわりに、コミュニケーション能力を駆使して、必要なものを調達してくる生活」なのだと思う。だから彼らがブログとかに熱心なのだよな。でも、僕にはコミュニケーションによる負担のほうが大きい。
— FUJIPON (@fujipon2) 2015, 7月 8
僕自身、身の回りにモノが多すぎる、でもなかなか捨てられないし……というようなジレンマがあって、「ミニマリスト」という生き方には、けっこう興味があったのです。
「ものを捨てる生活」をしている人の本も、いくつか読んできましたし。
まあ、内澤さんや中崎さんが、「ミニマリスト」として公認されているのかどうかはわからないのですが、「なるべくものを持たない生活」を試みている人たちではあるのです。
僕が個人的に『はてな』で活躍されている「ミニマリスト」さんたちをみていて違和感があるのは「なんでこの人たちは、『シンプルライフ』を標榜しているはずなのに、ネットで発信しまくったり、徒党を組んだり、アフィリエイトで物を売りつけたりしようとしているのだろう?」ということなんですよ。
こういうのって、単なる「ライフスタイルネズミ講」みたいなものじゃないのか?って。
でも、冒頭のtweetで紹介した、この本を読み返してみて、なんとなく合点がいきました。d.hatena.ne.jp
著者は「カネなし生活」のために、ネットで協力者を募り、仲間とのコミュニケーションを密にして、さまざまななものや労働力を「調達」しているのです。
なるほど、いまの世の中で、「世捨て人」にならずに「ミニマリズム的」に生きるには、「仲間」が必要なのか。
phaさんは、シェアハウスで共同生活をおくることによって、家賃の負担を下げるという手段を提言されていますが、これも、「カネの代わりに、コミュニケーション能力を使う手段」なんですよね。
僕はやっぱり、いくら家賃が安くなっても、自分の生活を家族でもない人とずっと「共有」するのには耐えられないと思う。
逆にいえば、カネがない時代、時期の人間は、そうやって、コミュニケーション能力で、お互いの不足を補ってきたわけで、多くの人は、「可能であるならば、共同生活は避けたい」から、現状になった、というだけなのです。
そういう「個人主義」「分断主義」みたいなものが、ちょっと行き過ぎになったというか、本来は共同生活のほうが向いている人まで、「強迫観念」のように「個人でいること」が当然視されてしまっていることの揺り戻しが、きている面もありそうです。
ぼくはお金を使わずに生きることにした ☆☆☆ - 琥珀色の戯言 - http://t.co/uztMqnYyjs
これに近いことを実践してたのが私の叔母。立派どころか「単なるタカリでクレクレ妖怪」でしたよ。
— shamon (@shamonoir) 2015, 7月 8
前掲書について、こんな反応をいただいたのですが、僕はこれって、すごく貴重な話だなあ、と思ったのです。
昭和30年代の日本くらい、みんなが同じくらいの生活レベルで、モノがちょっとずつ足りないのであれば、「お隣からお醤油借りてきて」に抵抗はあまりなかったはずです。明日は、お隣から味噌を分けてもらいに来るかもしれない、という前提なのだから。
ところが、今の世の中での「ミニマリスト」って、それ以外の人からすると、こういう「クレクレ妖怪」に見えてしまうことが多いのではなかろうか。
だって、こっちは「味噌を借りる文化」を共有していないのだから。
「ミニマリスト」側としても、そういう空気は読めるので、「カネを使わないために、安心して貸し借りできる仲間」を求めて、ネットで「群れ」をつくっていく。
生きるために必要なんですね、仲間が。
僕は「コミュニケーションで疲弊しまくるよりは、お金でラクできるところは、してしまったほうが良い」と考えているので、ミニマリストにはなれそうにありません。
そもそも、苦手なんだよ、コミュニケーション。
むしろ、ミニマリストの人たちの社交性が羨ましいくらいです。
率直なところ、「なんか群れをつくってて、気持ち悪い」って思っていたんですよ、「ミニマリスト」って。
なんか選民的だな、とか。
でも、世の中の趨勢としては、「大量生産・大量消費」の時代が終わってきているのは確かだと思う。
普通の人間は、程度の差こそあれ「つつましく生きる」方向に舵を切らざるをえないのではないだろうか。
この本のなかで、著者の佐々木俊尚さんは、こう仰っています。
成長がない時代の新しい生き方を長期的に模索することは大切だ。それを否定はしていない。私もそうした新しい生き方を探す若者たちを応援し、さまざまに助言している。国家の領域を超えたグローバル企業に就職するエリート、新しい分野で起業に挑戦する人、海外に出る人、山あいの村でヒッピー村をつくる人、農業や漁業、狩猟など一次産業にあえて戻っていく人、さまざまな若い新しい生き方が現れてきている。
でもそういう生き方は、誰にでもできるわけではない。お手本となるロールモデルが少なく、前人未到の新天地にあえて乗り込んでいくのは、たいへんリスクの高い行為だ。試した人が少ないから失敗する可能性が高いし、全人格的な能力が求められる。だから現時点では、そういう新しい生き方は「選ばれた優秀な人たち」にしかできない選択肢だ。新しい生き方を賞賛しすぎることは、「選ばれた優秀な人たち」に入らない多くの人たちにとっては、落胆と絶望でしかない。
「それができるのは一部の人たちだけでしょう」
そういう声を、私はインターネットでも、トークイベントでも、人との集まりでも、いたるところで何度も聞かされた。本当に彼らの言う通りだと思う。
必要なのは両輪だ。一方では、新しい生き方を探す人たちを応援していく。彼らはこれからの可能性を切りひらき、新しい社会をつくる尖兵となる人たちだ。
もう一方では、普通の生き方をする人たち全員が、どう社会に包まれて無事に過ごしていけるかを社会全体で考える。それは「可能性」じゃなくて、絶対に「必要」なことだ。
佐々木さんは、彼らを「新しい生き方を探す人」だと定義しています。
身も蓋もない言い方をすれば、僕は、彼らは「炭坑のカナリア」だと思うんですよ。
そういう生き方をして、本当に生きていけるものか、実際に身を挺して実験してくれている人たちなのだから、邪険に扱ってはいけないな、大事にしなくてはな、と。
彼らが「生き延びることができる世界の範囲」を拡げてくれればありがたいし、有毒ガスにあたってダメになったら、「ああ、そこは危険だったんだな」と知ることができる。
そう考えると、むしろ、応援あるいは感謝すべきであって、バッシングしても、損するのは自分なのかな、と。
炭坑の奥に向かって飛んでいくカナリアに「バーカバーカ!」なんて罵声を浴びせているヤツがいたら、好感は抱けないしね。
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